『 クリスマス・メッセージ2013 』 2013/12/22 松田健太郎牧師

神様は、すべての始まりであり、終わりである方です。
私達が生まれる前、この世界が作られるよりもずっと前から、神様はいました。
神様は永遠の中に存在し、神様だけですべてが完成していていました。

神様は、すべてのものの創り主、主の主、王の王、そして愛のお方でした。
ある時神様は、愛の関係を表わすために世界を創り、人間を創りました。
世界のすべてのものは、神様の愛と秩序の中に、美しく、完全なものとして創られました。
そして神様は、その中でも、何にもまして人間を愛しました。
人間は、神に似たものとして創られ、神を愛し、互いに愛し合う存在でした。
ひとりひとりに個性が与えられ、ユニークで、この地上で果たす使命が与えられました。
神様は、この世界の管理を人間に任せました。

人間には自由が与えられ、すべてのことが許されていました。
神様は人間を愛していたので、全てのものを与え、喜びと幸せで満たしたかったのです。
ただひとつ、園の中央にある善悪の知識の木からだけは、とって食べてはならないと命じていました。
それだけが唯一、禁じられている事であり、神様に背く行いでした。
人間にとって、神様の命じることに従い、善悪の知識の木を食べない事は、神様を選び、神様を愛するという事でもありました。
それと同時に、命の源である神様に背き、離れることは、人間が命から離れ、滅びることも意味していました。
しかし、神様の愛にとどまり続ける限り人間は、安全に、幸せの中で暮すことができたのです。

それににもかかわらず、人間は神様に背きました。
あれほど禁じられていた、善悪の知識の木からとって食べたのです。
その裏には、神様の最愛の存在である人間を、自分と道ずれにしようとする悪魔の策略がありました。
それを食べれば、善悪が分かるようになり、神のようになれると、蛇の姿に身を潜めたサタンが嘘を教えたのです。
誘惑したのは悪魔でしたが、神様以外のものに従い、神様に背いたのは人間でした。

そして人間は、死んだ者となりました。
その肉体はまだ生きていましたが、神様との関係が完全に切れてしまったのです。
神様との関係を失った人間は、自分自身や、他のものを神にするようになりました。
神様のものであった善悪の判断は、自分勝手な価値観で決めるようになりました。
自分自身を恥ずかしいと思い、互いに責任を転嫁し、人同士の間にあった愛の関係は壊れました。
完璧だった人間という存在は、神様から離れるととても醜く、罪深い存在となりました。
そして人間が神様から離れたことによって、世界も呪われたものとなってしまったのです。

神様は悲しみました。
最愛のものを失う悲しみは、どれほどのものだったでしょうか?
しかし、人間が罪に陥った次の瞬間から、神様は人間に、救いの道を与えることを約束しました。
そして、罪と恥を自分の行いによって覆い隠そうとしていた人間のために、神様は動物を犠牲にし、その皮で衣を作り、彼らの罪と恥を覆いました。
そこから、神様による救いの計画が始まったのです。

神様から離れてしまった人間は、どんどん恐ろしい事をしていきました。
アダムとエバの子供たちの間には殺人が起こり、人が増えるとともに、地上には悪も増え広がっていきました。
やがて、彼らの考えることがすべて悪い事だけに傾くのを見ると、神様は一度地上を滅ぼして、神様とのつながりを持とうとしたノアの家族だけを残すことにしました。

しかし、神様の御心を求める人たちだけから再スタートしても、やはり人間は変わることがありませんでした。
しばらくして増えてくると、人間は一つのところに集まり、塔を建て、自分の力で神様に届こうとするようになりました。
神様は、それが無意味であることを教えるために、彼らを打たなければなりませんでした。

神様は、人類を滅びから救うという計画を実行するために、アブラムという商人の男を選びました。
救いの道は、アブラムの子孫から起こるのです。
アブラムには、アブラハムという新しい名前を与え、その約束を確かなものとしました。
しかしアブラムも、そして生まれてくる子供たちも、神様との関係を深め、理解し、ゆだねる事がなかなかできませんでした。
救いの道が与えられたというその約束は、子のイサク、その子供のヤコブへと受け継がれていきました。
彼らは、イスラエルという、人と神様とを繋ぐ祭司としての役割を与えられた民族へと増えていくはずでした。

ヨセフの時にエジプトへと移り住むことになった彼らは、いつしか奴隷にされて、支配されるようになってしまいました。
彼らの痛み、悲しみの叫びが大きくなった時、神様はモーセとその兄アロンを選び、イスラエルを解放させました。
モーセたちには、祭司として、また指導者としてイスラエルの民を導く使命を与えました。
やがて民全体が祭司としての役割を果たし、他の民族を神様のもとに導くためです。
しかしイスラエルの人々はいつでも彼らに背き、文句を言い、従おうとはしませんでした。
結局、彼らが約束の地であるカナンに行くために整えられるまで、40年もの歳月を必要としてしましました。

その間に、神様はモーセを通してイスラエルに律法を与えました。
これによって、人々はどれほど神様から離れてしまい、罪深い存在をなってしまったかという事に気づかせようとしたのです。
しかしイスラエルの人々は、自分たちを正当化し、正しものだと思い込むために利用しました。
神様とのつながりではなく、正しい者となる事によって、救いを得ることができると教えるようになってしまいました。

イスラエルの約束の地と定められていたカナンは、罪と悪にまみれてしまっていました。
そこで、イスラエルの人々がそこで祭司の民として生きていくためには、そこにはびこる悪を一掃しなければなりませんでした。
カナンは、聖絶される必要があったのです。
神様は、イスラエルの人々を使って、悪に染まってしまったカナンの人々を滅ぼす決意をしました。
しかし、今度はイスラエルの人々がその使命に背きました。
結局、カナンの悪はイスラエルの人々を苦しめ、あるいは快楽による虜にして、彼らを神様から引き離すようになっていきました。

やがてイスラエルの人々は、自分たちの王を求めるようになりました。
本当は、神様がイスラエルの王であり、その力と権威が及ぶはずだったのに、人々は目に見えない神様ではなく、自分たちと同じ姿を持った王を求めたのです。
神様は、仕方がなく、その中でも能力に優れたサウルを王として選び、イスラエルを治めさせようとしました。

しかしサウルは、王になるとすぐ自分の権力に酔いしれて、神様から離れ、自分の力と権威を誇示するようになりました。
そこで神様は、次の王様としてダビデを選びました。
ダビデは、失敗を繰り返しながらも神様との関係を大切にし、イスラエルの民の模範となって、良い方向に導こうとしました。
しかし、彼にも限界がありました。
それは、人の命には限りがあるという事と、ダビデは信仰を次の世代に伝えることができなかったという事です。

ダビデの子ソロモンには、神様からの特別な知恵が与えられました。
彼は、世界最高の知恵によってイスラエルを治め、平和の君として仕えていくはずでした。
しかし、最初は良かったソロモンは、国が繁栄してくると自らの知恵におぼれ、次第に神様から離れてしまいました。
その後に出てきた王たちは、その多くが神様の御心から離れ、イスラエルをますます神様から遠く離れた国にしてしまいました。

次に神様は、預言者を通して人々にその意思と言葉を伝えました。
神様から離れれば、そこには悲劇と滅びしかない事。
そして、自分のもとに戻ってくるようにというメッセージを、何人もの預言者たちを通して、人々に伝えました。
その言葉を聞いて悔い改め、神様のもとに戻ろうとする人たちもいましたが、多くの人々は神様よりも自分の都合を大事にし、目先の豊かさと喜びに心を奪われて、神様からどんどん離れていきました。

どんな方法を使っても、人間は良い方向には進んでいきません。
最初からやり直しても、悪い影響を与えるものを滅ぼしても、律法を与えても、霊的な指導者を与えても、王を与え、素晴らしい王や、知恵のある指導者が与えられても、預言者によって神様自身の言葉を伝えさせても、人々は何をやっても神様から離れ、滅びの道を歩み続けるのです。

神様が、そんな人間を救う方法は、ひとつしかありませんでした。
それは、神様自らが犠牲となって、その命を投げ出し、人間の命を贖う事です。

今から2000年ほど前、神様はわたし達を救うため、御子をこの地上に送り出しました。
それは、人が神様を離れた時から始まった、計画の完成のためでした。
自分に背き、今も背き続ける被造物である人間を救うため、自らのひとり子を、殺されるために送り出さなければならない。
そんな不条理な話はありません。
神様にとって、もちろんそれはつらい決断だった事でしょう。
それでも、わたし達を救うため、御子イエス様は、喜んで地上に来てくださいました。
何の変哲もない、貧しいマリヤという少女の元に。
臭く、汚い家畜小屋の、堅くて冷たい飼い葉桶をベッドにして。
それは、それ以外にわたし達を救う方法がないからです。

神様から離れてしまったわたし達には、神様の御心のままに生きるという事が絶対にできません。
本来創られたわたし達は、完ぺきで、素晴らしい存在でしたが、わたし達はそんな自分自身を、罪によって台無しにしてしまったのです。
イエス様が捧げて下さった命によって、わたし達の罪は赦されました。
救いは、イエス様の十字架によって完成されたのです。

でも、わたし達にも、その十字架による救いを自分のものとするために、しなければならない事があります。
それは、その救いを自分のものとして受け取るという事です。
そして、わたし達が神様に立ち返り、もともとあったはずの愛の関係に立ち返るという事です。

クリスマスは、そんなイエス様の誕生を祝うお祭りです。
クリスマスはしっかり休み、家族の関係を深めることももちろん大切なことですが、どうか神様との関係を見直す時ともしていただきたいと思うのです。
わたし達は、神様との深い関係を築いているでしょうか?
去年に比べて、その関係は深まっているでしょうか?
来年は、その関係をさらに深いものとして行く事ができるよう、心から祈りましょう。

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