エレミヤ1:1-10 『 エレミヤ1 まだ若い、と言うな 』 2014/01/12 松田健太郎牧師

エレミヤ1:1~10
1:1 ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
1:2 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。
1:3 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。
1:4 次のような主のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」 

皆さんは、神様の御業を経験したいでしょうか?
そのためにどうすればいいか、私たちは聖書の中から、先輩たちの経験を通してその方法を知ることができます。

今年始まる新しいシリーズとして、今回はエレミヤ書を選びました。
それは、ここから今の私たちが学べることがたくさんあるからです。
第一に、みなさんが自立した信仰生活を送っていくために、旧約聖書の読み方のコツ、特に預言書の読み方を知っていただきたかったという事。
第二に、今の時代(特に日本の)がエレミヤが活躍したころのユダ王国ととても似ているという事。
そして第三に、今の私たちクリスチャンに与えられている役割が、エレミヤがしたことと似ているという事です。

エレミヤ書は、自分だけで読み進めていくと理解することは難しい本です。
ですから、これからしばらくの間、難解な預言書であるエレミヤ書を読み進めながら、ともに信仰を成熟させていきたいと思います。

① 預言
さて、この本はエレミヤという預言者を中心にしてすべてのことが書かれています。
だから、預言書と呼ばれるんですね。
預言をする人のことが預言者と呼ばれる訳ですが、では”預言”とは一体何でしょうか?

ご存知の方も多いでしょうが、聖書の中の”よげん”は、予め言うという”予言”という字ではなく、神様から預かった言葉を語るという意味の”預言”という字を使います。
つまりは、神様が私たちに何を求めているかという事を伝えるのが、預言者の役割です。

現代において、またキリスト教において預言がどのようなものを意味するのかという事に関してはいろいろな立場があります。
でも一つ言えるのは、私たちは神様の言葉である聖書を持っているという事。
そして、私たちはこれをさまざまな形で他の人々に伝える使命を与えられているのですから、預言者たちと同じような役割が与えられているのだと思うのです。

神様は、ある時エレミヤに、この様に語りました。

1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

私たちはこれを何とな~く読んで、「エレミヤは産まれる前から預言者として定められていたのか、エレミヤはすごいなぁ」と思ったりするかもしれません。
でも、それはエレミヤだけの事なのでしょうか?
私たちだって、神様がひとりひとりに個性を与え、目的に従って創造されているのです。
私たちがこの時代に、この国の、この場所で、この家族のもとに生まれ、この姿と、この性質を持ってここにいるという事は、すべて神様の計画だという事が出来ます。
私たちには使命が与えらえていて、神様によってそれぞれの場所に遣わされている。
その意味では、エレミヤと何も変りません。

皆さんは、エレミヤがどのような預言者だったかご存知でしょうか?
エレミヤは、“嘆きの預言者”と呼ばれる預言者でした。
その頃のイスラエルは、その不信仰のために北と南に分裂し、北のイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされています。
そして残された南のユダ王国も、イスラエル王国と同じように滅びようとしていたのです。
人々が「まだ大丈夫だ。」「ユダ王国は神様の守りの中にある。」と希望を抱き続ける中、「ユダ王国も、神様に背いた罪の報いを受けなければなりません。」と悲しい宣告をしなければならなかったのでした。
エレミヤとは、そのような悲しい使命を与えられた預言者だったのです。

それを考えると、今の時代がこのころのユダ王国に似ているというのは、ちょっとドキッとする話かもしれません。
その辺りの事は、エレミヤ書をもう少し深く読み進んでいくにしたがって理解していただけるのではないかと思います。

② 若いと言うな
さて、預言者としての使命が与えられたエレミヤは、どのように反応したでしょうか?
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」

神様が私たちに使命を与えることを“召命”と言います。
エレミヤが召命を受けたのは、彼は18歳の時だったと言われているんです。
それが本当だとすれば、確かに若いですね。
でも、年齢が若くても、このような使命が与えられるのです。

私たちはどうでしょうか?
私たちの多くは、これよりもう少し年齢が上だと思いますが、神様から与えられる使命に対して、同じようなことを言っているのではないでしょうか?

私たちが、「福音を述べ伝えなさい。」「弟子を作りなさい。」と言われるとき、「いえ、私はまだ信仰的に若すぎるので。」「もっとしっかり勉強してから。」と言って、尻込みしているのではないでしょうか。
しかし、神様は私たちにこのように言うのです。
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。

1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」

私たちが、その働きに相応しくないのは当然のことです。
力が足りないし、準備も足りないし、経験も足りない。
ムリなのは当たり前なんです。
でも、神様は私たちに「彼らの顔を恐れるな。」と言います。
それは、神様が私たちとともにいて下さり、主が私たちを救い出してくださるからです。
神様が私たちを遣わされるなら、私たちが恐れる必要はありません。
私たちの神様は、神の国とその義とを第一にする者の必要を満たした下さる方であり、主を愛する者がなすすべての事を、益として下さる方だからです。

私たちが、神様の御業を目にする事がないのはなぜでしょうか?
その理由のひとつは、私たちが「自分にできる事しかやらないから」なのかもしれません。
自分にできる事であれば、神様の御業を必要としません。
そこに神様の御業が起こっても、私たちはそれに気づきもしないでしょう。
しかし、私たちが神様の命じることに従って、不可能なことの中に入っていく時、そこに神様の御業を目にするのです。

③ あなたを救い出す
さて、私たちが神様の御業を目にするために不可欠なもう一つの要素は、ここでエレミヤと神様との間にあるような親密な関係です。
神様と語り合い、それに対して素直に応答する信仰。
聖書の中で用いられている人たちは、ノアも、モーセも、サムエルも、ダビデも、ソロモンも、預言者たちもみんなそのような姿勢を持っていました。
私たちが神様に遣わされるのでなければ、そこに神様の御業を見ることもないわけです。

そうは言っても、聖書の中に語られているように神様の声を聴くことは、なかなかできません。
私たちがどれだけ耳を澄ませても、鼓膜に響くように、あるいは脳に語り掛けるようにして神様の声が聞こえる事はないだろうと思います。
しかし、明確ではないけれど、何となく心に語り掛けられているように感じるインスピレーションや想いというものを、私たちは神様の声として認識するのです。

もちろん、それが神様の声ではなく、単なる自分の思い込みであることもあるでしょう。
下手をすれば、神様ではなく悪魔のささやきだったりする事もあるかもしれません。
でも、それで失敗したなら、素直にそれを認めて、迅速に方向修正すればいいのです。
そういう失敗の繰り返しの中で、私たちは少しずつ、自分の思いや悪魔のささやきと、神様の導きとを聞き分けられるようになっていきます。
関係が深くなれば、愛する方とそうではない声との違いは、容易に聴き分けられるようになるのですから、

失敗を必要以上に恐れるのが、私たち日本人の傾向なのだそうです。
失敗をするのが嫌だから、やらない。
しかし、間違える事を恐れて耳を塞いでいたら、神様の声を聞く事も絶対にないのです。
何度も間違え、何度も方向修正をすればいいのです。

神様との親密さが深まり、成熟していく中で、神様は私たちにその御計画を示してくださいます。
私たちは、身近なところで神様が何かをしておられるのを感じるのです。
家族が突然、死後のことについて考え始めたり、ある時友人が、なぜかキリスト教の事に興味を持ち始めたり、会社の同僚が、深刻な悩みを持っていることがわかったり・・・。
それこそ、私たちに与えられている使命であり、神様はそこに私たちを招いておられるのではないでしょうか。

それは多くの場合、自分の手には負えそうにもないような出来事だったりもします。
でも神様は、使命を与えたならそれを成し遂げるための力も与えて下さるはずです。

1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。
1:10 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」

私たちに示されている、神様からの使命は何でしょうか?
どこの、だれの元に、今私たちは遣わされているでしょうか?
自分が伝えられるはずがないと、思うかもしれません。
失敗したらどうしようという不安もあるでしょう。
しかし今日私たちは、神様は必要な力を与えて下さることと、神様に従う姿勢を持ち続けるなら、失敗も益として下さることを学びました。
「恐れるな。」「まだ若い、と言うな。」と神様はおっしゃられます。
信仰によって、その一歩を踏み出そうではありませんか。

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