エレミヤ3:1-10 『 エレミヤ2 背信の子らよ、帰れ 』 2014/01/19 松田健太郎牧師

エレミヤ3:1~10
3:1 もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになれば、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。この国も大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、しかも、わたしのところに帰ると言っている。――主の御告げ。――
3:2 目を上げて裸の丘を見よ。どこに、あなたが共寝をしなかった所があろう。荒野のアラビヤ人がするように、道ばたで相手を待ってすわり込み、あなたの淫行と悪行によって、この地を汚した。
3:3 それで夕立はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をしていて、恥じようともしない。
3:4 今でも、わたしに、こう呼びかけているではないか。『父よ。あなたは私の若いころの連れ合いです。
3:5 いつまでも怒られるのですか。永久に怒り続けるのですか。』と。なんと、あなたはこう言っていても、できるだけ多くの悪を行なっている。」
3:6 ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた。「あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行なった。
3:7 わたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。また裏切る女、妹のユダもこれを見た。
3:8 背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。
3:9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した。
3:10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ。――」

先週から、エレミヤ書を読み始めています。
エレミヤ書を初めとする預言書は、自分だけで読むにはなかなか難しい本ですね。
それは、この預言が何について語られているのかが分かりにくいからです。
私たちは多くの場合、預言書を読みながらその文章の断片だけを理解し、現代の自分自身の状況と照らし合わせて読んでいくのではないでしょうか?
イザヤ書などは、心に響く文章が多いので、そういう読み方でも十分読み進めていくことができます。
しかし、エレミヤ書は文章だけをただ読んでいても、暗い気持ちになるような事ばかりで、ちっともおもしろくありません。

そこで、預言書を読むために必要なものは何かというと、その預言(神様の言葉)が語られたバックグラウンドがどういう状態だったかという知識だったりします。
ここに語られていることが、どういう状況にある人たちに語られているのかが分かってくると、そこで神様が本当に意図していることが何かという事も見えてきます。
そうやって、私たちがこの言葉を与えた神様ご自身に焦点をもっていくと、神様が伝えようとしている事の本質が見えてくるのです。

① 背信のイスラエル
エレミヤが預けられた預言の言葉は、ユダ王国に向けて与えられた言葉です。
先週もお話ししましたが、この時点で北イスラエル王国はすでに滅びてしまっていました。
その理由は何だったでしょうか?
最大の原因は、イスラエルが神様から離れ、偶像崇拝に走ってしまったことです。
偶像崇拝と言うのは、私たちが神様を捨てて、自分にとって都合の良い祝福だけを求めて、それを神様のようにあがめる事です。
そこにあるのは、生ける神様との親しい関係ではなく、自分の欲望を満足させるための手段です。
だからエレミヤの預言では、偶像崇拝が霊的な姦淫として描かれています。
私たちとの親しい愛の関係を求める神様にとって、偶像崇拝は最大の侮辱であり、神様をもっとも悲しませることなのです。

神様はこのように言っています。

エレミヤ2:7 しかし、わたしはあなたがたを、実り豊かな地に連れて入り、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは、入って来て、わたしの国を汚し、わたしのゆずりの地を忌みきらうべきものにした。

神様の存在自体を知らない他の人々ならまだしも、神様が特別な愛を注ぎ、守り育ててきたイスラエルが偶像崇拝に走るという事は、裏切り以外の何物でもなかったのです。

北イスラエルは、神様の愛を知る選ばれた民のはずだったのに、欲望に任せて神様から離れ、自ら滅びの道を選んでしまいました。
でもそれは、北イスラエル王国だけの事ではありません。
メシヤを生む祝福を与えられ、守られていた南ユダ王国も、イスラエルが滅んでいく姿を目にしていながら、やはり同じ道を進み続けていたのです。

3:8 背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。
3:9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した。
3:10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。――主の御告げ。――」

私たちはどうでしょうか?
私たちもまた、彼らと同じ道を進んでしまってはいないでしょうか?
私たちが本当に求めているのは、神様との深く親しい関係でしょうか?
それとも、自分にとって都合の良い祝福を与えてくれる偶像を求めてしまってはいないでしょうか?
私たちは、み言葉から、そして歴史から学んでいく必要があるのです。

② ヨシヤ王の改革
さて、エレミヤという預言者が起こされた時代は、ヨシヤという王様の時代だったという事がエレミヤ書の冒頭に書いてありました。
このヨシヤ王がどのような王様で、どのような時代だったかという事を理解していると、実は私たちには少し違うことが見えてくるのです。

列王記や歴代誌と言う歴史書を読んでいると、このヨシヤ王は偉大なことをした王として登場しています。
ヨシヤ王は8歳で王となり、その18年後、神殿修復の際に発見された律法の書と出会います。
そしてヨシヤ王は、自分たちがいかに神様の御心から離れていたかという事に気がつき、大宗教改革を起こすのです。

彼は、それまで建てられていた偶像の宮を徹底的に破壊し、律法を中心とした政治を行いました。
その改革の姿を見ていると、ユダ王国は神様に立ち返り、信仰を復活していくように見えます。
列王記には、このように記されています。

II列王記 25 ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった。

ヨシヤ王は素晴らしい王として描かれていますね。
ところが、まさにその時代に、エレミヤによってユダ王国の罪が糾弾されているのです。
ヨシヤ王は、全精力を向けてユダ王国の改革に取り組み、ユダ王国を神様に立ち返らせようとしました。
その姿勢は素晴らしかったし、行動も徹底していました。
でも、それによっては、ユダ王国の人々が変わることはなかったという事なのです。

ヨシヤ王による宗教改革の実態は、律法の復活でした。
ヨシヤ王は偶像を破壊し、人々に律法を守らせるようにしたのです。
しかし、ここでわかることは、律法を守る事によって人は変わらないという事なのです。

神様は、エレミヤを通してこのように語っています。

エレミヤ2:22 たとい、あなたがソーダで身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前では汚れている。―神である主の御告げ―

ここで言われているソーダと言うのは飲み物の事ではありません。
ソーダや灰汁というのは、洗剤としてこの時代に使われていたものでした。
つまり、「あなた達がどれだけ洗剤を使って、表面的にきれいにしたとしても、あなた達の内側の汚れは取り除くことはできない」という事です。
ヨシヤ王の律法による宗教改革は、確かに徹底したものではありましたが、それによって人々は何も変わらなかったのです。
律法は、私たちの表面的な行いを変えても、中身を変えることがないからです。
だから、ユダ王国が滅びに向かって進んでいるという事に関して、ヨシヤ王の改革は何の影響を与えることもできませんでした。
そして彼自身も、その後あっさりと戦争で殺されてしまうのです。

滅びに向かっている、私たちのこの世界に必要なものは、宗教的、律法的な改革ではありません。
たとえ多くの人たちがキリスト教を信じても、その信仰が律法的なものでしかなければ、変化は表面的なことでしかなく、人々が根本から変わるという事はないのです。


それでは、結局私たちはどうしたらいいのでしょうか?
神様は、いったい何を私たちに求めているのでしょう?
神様が、エレミヤに託された言葉はここにあります。

エレミヤ 3:12 行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。―主の御告げ―わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。―主の御告げ―わたしは、いつまでも怒ってはいない。

「帰れ」という言葉が、3章の中だけで買い繰り返されています。
「私に帰りなさい。」これが、エレミヤ書の中心メッセージなのです。
いや、聖書全体の中心メッセージだという事が出来るでしょう。

私たちは、私たちを創造し、全霊をもって愛してくれていた神様から離れてしまった。
神様以外のものを、神様であるかのように崇め、神様以上に求めてしまった。
それが、罪の根源です。
そんな穢れてしまった私たちに、「帰っておいで。」と神様は伝えているのです。

イエス様がした、放蕩息子の話を思い出します。
父親から、遺産の分け前だけを受け取って出ていった放蕩息子。
彼が全てを失い、汚い格好でとぼとぼと帰ってきたとき、父親は遠くの方から息子を見つけ、駆け寄り、抱きしめ、口づけをしました。
そして、「自分はひどいことをしてお父さんの財産を全てなくしてしまったから、家に戻る資格はありません。でも、お父さんの元で雇人として働かせてほしい。」
そう言おうとした息子の口をふさぎ、父はしもべたちに命じます。
一番良い服をもってきて、この子に着させなさい。
わが一族のしるしである指輪を、この子の指にはめてあげなさい。
足には靴を履かせなさい。
そして、仔牛を屠ってパーティをしようではないか。
死んでいたと思っていたこの子が、今帰ってきたのだから。

私たちが、神様の元に帰るとき、天では御使いたちを挙げて盛大な祝会が開かれると聖書には書かれています。
もしも私たちが、神様の身元から離れていたと気が付いたなら、今日、父の元に帰りましょう。
天のお父さんが、私たちの帰りを待ちわびています。
罪の借金を自分で返済してからではなく、きれいに自分を整えてからではなく、すべてを理解してからでもなく。
今こそが、その時です。

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