エレミヤ20:7-9 『 エレミヤ8 御言葉は、燃えさかる火のように 』 2014/03/09 松田健太郎牧師

エレミヤ20:7~9
20:7 主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。
20:8 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴虐だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。
20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

エレミヤは、神様から離れて偶像崇拝に走ったユダ王国に、神様の怒りを伝えるために送られた預言者です。
彼がユダの人々に伝えた預言は、大きく分けると3つの事でした。
① 今経験し、これから経験するユダ王国の痛みは、民が神さから離れた結果であること。
② 神様に立ち返ることなく、目先の平和だけを求めて生きることが、いかに危うい事であるかという事。
③ だから悔い改めて、神様に立ち返り、その関係を深めていく必要がある事。

これはすべて、現代の私たちの状況にも、同じように言える事です。
私たちも、自らの罪ゆえに痛みを経験し、神様に立ち返ることなく平和だけを求め、神様に立ち返る事を必要としています。
私たちがこの事を周りの人たちに伝えるなら、どうなるでしょうか?
無視され、煙たがられ、時には嫌がらせを受ける事さえあるのではないでしょうか。
他の国では、その事のために迫害を受け、命を奪われる人たちもたくさんいます。

エレミヤは、まさにそのような迫害の中にありました。
彼を迫害したのは、同じ神様を信仰する家族であるはずの、ユダ王国の人々でした。
そして、ユダ王国をこよなく愛していたエレミヤにとって、それはとても辛い事だったのです。

私たちも、現代の社会で同じような苦しみを経験します。
同じような困難を経験した、信仰の大先輩であるエレミヤから、私たちは何を学ぶ事ができるのでしょうか?

① 神様が惑わす?
さて、これまでもエレミヤは、たくさんの人々から嫌われ、追い立てられていましたが、その迫害がとうとう本格的なものになってきました。

エレミヤ20:1 祭司であり、主の宮のつかさ、監督者であるイメルの子パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。
20:2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある上のベニヤミンの門にあう足かせにつないだ。

エレミヤは、パシュフェルによって捕えられ、鞭で打たれ、足枷をはめられてしまったのです。
エレミヤが、初めて神様の言葉を受け取った時の事を覚えているでしょうか?
若かったこともありましたが、エレミヤは預言することに対して、最初から大きな不安を抱えていました。
そんなエレミヤに、神様は何と言っていたでしょうか?

エレミヤ1:19 だから、彼らがあなたと戦っても、あなたは勝てない。わたしがあなたとともにいて、―主の御告げ―あなたを救い出すからだ。」

「私が守るから、あなたは大丈夫だ」を神様は言っていたのです。
しかし実際は、迫害の手はどんどん多いくなっていき、エレミヤはついに捕えられ、鞭で打たれるようになってしまった。
守ると言っていた神様の言葉はどうなってしまったのでしょう?
エレミヤは思わずつぶやきます。

20:7 主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。
20:8 私は、語るごとに、わめき、「暴虐だ。暴虐だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。

「あの時言った神様の言葉は嘘だったではありませんか。
私はまんまと騙されてしまいました。
今や私は捕えられ、私を見て笑います。
私が語る『ユダが経験するのは、バビロン帝国による暴虐だ。』という言葉が、みんなを怒らせ、笑いの種となるのです。」

神様の御心のまま行っているのに、状況がどんどん悪くなることがあります。
神様の守りの中にあっても、苦難や艱難を経験することがあります。
それは、どの預言者たちも、使徒や、クリスチャンたちも同じでした。
神様に背く者たちの世界に、私たちは生きているからです。

今、世界中のキリスト教の中ではやっている考え方があります。
それは、“繁栄の神学(Prosperity theology)”と呼ばれているものです。
「あなたがイエス様を信じるなら、素晴らしい事ばかりが起こりますよ。あなたは病気が治り、お金持ちになりますよ。」という教えです。
極端な事を言えば、私たちはクリスチャンになって教会に行っていれば祝福ばかりがある人生となり、あなたが成功していないのは祈りや信仰が足りないからだという考え方です。

皆さんが、この教会以外のところにも出入りしていたら、そのような教えを多少は聞いたことがあるかもしれません。
しかし、聖書的に見てもそれは本当の事ではない事がわかりますよね。
“繁栄の神学”は耳触りがいいので、たくさんの人たちがはまってしまう考え方ではありますが、私たちはちゃんと現実を見ながら、神様への信仰を持っていきたいものです。
神様が与えようとしている祝福とは、私たちの人生から困難が無くなることなのではなく、罪によって困難だらけとなったこの世界の中で、神様とともに生きていく希望だからです。

② 福音がもたらす情熱
さて、この困難の中でつぶやきはもれましたが、エレミヤの反応はそのままでは終わりませんでした。
「もう預言なんてやめよう。神様に従うのはやめてしまおう。」と思っていたエレミヤの心を、突き動かすものがあったのです。

20:9 私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

御言葉が骨の中に問い込められて、燃えさかる火のようになって、しまっておくのに疲れてしまうというのはどういう事でしょうか?
具体的にはよくわかりませんが、骨のように固いものの中に、炎が閉じ込められると圧力が増していって爆発してしまいます。
神様のみことばは、そんな風にエレミヤの心の内に閉じ込めていくことができず、爆発するように溢れ出すと言うのです。

福音には、そのような力があります。
全ての人種、年齢、性別や性質のすべてを超えて覆い尽くす、神様の愛の広さ。
永遠の時を通して変わる事のない、その愛の長さ。
天までも高く私たちを引き上げる、その愛の高さ。
地獄の底までも私たちを追いかけて救って下さる、その愛の深さ。
主の愛のすべてを受け取った時、神様の愛の大きさは私たちを圧倒し、どこにも閉じ込めて置くことなんてできません。

私たちが神様の素晴らしさを知り、自分の罪深さを理解すればするほどに、その力は大きくなっていくのではないでしょうか?

復活したイエス様とエマオの途上で出会った二人の弟子たちは、それがイエス様だったと気づいたとき、このような感想を述べていました。

ルカ24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

皆さんの心には、このような心のうちに燃えるような思いはあるでしょうか?
イエス様は、このような熱い心を、私たちに与えて下さるのです。

③ 召しのあるところ情熱がある
たとえ預言者でなくても、困難な状況を経験する事が、私たちにもあります。
そんな時、私たちの信仰は揺らぎ、神様の御心がどこにあるのか、分からなくなることもあります。
「もうムリ。もう嫌だ。牧師なんてやってられない。」と思ったことが、僕自には何度もありました。
牧師という働きが、僕にとって単なる職業選択の中の一つだったら、僕はとっくの昔に放り出してしまっていたかもしれません。
しかし、それでは終わらないのです。
僕の心の内から爆発するように溢れ出す福音の言葉は、牧師の働きの中でこそ最大限に活かされるものだからです。

皆さんにも、そういう経験がないでしょうか?
「もう嫌だ、もう辞める。」と思っても、それに勝る情熱が心の内から沸き起こって、やらないではいられないような事が。
それは、直接福音を伝えるという事ではないかもしれません。
しかし、私たちが神様に与えられた働き、神様に召されている使命に生きようとする時、私たちの内にはそのような情熱が湧き上がるのです。

どれだけ辛くても、苦しくても、消える事がないパッションと言うものがあります。
それは、義務や、得る事ができる利益なんかから生まれて来ることはありません。
自分が生きている目的がそこにあるから、私たちはどんな困難も乗り越える事ができるし、そこに喜びさえも感じる事ができるのです。

誰かに仕える事。
誰かを愛する事。
何かを作り出す事。
それが、ただひたすら同じことを繰り返す事であったとしても・・・。
神様は、私たち一人一人に違う役割を与え、それぞれの働きに召しているはずですが、全てが神の国を作り、広げるために必要な働きなのです。

自分に与えられている働きを知ることができている人は、幸いです。
私たちは自分が何に召されているのか、明確にはわからない事も少なくないからです。
しかし、たとえそれが分からなくても、明確に名前を付ける事ができない働きであったり、それほど重要な働きのように思えない事であったとしても、神様が皆さんを心から愛し、その役割を与えていることを、忘れないでいてほしいのです。
自分に与えられている使命が何かを見つける事ができるかどうかよりも、使命が与えられているという事を知る事の方が、ずっと大切なことだからです。

エレミヤは、この後も何度も苦難を経験し、落ち込むこともたくさんありましたが、神様に用いられる素晴らしい人生を歩みました。
私たちもまた、あるべき人生を歩み、与えられている役割を十分に果たすことができる生き方をする事ができますように。
心のうちに燃える炎が、それを教えてくれるはずです。
祈りましょう。

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