エレミヤ23:1-6『 エレミヤ9 見よ、その日が来る 』 2014/03/16 松田健太郎牧師

エレミヤ23:1~6
23:1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――主の御告げ。――」
23:2 それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。――主の御告げ。――
23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。
23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――主の御告げ。――
23:5 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。

聖書は、全ての人類に向けた、神様からのラブレターです。
でも、旧約聖書はその性質上、どうしてもイスラエルの歴史が入ってきますね。
私たち、全ての人に当てはまる真理について話していくと同時に、時にはイスラエルという国の歴史についてお話ししていく機会がどうしても必要です。
歴史があまり好きではない方にとっては、ちょっと面白くない話かもしれませんが、聖書を理解していく上では知っていると役に立つのです。
エレミヤが預言者として活躍した時代の5人の王様について、なるべく簡単にお話ししていきたいと思います。

① ヨシヤ王
ヨシヤ王については、エレミヤ書のシリーズの最初の方にも何度かお話ししているので、あまりたくさん話す必要はないかもしれません。
ヨシヤ王は、ユダ王国の末期を支えた、最後の良い王さまでした。
それまでに広がっていた偶像崇拝を撤廃し、律法に則った国づくりをして、ユダ王国を変えようとします。
しかし、律法による変革は、国民を表面的に変える事が出来ても、内側から変える事はできませんでした。

そしてヨシヤ王自身も、エジプトのパロ・ネコとの戦いに敗れ、あっけない最期を迎えます。
このパロ・ネコは、もともとユダ王国を攻めるために来たわけではありませんでした。
同盟を結んでいたアッシリア帝国が、新興国バビロンに押され始めていたため、その危機を救うためにユダ王国を通ろうとしただけだったのです。
しかしヨシヤは、エジプトと戦う事を神様に訊ねる事もなく独断で決めると、その戦いのさなかに飛んできた流れ矢に当たって死んでしまいました。

ちなみに、この戦いの舞台となったのがメギドと呼ばれる地域ですが、黙示録の大患難時代に、決戦の場となるハルマゲドンというのは、このメギドの丘という意味の言葉です。

② エホアハズ
ヨシヤ王が死ぬと、民衆はヨシヤ王の子、エホアハズを次の王として任命します。
実は、このエホアハズと言う人は、ヨシヤ王の長男ではありません。
でも民衆は、長男のエホヤキムより、弟の方がましだと判断して、このエホアハズを次の王として任命したようです。

一方で、ヨシヤ王を倒したパロ・ネコは、アッシリアの援護のために北上しますが、結局それには失敗し、アッシリア帝国はバビロンによって滅ぼされてしまいます。
パロ・ネコはその帰り道にエホアハズを捕え、エホアハズ王を廃位にし、殺してしまいました。
結局このエホアハズは、3か月間だけ王となりましたが、ほとんど何もしないまま死んでしまったのでした。
エホアハズの事を、エレミヤはこのように預言しています。

エレミヤ22:10 死んだ者のために泣くな。彼のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼は二度と、帰って、故郷を見ることがないからだ。
22:11 父ヨシヤに代わって王となり、この所から出て行った、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう仰せられる。「彼は二度とここには帰らない。

③ エホヤキム
パロ・ネコは、エホアハズに代わり、その兄のエホヤキムを王として任命します。
この時代のユダ王国はエジプトの支配のもとにあったので、国民は重い税金を払わなければなりませんでした。
しかしエホヤキムは、エジプトに支払わなければならない以上の重い税金を国民から徴収し、新しい宮殿を建てたり、財政を浪費していました。
この事を、エレミヤはこのように預言しています。

エレミヤ22:13 「ああ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者。隣人をただで働かせて報酬も払わず、
22:14 『私は自分の家のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう』と言う者。
22:15 あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福だった。
22:16 彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。―主の御告げ―
22:17 しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行うだけだ。

その後、バビロン帝国はますます力を付けていき、ネブガドネザル王はついにパロ・ネコと対決し、エジプトを破りました。
エジプトは大きく後退し、その勢いのままバビロン帝国はユダにも侵攻してきます。
この時点で、ユダ王国は滅ぼされることこそありませんでしたが、多くの人々が人質としてバビロン帝国に連れていかれてしまいました。
これは、第一回目の捕囚と呼ばれています。
その時に捕囚されていった人々の中には、預言者ダニエルも含まれていました。

④ エホヤキン
エホヤキムが死ぬと、その息子エホヤキンが王として任命されました
しかしエホヤキンが王になって3か月後、バビロン帝国はエルサレムを包囲し、エホヤキムが民衆から搾取して蓄えたすべての財宝を奪われてしまいます。
この時にも、エホヤキンを含めたたくさんの人たちが捕囚となって、バビロン帝国に連れていかれました。
これが、第二回目の捕囚です。

エホヤキンは、このバビロン帝国にほとんど抵抗することなく、囚われの身となりました。
こうしてエホヤキンは、王となってわずか三か月で囚われの身となってしまいましたが、バビロン帝国では丁重に扱われたことが、せめてもの慰めとなりました。

22:24 「わたしは生きている、―主の御告げ―たとい、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤ(エホヤキン)が、わたしの右手の指輪の印であっても、わたしは必ず、あなたをそこから抜き取り、
22:25 あなたのいのちをねらう者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王レブカデレザルの手、カルデヤ人の手に渡し、
22:26 あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたの生まれた所ではないほかの国に投げ出し、そこであなたが死ぬことになる。
22:27 彼らが帰りたいと心から望むこの国に、彼らは決して帰らない。」

⑤ ゼデキヤ
囚われたエホヤキンが、正式なユダの王としてバビロン帝国に迎え入れられていましたが、その間ユダ王国を政治的に治める事になったのは、エホヤキンの叔父ゼデキヤでした。
ゼデキヤは気の弱い王さまで、エレミヤを真実の預言者として認めていたにも関わらず、周りの貴族たちに逆らう事ができず、バビロン帝国にも反発することができない、中途半端な立場をとりつづけました。
そしてゼデキヤの第11年第5の月、エルサレムは陥落しユダ王国の歴史は幕を閉じたのです。

エレミヤ 21:7 そのあとで、・・主の御告げ。・・わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」

⑥ ダビデの若枝
今日、メッセージの最初に読んだ聖書箇所は、そのような歴史が繰り返された後に続く、神様の嘆きと、約束の言葉です。
もう一度、読んでみましょう。

23:1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。――主の御告げ。――」
23:2 それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。――主の御告げ。――

ここで1節に語られている牧者というのは、ユダ王国の王たちです。
民を指導するリーダーであるはずの王たちは、むしろ民を散らし、顧みる事がありませんでした。
神様はそのような王たちを怒り、彼らにはそれぞれに裁きが下されることとなりました。
これが、人間が王となり、国を治めさせようとした結果です。
そもそもイスラエルに王を求めたのは、サムエルの時代のイスラエル人たちでした。
しかし人は、決して人を導くことができず、正しい道を歩ませることができませんでした。

旧約聖書の話は、この繰り返しです。
神様は律法を与え、祭司を任命し、裁き司を選び、王によって治めさせ、預言者によって導こうとしましたが、どれもうまくいきませんでした。
人の力では不十分なのです。
無理なのです。
なぜなら、全ての人は神様から離れ、罪人となってしまったのですから。
だから、神様の側からの働きかけが必要なのです。

神様はまず、捕囚に合ったユダヤ人たちを、もう一度この地に戻すと宣言します。

23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。
23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。――主の御告げ。――

そして、この言葉が来るのです。

23:5 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。

ここで語られている若枝とは、メシヤ、キリストの事です。
このような話の流れの中で救い主の事が出てくるので、人々は救い主はユダ王国の真の王としてこの地上に生まれるのだと勘違いしたのも無理ありません。
でも、神様が約束していた王は、本来そうあるべきだった神様ご自身であり、政治や経済と言うシステムだけではなく、私たちのすべてを支配する王の王の事でした。

人々は失敗し、国が亡び、家族が殺され、捕囚されてしまうという大きな痛みを通して、神様の憐れみと救いを求める気持ちがどんどん高まっていったのです。
人間ではダメだ、人の力ではムリだという事を本当に思い知った時、私たちは心から神様を求める事ができるのです。

この時からさらに600年後、人々が待望していた救い主がこの地上に送られました。
イエス・キリストこそ、神様の答えでした。
罪の影響を受けやすく、表面的にしかなかなか変わる事ができないわたし達、このままでは滅ぶしかないだろうわたし達を救うために、神様はひとり子を与えて下さったのです。

この王は、今も私たちとともに、私たちの内に生きておられます。
皆さんは、この王を心のうちにお迎えしているでしょうか?
全ての栄光が、この王の中の王、イエス様とともにありますように。

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