エレミヤ31:1-6 『 エレミヤ10 永遠の愛をもって、あなたを愛した 』 2014/03/30 松田健太郎牧師

エレミヤ31:1~6
31:1 「その時、―主の御告げ―わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」
31:2 主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」
31:3 主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
31:4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。
31:5 再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。
31:6 エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」

永遠の愛って、素晴らしいですよね!
神様は、永遠の愛で私たちを愛してくださっているんです。
嬉しいですね。
でも、永遠の愛で私たちを愛したとは、どういう事でしょうか?

もしかしたら皆さんには、「この人を永遠に愛している。」と思えるような人がいたりするかもしれません。
いなかったら、いたらどうだろうと想像してみてください。

皆さんが、ずっと一途にその人を愛していて、結婚をしたとします。
ところが、その人はあなたの事を意にも介さず、裏切り続けるのです。
複数の異性と肉体関係を持ち、好き勝手なことをして家に帰っても来ません。
しかし、何か問題が起こると、あなたのところにきて、助けを求めるのです。
「困ったことになった。助けてほしい。」
「すぐにお金が必要なんだ。」
「病気になってしまったの。」
あなたはその人がかわいそうになって助けてあげます。
でも、そうやってあなたが助けたために必要が満たされ、状況が良くなってくると、その人はまたあなたの元を去って、自分の好きなようにふるまい始めるのです。

どうでしょう?
みなさんは、そんな人を愛し続ける事ができるでしょうか?
みなさんは、酷い裏切り行為をされた人を、どれだけ赦し、どれだけ愛することができるでしょうか?
とても難しい事ですね・・・。

もしも「できるかも?」と思った方がいらっしゃったら、それは3つの可能性が考えられます。
ひとつは、皆さんが神様と同じレベルの愛を持っているという場合。
でも残念ながら、それはまず考えられません。

ふたつめは、実は結局その相手を愛していない場合。
相手を愛していなければ、どれだけ裏切られ、傷つけられても何という事はありません。
相手を愛していれば愛しているほど、裏切られれば傷つくものなのです。

みっつめは、共依存関係にある場合。
これはちょっと危険です。
これは一見、裏切った相手、自分を酷い目に合わせる相手に対しても愛を注いでいるように見えるのですが、実は「こんな相手を愛することができる自分」を愛しているのです。
人の役に立つことによって自分の存在意義を見出そうとする価値観からくるもので、場合によってはDVなどを受けるようになる可能性もあるので、後でちょっと相談してください。

いずれにしても、エレミヤが預言者として、ユダ王国に遣わされた時代、神様とユダヤ人との関係は、まさにこのような関係にありました。
それを考えると、ここに至るまでエレミヤが伝えてきた、たくさんの怒りの言葉もうなづけます。
神様は、ユダを愛していたからこそ張り裂けるような思いに駆られて怒りを露わにしたし、共依存ではなかったからこそユダを滅ぼそうとまで考えたのです。

しかし、神様はそんなユダを、なおも愛し続けると決断します。
「永遠の愛をもって、私はあなたを愛した。」という言葉は、そんなユダの人々に向けて神様が放った、愛の宣言なのです。

それを思いながら、もう一度この言葉を読んで、味わってみましょう。

31:3b「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
31:4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。
31:5 再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。
31:6 エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」

ユダの人々は、神様から離れたというこれまでの罪の結果を味わうために、たくさんの苦難を経験します。
バビロン帝国に敗北し、王様も、国民も連れていかれ、家族がバラバラになります。
たくさんの痛み、苦しみ。
それは、すべて彼ら自身が、神様のふところから飛び出して、偶像崇拝に走った事の結果です。

しかし時が経ったとき、彼らはもう一度この地へ戻ってきます。
癒されないと思った痛みは癒され、止まらないと思った涙は止まり、二度と見る事がないと思った笑顔が、もう一度この人々に戻るのです。
それはすべて、神様が注いだ永遠の愛の結果でした。
ユダの人々の酷い裏切りを、神様は赦し、愛で包んだのです。

私たちはどうでしょうか?
私たちは、ユダの人々とは違うと言い切れるでしょうか?
私たちもまた、神様に創造された存在であり、神様の大きな愛を注がれています。
そんな神様を私たちは忘れ、自分の事に夢中になり、まるで他のものが神様であるかのように振る舞い、無視していたりしないでしょうか?
そのくせ、何か大変な事が起こると神様にすがり、自分が作った借金を肩代わりさせ、そうしてくれるのが当然のような顔をしていたりしないでしょうか?

みなさんはどうかわかりません。
でも僕は、自分自身の中にそのような自己中心的な思いがあり、ユダの人々と変わらず、神様の怒りと裁きを受けるべき人間だという事を知っています。
しかし、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」というこの言葉は、そんな私たちに向けられた言葉でもあるのです。

神様のこの永遠の愛の言葉は、やがて行動へと変わります。
2000年前のイスラエル、神様は人間としてこの地上に姿を現し、人間として生活をし、そして私たちすべての罪を背負って十字架にかかりました。
永遠の存在であり、この世界のすべてを創造した神様が、こんな私たちのために、命を投げ出して下さったのです。

十字架の上でイエス様は、恨みがましい声を一つもあらわにすることはありませんでした。
「こんなにいろいろしてやったのに・・・」とも、「覚えてやがれ」とも言いませんでした。
イエス様が私たちのために十字架にかかられたというこの行動は、この時約束した永遠の愛の表れでもあるからです。

イエス様は罵られても、罵り返さず、ただ屠り場に引かれていく小羊のように黙って連れていかれ、最期には十字架にかけられました。

神様の永遠の愛が、私たちの上には注がれています。
私たちには愛することができませんが、神様はこのような愛で、私たちを包み込んで下さるのです。
その愛を受け止めませんか?
そして、私たちの愛は永遠ではなく、ちっぽけなものでしかありませんが、その小さな愛で、神様を愛していこうではありませんか。

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