ダニエル9:1-3, 15-19 『 ダニエル9 ダニエルの祈り 』 2014/07/20 松田健太郎牧師

ダニエル9:1~3、15~19
9:1 メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、
9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。

9:15 しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行ないました。
9:16 主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。
9:17 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。
9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
9:19 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」

さて、ダニエル書の続きですが、今日は黙示の話からちょっと休憩して、祈りについてのお話です。
実を言うと今日のメッセージでは、この部分は軽く流して、9章の後半にある黙示についてお話しようと思っていました。
ところが、メッセージの準備を始めるなり、祈りについて考えさせられる言葉とたくさん出会う事になり、自分自身が祈る中でも、神様の御心は祈りについて話すことにあるという事がわかりました。

祈りとは何でしょうか?
聖書の中で描かれている祈りとは、お願い事をする事ではなく、何かを念じて何かを実現しようとする事でもなく、神様との対話です。
何のために神様の対話するのでしょうか?
それは、神様との関係を深めるためであり、わたし達が神様の御業を経験するためです。

聖書では、神様と人との関係はすごく近く、人々に語り掛けたり、奇跡が起こったりしているのに、自分にはなぜそれが起こらないのだろうと思ったことはありませんか?
もしそう感じているとしたら、その原因は祈りにあるのかもしれません。
今日は、ダニエルの祈りを通して、祈りについて学んでいきましょう。

① ダニエルの祈り
バビロン帝国がメディア・ペルシャ帝国によって滅ぼされ、ダリヨス王による統治が始まったその年、ダニエルの元にひとつの書物が届きました。
それは、預言者エレミヤによって書かれた預言の書です。
そう、私たちも知っている、あのエレミヤ書です。
その中にあるエレミヤの預言の言葉を通して、ユダ王国の捕囚は70年で終わり、神殿が回復されるという事をダニエルは知ったのです。
実際にその言葉を見てみましょう。

エレミヤ29:10 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。

ダニエルが捕囚によってバビロンに連れて行かれたのが、BC605年あたりだったと言われています。
そして、メディア・ペルシャ帝国がバビロンを打ち破り、ダリヨス王による統治が始まったのは、BC539年ころ。
この時点で65年が経過していたことになります。
エレミヤによって預言されていた“70年”という期間は、おそらくはBC587年のエルサレム崩壊から、BC518年の神殿完成を表していると思われますから、ダニエルがこの預言の成就を目にする事はできなかったかもしれませんが、神様の時が近づいているのだということが確かにわかったのです。

ダニエルは第一回の捕囚の時に、まだ10代半ばという年齢でバビロン帝国に連れてこられ、異国の教育を受け、異教の文化の中で生きる事を強いられました。
王様に仕える身でしたから、貧しい暮らしではなかったでしょうが、命の危機に直面する事もしばしばありました。
もしも皆さんがこのような状況の中に置かれ、しかしついに故郷に帰る時が迫っているというこの預言の言葉を知ったらどうするでしょうか?

この事を聞いた時、ダニエルは祈ったのです。

9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。

まず、「ばんざ~い!」と言って喜ぶでもなく、これまでの長い月日に思いを馳せるでもなく、あるいは「本当の事だろうか」と疑うのでもなく、彼は祈ったというのです。
ダニエルには、祈るのが当然の事でした。
彼はいつでもそのようにしてきたし、例え獅子の織の中に入れられることになっても、祈ることを止めようとしなかったのです。

これは僕自身にとっても反省させられる話ですが、いつでも、どんな時でも祈る習慣を持つことは、私たちにとってすごく大切な事です。
私たちが祈るという事は、私たちの心が神様に向かっているという事を意味しているからです。
私たちがいつでも、どんな時でも祈るという事は、いつでも、どんな時でも神様を思っているという事です。
いつでも神様と共に時間を過ごしているから、私たちは神様との距離をもっと短く感じ、関係を深めていく事ができるのです。
では、ダニエルはどのように祈ったのでしょうか?

② 悔い改めと執り成し
もし私たちがユダヤ人だったとしたら、国が滅ぼされ、捕囚されてしまった後どのように祈るだろうと考えてみて下さい。
「神様どうしてこんな事が起こるのですか? なぜ守って下さらなかったのですか? 私たちを愛してはいないのですか?」と神様を責めるような祈りをしたかもしれません。
そして、「早くこの状況から助けて下さい。」と神様に催促するのです。
私たちは苦難の中にある時、よくこのように祈るのではないでしょうか?

しかし、ダニエルの祈りはそうではありませんでした。
ユダ王国が犯してきた罪の悔い改めと、執り成しから始まるのです。

ダニエル9:4 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。
9:5 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行い、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。
9:6 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。

そもそも、神様がイスラエルと言う国を建てるにあたって、モーセを通して約束をしていました。
「私はイスラエルを祝福する。しかし、あなた達が私から離れるのであれば、あなた達は呪いの中にある事を知りなさい。」
神様はこの事について、何度も何度も警告しています。
聖書の流れから考えるなら、イスラエルとユダが滅びなければならなかったのは当然の結果です。
それはただ、運悪くアッシリア帝国やバビロン帝国という強い国が起こって彼らを攻め滅ぼしたのではなく、イスラエルが神様から離れ、聴き従わなかった事の結果なのです。

しかし、エレミヤの預言を信じるなら、そのユダ王国を、神様は回復させると約束しておられる。
だからダニエルは、その事を祈り、神様に救いを求めたのです。
ダニエルは、祈りをこのように閉じていきます。

9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。
9:19 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」

神様がユダ王国を回復なさるのは、ユダの人々が素晴らしいからでも、罪を悔い改めて良い人間になったからでもありません。
それは、ただただ神様からの恵みであり、あわれみとしか言う事ができないのです。
ダニエルは、ユダ王国の上に神様が恵みとあわれみを注ぎ、エレミヤの預言が成就する事を心から願い求めました。
それこそが、ダニエルの祈りなのです。

③ 何のために祈るのか?
神様のご計画なら、祈ったって祈らなくたって結果は変わらないんじゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。
ましてやこの場合、神様ご自身が70年後に回復すると言っているのだから、今更ダニエルが祈り求める必要なんてないじゃないかという気もします。
でも、神様は私たちに祈ってもらいたいのです。
私たちが祈るまで、神様が何もしてくれない事さえあります。
なぜでしょう?
それは第一に、私たちの想いが神様の御心と一致する事を、神様が求めているからです。
祈りが現実となるという事は、私たちの祈りが神様の御心と一致している証拠なのです。
第二に、私たちの祈りが現実となる時、そこに神様の栄光があるからです。
祈りを実現するのは私たち自身の力ではなく、神様の力なのですから。
そして第三に、私たちの祈りを通して神様の栄光が表されることによって、他の人たちが神様の栄光を目にする事になるからです。

イエス様はこういう風に言っています。

ヨハネ17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

私たちは、日々さまざまな問題に直面します。
その時、私たちに必要なのは、何よりも祈ることであるはずです。
せっかく祈りについてのメッセージですから、今日のメッセージは共に祈っていく事によって閉じたいと思います。
これから心配になってくる日本の平和のため、今戦争となりかけているイスラエル・パレスチナ情勢のため、そしておひとりおひとりが抱えている問題のため、共に祈る時を持ちましょう。

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