ルカ1:46-55 『 ルカ2 マリヤの賛歌 』 2014/12/21 松田健太郎牧師

ルカの福音書1:46~55
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

先週は、急きょ山本昇平さんを招くことになり、メッセージの内容が変わってしまいましたが、聖書は新約聖書に入りました。
先々週のお話を思い出していただきたいのですが、イスラエルの歴史を振り返っていく中で、人々の心には救い主を求める心が大きくなっていったのを見ましたね。
400年という長い間、神様はイスラエルのために預言者を送らず、沈黙が続いていました。
その沈黙を破るように、一つの出来事が起ころうとしていたのです。

① 400年ぶりの希望
ユダという国に、ザカリヤと、エリサベツという夫婦がいました。
彼らは素晴らしい信仰を持った、いい人たちでしたが、彼らには子供がいませんでした。
夫のザカリヤは祭司で、今年は神殿に入って香をたく勤めをする事になっていました。
祭司は、一生のうちに一回しか、神殿で香を炊く仕事をする事をする事ができません。
中には、生涯この仕事にあずかれない祭司もいるという事ですから、ザカリヤも緊張していたことでしょう。
ザカリヤが香を炊く間、他の人々は神殿の外で、ザカリヤのために祈っていました。
聖なる働きのために、とりなしの祈りをする事は大切な事ですね。

しかしその時、神殿の中に、あるはずのない他の人の気配が起こったのです。

ルカ1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われた。

「出た~!」っていう感じですよね。(笑)
幽霊でも怖いですが、ここは神殿ですから、神様かもしれません。
神様と顔と顔を合わせる事があれば死ぬと言われていましたから、それはそれでもっと恐ろしいです。
「もう、ダメだ。自分は死んだ。」ザカリヤはそう思ったのではないでしょうか?
しかしそれは、神様ではなく、御使いでした。
そしてその御使い、ガブリエルがザカリヤに伝えたのは、死の宣告ではなく、喜びをもたらす知らせだったのです。

ルカ1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

それは、長い間子宝に恵まれなかった老夫婦に、子供が与えられるという知らせでした。
それだけでなく、それは400年間与えられなかった預言者が、この地上に送られるという知らせでもあったのです。

ザカリヤは、にわかにはその事を信じることができませんでした。
二人共もう年をとっていて、子供が生まれるような年齢ではなかったからです。
「どうしてどれが本当だと信じることができるでしょう?」と言ったザカリヤに与えられた印は、これから子供が生まれるその時まで、喋ることができなくなるという印でした。
それはまるで、「あなたはつべこべ言わずに黙って見ていなさい。」とでも言われたかのような出来事でしたが、ザカリヤとエリサベツの間には、確かに子供ができたのです。

それは、長いあいだ子供が授からなかった夫婦にとっても大きな希望でしたが、イスラエルにとっても素晴らしい贈り物でした。
その時に授かった子供こそ、聖書の中で預言されていた荒野で叫ぶ声、人類に希望を知らせる最後の預言者、バプテスマのヨハネだったのです。

② 人類の希望
ザカリヤとエリサベツの身に、尋常ではない出来事が起こってから数ヵ月後、なんの変哲もないひとりの少女マリヤの元にも、同じ御使いガブリエルが現れました。
マリヤは、ヨセフと結婚の約束をしていましたが、結婚式にはまだ時間がありました。
ガブリエルは、そんなマリヤのもとに来て、このように言ったのです。
ルカ1:28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

御使いの突然の挨拶に驚いて見ていると、御使いは続けてこのように言いいました。

ルカ1:30b「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

「男の子を産みます。」と言いますが、マリヤはまだ結婚もしてません。
子供が生まれるはずもないことは、まだ幼さを残しているマリヤにもわかります。
マリヤはその疑問を素直に告げました。

ルカ1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

御使いは、マリヤが夫によるのではなく、聖霊によって身ごもるのだとだけ告げました。
それは、イザヤを通して預言されていた通りでした。

イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

マリヤがその言葉を知っていたかどうかはわかりません。
マリヤはただ、このように答えたのです。

ルカ1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

主の道を整える最後の預言者、人類が神様から離れてしまったその時から約束されていた救い主、そのふたりが同じ時代に、親戚同士として生まれることになったのですが、そこにはふたつの夫婦の信仰がありました。
彼らの信仰によって人類は希望を得ることになったのです。

私たちは、彼らほど大きな使命を受けるわけではないかもしれません。
でも神様は、私たちそれぞれにふさわしい働きや役割を用意しているはずです。
その中には、今の私たちには到底信じる事が難しいような出来事もあるかもしれません。
実は、神様の計画の多くは、不可能と思えるような事の中にある事も少なくないのです。

皆さんは、こんな自分自身を通して、神様が何か大切なことをなさろうとしている事を、信じることができるでしょうか?
神様が、私たちを使って誰かを愛し、私たちを使って誰かを救い、私たちを使ってミニストリーを始めようとしてると信じることができますか?
もっと能力があり、もっと素晴らしい人格の人が何かをすると思っていませんか?
でも神様は、私たちにはできないからこそ私たちを選び、能力がないからこそ私たちに力を与えて下るのです。
だから私たちは、そんな時にこそ、マリヤのように、何でもできる神様を信頼し、すべてを委ねていきたいですね。

③ マグフィカート
さて、このようにしてエリサベツとマリヤのお腹には、それぞれ新しい命が宿りました。
ザカリヤとエリサベツにとっては、もう諦めかけていた子供でしたから、とにかく嬉しかったでしょうね。
でも、マリヤにとっては状況がもっと複雑で、心配の種がたくさんありました。
何しろ結婚もしていないのに、子供ができてしまったのですから。
こんな不思議なこと、どうやって婚約者ヨセフの理解を受けることが出来るだろうか?
結婚する前に妊娠してしまうなんて、周りの人達は何と言うだろうか?
時代が時代だったので、大変なことになることは目に見えていました。
そこでマリヤは、同じように奇跡によって子供を授かった、エリサベツに会いにいくことにしたのです。

山地にあるザカリヤの家を訪れると、それを出迎えたエリサベツは聖霊で満たされ、お腹にいるヨハネも体内で激しく動き出しました。

ルカ1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

「これからどうなるのだろう?」という不安に苛まれていたマリヤにとって、エリサベツがこのように出迎えてくれたことは大きな喜びとなりました。
自分の中には確かに子供が宿っていて、それは確かに神様が与えられた希望の子供だということを、この時初めて実感できたのではないかと思います。
この時にマリヤが言ったことが、今日の聖書箇所に書かれている言葉です。
日本語では、『マリヤの賛歌』と呼ばれるこの歌は、ラテン語では『マグニフィカート』という言葉で呼ばれています。
マグニフィカートといのは、“大きくする”という意味のラテン語ですが、マリヤは神様を偉大な方としてほめたたえているのです。

ルカ 1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

まりや自身は、いろいろな心配を抱え、両手放しで喜べるわけではありませんでした。
でもマリヤの魂は神様をあがめ、マリヤの例は、救い主なる神を喜び称えるのです。

神様が私たちのうちに何かを計画される時、私たちは必ずしも嬉しいだけだとは限りません。
そこにはたくさんに試練が伴い、私たちにとっては辛く苦しい状況も必ず起こるからです。
でも、そんな私たちを慰めることができるのは、ひとつには同じように使命を与えられている兄弟姉妹だということ。
そして、私たちの気持ちが重い時にも、私たちのたましい、私たちの霊が神様を見上げる時、そこには偉大な神様を讃える喜びが満ち溢れるのです。

神様は、私たちの内にも何か素晴らしいことを起こそうとしています。
それを信じることができるでしょうか?
そして、それを喜ぶことができるでしょうか?
このクリスマスの時、私たちの内にも与えられた新しい命を思って、その喜びを分かち合っていきましょう。

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