ルカ2:21-38 『 ルカ4 シメオンの祝福 』 2015/01/04 松田健太郎牧師

ルカの福音書2:21~38
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ―それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばなければならない」と書いてある通りであった―
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対のしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。

先週はイエス様の誕生について共に学びましたね。
今日はその続きです。
イエス様が生まれてから間もないころに起こったいくつかの出来事について、ルカは記録を残しています。
これはおそらく、後になってイエス様のお母さんであるマリヤに聞いたことでしょうね。
それでは早速、赤子の頃のイエス様について、一緒に見ていきましょう。

① 三つの儀式
ヨセフとマリヤは、信仰深いユダヤ人でしたので、律法をしっかりと守っていました。
この当時ユダヤでは、赤ちゃんが生まれると3つの儀式をする事が律法で定められていました。
まずひとつ目は、8日目の割礼。
男の子は、生まれて8日目に割礼を受け、この時に名前が命名されます。
御使いに伝えられていたように、ふたりはこのこどもにイエスという名を付けました。
ふたつ目は長子の贖い。
聖書にはこのように書かれています。

出エジプト13:2 「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

イスラエルの人々は、最初に生まれた子供はすべて神様に捧げる必要がありました。
しかし人間の子供に関しては、それを贖うために献金をしなければならなかったのです。
イエス様は最初に生まれた子供だったので、両親は神殿に贖い金を捧げたのです。

そして三つ目は、産後のきよめです。
女性は子供を産むと、40日から80日の間穢れた者として神殿に入る事ができません。
そしてその期間が過ぎと、神殿に行って生贄を捧げなければならなかったのです。
ここに書かれている事は、ユダヤ人としては常識的な事で、何も特別な事はない、当たり前の出来事でした。
そしてそこから12歳になるまでの間、イエス様の事については何も書かれていません。

偽典とか外典と呼ばれるものの中には、子供のころのイエス様を描いている話もありますが、それはずっと後の時代に書かれたもので、内容的にはかなり作為的なものになっています。
イエス様の子供のころの話は、どうして福音書の中に描かれていないのでしょうか?
それは、子供のころのイエス様は普通のユダヤ人の子供として、普通の生活をして過ごしたからです。
救いに関係することは何もなく、キリストの人生として左右するような出来事はほとんど何もなかったのです。

私たちは、特別な人の事は何でも特別な事と考えやすいものです。
どうしても尾ひれがついて、伝説が生まれてしまいがちで、だからこそ偽典や外典が書かれるわけですが、イエス様が人として生まれてきたという事は、キリストとしての特別な使命に生き始める時までは、特別な事などほとんど何も起こらなかったという事です。
特別な存在であるイエス様は、普通の人と同じような平凡な日々を送ったのです。

私たちは、クリスチャンになると何か特別な力が働いて、奇跡のような神秘的で変わった事が起こらなければならないような気がしてしまいがちです。
もちろんそういう事が起こる事もありますが、私たちの人生が奇跡の連続かというと、別にそんな事はありません。

先週も言ったように、イエス様は神の遣いとしてのスゴイ姿で現れたのではなく、平凡な家の赤子として生まれ、平凡であたりまえな人間の中にご自身を置かれたのです。
私たちの奇跡的な体験、特別な出来事の中だけに神様は働かれているのではなく、平凡な生活の中にも、神様はしっかりと働いておられるのです。
神様は職場に、学校に、台所に、私たちの身近なところにいつでもいて下さるのです。

② ふたりの老人との出会い
さて、神殿では神様の導きによってある人たちとの出会いがありました。
そのひとりは、シメオンという男性です。
この人は、神様の前に正しい信仰を持った人で、彼の上には聖霊の働きがありました。
聖霊は、彼に何と言っていたでしょう。
それは、彼が救い主を見るまで、死ぬ事はないという事です。
「あの人を一目見るまでは死ねない。」
このような思いは、私たちも持つことがあったりします。
でも彼の中にあったこの思いは、イスラエルに何千年も語り継がれてきた約束を待ち望む思いです。
私たちも、神様が約束した事がなかなか起こらないとあきらめてしまったり、信仰を失ってしまう事もあるかもしれません。
でも彼は、その約束の成就を心から求め続け、生きている間に救い主に会えるという言葉をついに聖霊から得たのです。
この老人は、神殿でヨセフとマリヤに出会い、イエス様を抱きかかえた時、神様の約束が成就したのを知ったのです。
シメオンは神様を讃え、このようにつぶやきました。

2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

彼らが出会ったもうひとりは、女預言者アンナという84才の老女です。
彼女は夫を失ったと、ずっと宮のそばで祈る日々を送り続けていた、これまた信仰の達人のような人です。
そしてアンナもまた、イエス様を見て、神様の約束が成就した喜びに満たされました。
預言者としての使命を与えられていたアンナは、その事を人々に伝えたのです。

シメオンとアンナは、旧約時代の信仰の終わりを象徴しています。
彼らは長い長い間、ずっと救い主が来る事を待ち望んできました。
イエス様がキリストとしての働きを始め、その御業を目にしたり、十字架で救いが完成するのを目にする事はありませんでしたが、彼らは赤子の救い主が、確かに自分たちに与えられた約束の子である事を信じたのです。
新約の時代に生きている私たちは、聖霊が与えられ、もっと明確に神様の栄光を体験する事ができます。
しかし、シメオンとアンナのように、いつまでも待ち望み、信じ続ける地道な信仰がある事も、決して忘れないでいたいものです。

③ シメオンの祝福
さて、そんなシメオンですが、ヨセフとマリヤに気になるひと言を残しています。

2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対のしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」

シメオンは、この言葉を祝福の言葉としてマリヤに語ったと確かに書かれています。
しかしその内容は、マリヤの心さえも刺し貫くという災いのように思える言葉です。
これは、私たちの心を刺し貫くような痛みでさえも、神様からの祝福であり得るという不思議な話なのです。
痛みや苦しみを経験する時、それに対する二通りの反応があり、その反応によってそこで経験することの意味が大きく変わるように思います。
ある人は、その経験から人や神様を恨み、憎しみを持つようになります。
一方で別の人は、同じような経験を通して涙をしながらも、そこにある祝福を受け取って成長し、喜びに満たされるのです。

自分の価値観、思い、願いを中心に神様のなさることを見た時、私たちはすべての事を喜ぶことができるわけではありません。
私たちの思い通りに行く事は希で、とんでもない経験をする事も少なくないからです。
でもそこで私たちに求められているのは、自分の価値観や考えを置いて、神様に信頼する事なのです。
イエス様はこのように言いました。

マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

自分の好きなもの、合うものだけを求めるなら、私たちは結果的に自分を失っていく事にもなります。
神様がそう導く時には、自分の願いを置き、自己中心を捨て、神様の御心を受け入れていくところにこそ、本当に生きる命の道があるのです。

この時シメオンが語った事は、現代に生きる私たちには、イエス様が十字架に架けられることを暗示している事がわかります。
我が子が十字架に架けられて死んでいく姿を見るのは、まさに心を剣で刺されるような体験だった事でしょう。
しかし、そこに自分自身を含めた全人類の救いがあり、復活の主と共に永遠に生きる道が拓かれていくのです。

肉の願いは、霊がもたらす祝福とは全く違う所にあります。
肉体に縛られた今の状態の私たちには、本当の祝福の大きさをなかなか知る事ができなかったりもしますが、だからこそ私たちは神様の導きに信頼して、従う時、その先にある本当の祝福を手にする事ができるものなのです。

 

自分の願う道を求めて、神様をふりはらうのでしょうか?
それとも、神様が歩ませる道を信じて、その道に飛び込むのでしょうか?
皆さんが、本当の祝福の喜びを体験する事ができますように、心から祈ります。

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