ルカ2:41-52 『 ルカ5 驚きをもたらす福音 』 2015/01/11 松田健太郎牧師

ルカの福音書2:41~52
2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれにきづかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そうしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
2:52 イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。

僕がこどもの時の話です。
ちょうど今のように、冬の寒い頃だったように覚えています。
小学校の高学年から学校の授業について行けなくなっていた僕は、少し遠くの塾に通っていました。
その夜も僕は、寒くて縮こまりながら、手袋を持っていなかったので、片手運転でもう片方をポケットの中に交代で入れて温めながら、何とか家に帰ってきたんです。
自転車を駐輪場に停めて、寒いなぁと思いながら、僕は不意に空を見上げました。
すると、空は一面曇っていたのですが、その一部分の雲が薄くなっているのか、うっすらと月が見えていました。
「あぁ、今日は満月なんだなぁ。だから少しくらい雲がかかっていても、月が見えるんだ。」と思いながら、家に入ろうとしたんです。
すると突然、月だと思っていたその丸い光は、パッと4つに分かれ、空を泳ぐようにしてどこかへ飛んで行ってしまったのです!

僕は驚き、大変なものを見てしまったと思いました。
そして、走って家に帰ると、母に言ったのです。
「いま、UFO見ちゃった!」
そして興奮しながら、自分が今この目で見た事を母に伝えました。
すると母は、冷静な声でこう言いました。
「あぁ、最近パチンコ屋さんができたからね。宣伝でスポットライトを空に照らしているんだよ。」
僕はしばらくの間、母親が何を言っているのかわかりませんでした。
「UFOとパチンコ屋さんは関係ない。」「あれは確かにUFOだった。」と母親の言葉を信じる事ができませんでした。
そこで僕は、もう一度外に出て空を見上げてみると、さっきUFOがいた場所には、また光が戻っていました。
そして今度は、規則的にグルグルと回転しながら光が離れていき、そしてまた同じ場所に戻ってきたのです。
その光は、間違いなく宣伝のスポットライトでした。
僕はホッとしたような、がっかりしたような、複雑な気持ちでその夜を過ごしたことを覚えています。

皆さんは最近、どんな事に驚きましたか?
今日はイエス様が少年の頃に体験した出来事を通して起こった驚きについてお話していきたいと思います。

① 人々の驚き
それは、イエス様が12歳のころの出来事でした。
ヨセフとマリヤは、13歳の成人式を迎える前に、エルサレムで毎年行われる過ぎ越しの祭りに、イエス様を連れていく事にしたのです。
彼らが住んでいるナザレは、エルサレムから3日間くらいかかるので、盗賊に襲われることを警戒し、人々はキャラバン隊を編成して、大人数で旅をしていました。
そして多くの場合キャラバンは、足の遅い女性のグループが先に出発し、男性グループは時間を開けて出発するようになっていたのです。
だからヨセフとマリヤは、それぞれ別のグループにたわけです。

ヨセフはイエスがマリヤと一緒にると思っていたし、マリヤはヨセフと共にいるんだと思っていたのでしょう。
一日の距離を進んで合流した時、イエスがいないという事にようやく気付いたのです。
ふたりは慌てて道を辿ってエルサレムに戻りました。
そして、あちこち探し回った後、ようやく息子が宮にいるのを見つけたのです。

12歳のイエス様は、宮の中でユダヤ教の教師たちの話しに耳をすませ、彼らに質問したりしていました。ここに、一つ目の驚きがあったんです。

2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

そこにいた人々が驚いたのは、この12歳の少年の質問の鋭さや内容です。
その言葉の中に、驚くような聖書の知識と洞察力がありました。
子供の姿をしているとは言え、聖書を書いた本人がそこにいるのですから、人々が驚くのもむりはないですよね。
もちろん大人になってからも、イエス様の言葉は人々を驚かせたのです。
それは、イエス様の言葉が知識や人間の知恵から来るものではなく、神様から直接くるものだったからです。

② 両親の驚き
さて、イエス様が迷子になってから3日後、やっと見つけたわが子を見て、ヨセフとマリヤも驚きを露わにしました。

2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」

これが2つ目の驚きです。

これは他の人々の驚きとは違うものです。
ヨセフとマリヤは、我が子が迷子になって、3日間も心配して探し回りました。
誘拐されたのではないか? もう2度と会えないのではないか?
いろんな思いを持って不安にさいなまれながら、ようやく見つけてみたら、イエスは泣くでもなく、当たり前に様に宮で大人の話を聞いていたのです。
やっと見つけて安堵したのも束の間、マリヤの心に持ち上がってきたのは怒りの感情でした。親としては当然の感情ですね。

しかしここには、親としての驚きだけでない意味があるように思います。
生まれる時から御使いに示され、イエス様が普通の子供ではない事を知っていたのだから、本当ならこうして驚くことはなかったはずではないかという事なのです。
それはつまり、一番身近な存在だったヨセフとマリヤでも、イエス様が救い主だと理解できていなかった事を意味しています。
これに対してイエス様は、『「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」(2:49)』と答えますが、両親には、イエス様の話したことの意味が分からなかったと書かれています。(2:50)

「預言者は故郷では歓迎されない」と言う言葉があるように、身近な人からの理解を受ける事が案外一番難しい事だったりもします。
私たちも福音を伝える時、家族を始めとして多くの人たちに受け入れてもらえない体験をしますが、それはとてもつらい事ですね。
「どうしてこんな簡単な事がわからないのだろう」と思う事もありますが、イエス様がそんな両親にもへりくだって仕えたように、私たちも彼らに寄り添いながら、福音を伝えていきたいものだと思います。

③ イエス様の驚き
さて、3つ目の驚きは、イエス様の驚きです。
「心配させて、何やっているの! 私とお父さんがどれだけ心配したことか!」と叱るマリヤの言葉に、イエス様はこのように応えましたね。

「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」(2:49)

マリヤはヨセフを「イエス様の父上」として話しました。
でもイエス様は、「私はずっと父の家にいました。」と言っているのです。
イエス様の本当のお父さんは、天の父なる神様ですよね。
この言葉には、イエス様の驚きが表されています。
イエス様は、少なくとも12歳の時にはメシヤとしての自覚があり、その事をマリヤたちが理解していない事が、むしろ不思議な事だったのです。

その生涯の中で、イエス様はこの驚きを何度も経験されました。
家族も、弟子たちも、イエス様がメシヤであるという事も、メシヤであるという事がどういう事かという事も理解しなかったからです。
「あれだけの奇跡を経験し、これまで一緒に過ごしても、まだわからないのか?」
これが、神様の驚きです。
神様の愛は決して変わらず、私たちが神様を愛するように創られたはずなのに、自分を神としてて、神様から離れてしまった私たち。
どれだけチャンスを与え、神様に帰る道を作っても、悟ろうとせず、決して戻ろうとせず、悔い改めて立ち返ったように見えてもすぐにその信仰を失ってしまう私たち。
クリスチャンとなって、聖霊が与えられ、イエス様との時間をたくさん過ごしても、それでも神様の計画を理解せず、待つことができず、信仰を失ってしまうのが私たちです。
全知全能の神様をさえ驚かせるような罪、闇、無知、無関心、不信仰が、私たちの内にはあるのです。
これは、何と恐ろしい事でしょうか?

④ 驚くばかりの恵み
今日は驚きがテーマですが、最後にもうひとつの驚きがあります。
それは、神様をも驚かせるようなこんな私たちが、それでも愛され、赦されるという事、こんな私たちのために、御子イエス様が命を投げ出して下さったという事への私たちの驚きです。

今から20年以上前、僕が聖書と出会い、神様を信じ始めた時、「神は愛」と言われる神様が、地獄を創ったという事が驚きであり、なかなか信じる事ができませんでした。
どこかでその考え方に反発し、何だかんだ言って全ての人が救われるに違いないと思っていた事もありました。
自分が救われて当たり前だと思い、十字架を過小評価してしまっていたのです。

しかし、年を重ね、神様を知り、人間を知り、自分自身を知るにしたがってその考えは変わってきました。
こんな私たちが未だ滅ぼされることなく、地獄に行かない道を与えられているという事の方が奇跡であり、驚きだという事がわかってきたのです。
私たちはこんなに罪深く、こんなに醜い者となりました。
神様が創造したものをこんなに台無しにして、すべてを否定してきました。
それなのに、神様がまだ私たちを愛しているというその事がありえない。

私たちの人生には、たくさんの問題、困難が起こります。
「どうしてこんな事が自分の身に起こるのか?」と思う事も少なくありませんが、そんな事、実は当たり前の事です。
こんな僕たちが、それでも生かされていて、人生を送る事ができている。
それが、どれだけ感謝するべき事なのかという事が、わかってきたのです。

僕は、そんな驚きをもたらしてくれた神様をもっと知りたいです。
そんな神様にもっと神様に近づきたいです。
神様を悲しませる、罪から離れ、少しでもましな生き方をしたいです。

この驚きこそ、奴隷商人だったジョン・ニュートンが、嵐の中で発見したアメージング・グレースです。
驚きは、私たちを変えます。
私たちの人生にはいろんな驚きがありますが、どうせならこんな素晴らしい驚きに身を委ねてみませんか?
祈りましょう。

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