ルカ3:1-6 『 ルカ6 バプテスマ 』 2015/01/18 松田健太郎牧師

ルカの福音書3:1~6
3:1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
3:3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。
3:4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
3:5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
3:6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

ルカの福音書から6回目のメッセージです。
これまで、イエス様の誕生から少年時代に起こった事を見てきましたが、そこからさらに18年の月日が経とうとしていました。
ユダ王国は、ローマ帝国の支配下にあり、第2代皇帝ティベリウスの時代。
ユダヤの総督となっていたのはポンテオ・ピラト。
ユダヤ自治国としての国主は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスです。
いよいよ役者もそろい、大人になったイエス様の、メシヤとしての活動が始まろうとしていました。

でもその前に、起こらなければならない事があったんです。
イザヤ書やマラキ書で預言されていた通り、メシヤが活動していくための準備をする人が先に起こされなけれならなかったのです。
その働きをする人の名は、バプテスマのヨハネ。
イエス様のいとこであり、あのゼカリヤとエリサベツとの間に生まれた子供でした。
バプテスマのヨハネの働きを通して、今日は何を学ぶ事ができるのでしょうか?

① 異邦人のバプテスマ、きよめのバプテスマ
さて、ある時ヨハネは、神様が彼に語り掛けるのを聞きました。
その時から、ヨハネの働きは始まったわけですね。
自分の思いから、勝手に始めた事ではないという事です。
そしてそれは、罪が赦されるための、悔い改めに基づくバプテスマを説き、授けるという働きでした。
バプテスマと言うのは、洗礼の事ですが、どういう意味があるんですか?
バプテスマは、水の中を通る時に古い自分に死に、水から出ると共に新しい自分として生き始める事を象徴している儀式です。

別にヨハネが発明したわけではなく、この時代は、大きく分けて2種類のバプテスマが行われていました。
ひとつは、異邦人がユダヤ教に改宗し、ユダヤ人になるためのバプテスマです。
もうひとつのバプテスマは、聖書には出てこないユダヤ教の一派エッセネ派が、罪の清めのために毎日行っていた習慣です。
エッセネ派というのは世捨て人のような人たちで、律法に沿った生き方を実践するために、自分たちでコミュニティを作り、独自の生活をしてくらしていたようです。
それでも自分たちの中にある罪を洗い、きよめるために、彼らは毎日洗礼を行って、心と体を清めていたわけです。

② 悔い改めのバプテスマ
バプテスマのヨハネが説き、授けていたバプテスマは、そのどちらとも違うものでした。
彼はユダヤ人たちに洗礼を授けていたし、毎日受けるような物でもありません。
そして罪を“清める”事が目的なのではなくて、罪を“悔い改めた”事のしるしとして行われるものでした。

では、“悔い改め”とは何でしょう?
悔い改めと言う言葉は、もともと書かれていた言葉を直訳すると、“方向転換する”と言う意味の言葉です。
どこから方向転換するのかと言えば、これまで歩んでいた罪の道から。
罪の道というのは、私たちが神様に背いていた生き方の事です。
つまり悔い改めのバプテスマとは、自分が歩んでいた道が、神様から離れ、神様に背き、自分が神になろうとする生き方だったという事を認めて方向転換をするという事なのです。

しかし、多くの人たちは、神様の裁きを逃れるために洗礼を受けに来てはいても、心から自分の罪を悔い改め、神様と共に歩み始めようとしていたわけではありませんでした。
ヨハネはその事を見抜き、怒りを露わにします。
バプテスマを受けようと列をなしてくる人々に、ヨハネは言い放ったのです。

ルカ3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群集に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
3:8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

「まむしのすえたち」というのは、「悪魔の子供たち」というような意味の言葉です。
ヨハネは人々に、天国行のチケットを手に入れたからどう生きようと自分の勝手だというような生き方は止めなさいと言いました。
あなた達が悔い改めたというなら、悔い改めたと言うのにふさわしい生き方をしなさい。
生き方が変わって、その時に初めてあなたは本当に悔い改めたと言う事ができるのです。

厳しくて、ドキッとする言葉ですね。
私たちはどうでしょうか?
私たちは、悔い改めてクリスチャンとなったなら、それなりの生き方に変わったと言えるでしょうか?
教会に通っているというだけで、今までの生き方と何も変わっていなかったりはしないでしょうか。
私たちは、自分が本当に悔い改め、神様に立ち返っているのか、それにふさわしい生き方をしているのか、ちょっと考え直してみる必要があるのかもしれませんね。
私たちが神様と共に歩み、神様の愛の中で生きる事は、私たちの人生観を全く変え、生き方を変えてしまうものなのですから。

③ 聖霊のバプテスマ、炎のバプテスマ
さて、このようなバプテスマのヨハネの教えに、多くの人たちの心が動かされました。
それは、人々の内に自分たちは神様から離れていたという自覚が生まれ始めていたからです。
そして、離れていた神様に立ち返れというヨハネの教えは、旧約聖書に預言されていたメシヤのイメージと重なると考える者も出てきました。
メシヤは、壊れていた神様との関係を回復する方だからです。
しかし、バプテスマのヨハネは、「自分は聖書に言われている救い主ではない。」とはっきりいました。
そして、「メシヤ・キリストは自分の後に来る。私はその方のために道を整えているだけだ。」と言ったのです。

ルカ3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力ある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

ヨハネは、水によって悔い改めのバプテスマを説いていました。
しかし後からくるメシヤ・キリストである方は、聖霊と火とのバプテスマを授ける方で、その方と比べた自分には何の価値もないと言うのです。

悔い改めのバプテスマとは、言ってみれば人間の側からのアプローチです。
私たち人間が、神様から離れていた事に気づき、自分の罪を認め、神様に立ち返るという方向転換が悔い改めのバプテスマで行われたことでした。
しかし、それだけでは十分ではありません。
なぜなら、神様と私たちの間にある罪の溝は、私たちが方向転換をしたからと言って乗り越える事ができるような物ではないからです。
それは、これから起こる本当のバプテスマによって与えられる命を得るための、準備段階でしかないのだという事ですね。
それでは、メシヤ・キリストが与えるという聖霊と火とのバプテスマとは何でしょうか?

悔い改めが、私たちの側からの働きかけだったのに対して、聖霊のバプテスマがもたらすのは、神様の側からのアプローチです。
アダムとエバが善悪の知識の実を取って食べた時から、私たちの霊は死んだ状態にありました。
だから霊的な存在である神様の前に、私たちは肉体が生きてはいても霊は死んだ状態にあって、それが決定的な溝となって私たちは神様との関係が切れた状態にあったわけです。
しかし三位一体の神様である聖霊が私たちの内に入って下さり、私たちにはそこに新しい命が与えられたのです。
それを実現するために、メシヤ・キリストであるイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架で命を投げ捨て、3日後に蘇り、ペンテコステの時に信仰を持った全ての人たちの上に聖霊を注いでくださったという事なのです。

聖霊のバプテスマを受けるなら、私たちはどうなりますか?
私たちは壊れていた神様との関係を回復して、神様ともっと親しく対話する事ができるようになり、神様が注いでくださった力によって生きる事ができるようになるのです。

イエス様はこう言っています。
使徒の働き1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

悔い改めにふさわしい実を結んでいるかどうかという話をしましたが、ここでも同じ事が言えます。
私たちは、聖霊が注がれたにふさわしい生き方を本当にしているでしょうか?
私たちには、確かに聖霊が与えられているんです。
でも、私たちがその新しい命によって生きる事をせず、今まで通り肉に属する生き方を続けようとするなら、イエス様が命をかけて聖霊を与えて下さった意味はどれだけあるのでしょうか?
私たちは聖霊のバプテスマを受けたのです。
ならば、もっともっと聖霊が主体となるような生き方をしていきたいものですね。

さて、悔い改めて神様と繋がり、聖霊のバプテスマを受けた人たちに何が起こるかという事を見てきました。
それでは、悔い改める事無く、聖霊のバプテスマを受けない人たちはどうなるのでしょうか?
そのような人たちには、メシヤによって火のバプテスマが与えられるのだとヨハネは言っています。
ルカ3:16d その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

その時私たちは、水ではなく、裁きの炎の中をくぐり、清められる事になります。
「あなたはどちらのバプテスマを受けたいですか?」という話なのです。

 

ここに福音があります。
私たちは本来なら、有無を言わせず裁きを受け、地獄の炎をくぐるのが当然な人間です。
でも神様は、それ以外に道を作って下さったのです。
私たちが神様の前に自分の罪を認め、立ち返ろうとうするなら、神様の側からもそれにこたえて下さり、聖霊によって新しい命を与えて下さるという事です。
その時私たちは、永遠の時を神様と過ごす事が約束されています。

神様が心の内に住んで下さり、共に生きる生き方を今日始めてみませんか?
まだ悔い改めてバプテスマを受けていない方も、すでに聖霊を受けているのに、せっかく与えられた新しい命に生きていない方もいらっしゃると思います。

それは、今日から、いますぐ始める事ができます。
祈りましょう。

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