ルカ3:21-22 『 ルカ7 イエス様の洗礼 』 2015/01/25 松田健太郎牧師

ルカの福音書3:21~22
3:21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

先週はバプテスマ、つまり洗礼について学びました。
異邦人が改宗するためのバプテスマ、エッセネ派のきよめのバプテスマ、ヨハネによる悔い改めのバプテスマ、イエス様による聖霊のバプテスマと、火による聖めのバプテスマ。
全部で5つのバプテスマが出てきたわけですが、大切なのは3番目と4番目の二つのバプテスマです。
つまり、神様に背いていた私達人間が、悔い改めて神様に向かう悔い改めのバプテスマ。
そして、それに応えて神様の側から与えられる聖霊のバプテスマのふたつです。
このふたつによって、私たちと神様との関係は繋がり、回復していく事になるわけです。

さて、今日はとても短い聖書箇所ですが、イエス様がバプテスマを受けられた事について、一緒に考えていきたいと思うのです。
洗礼者ヨハネが授けていたバプテスマは、何のバプテスマでしたか?
そう、悔い改めのバプテスマでしたね。
悔い改めとは、神様に背いていた自分を自覚して、方向転換し、神様を崇める事を表したバプテスマです。
イエス様は、悔い改める必要があったのでしょうか?
いいえ。
イエス様は、三位一体の神様の一部であり、神の御子です。
そして、少なくとも12歳の時にはその自覚があった事がわかっています。
イエス様は、悔い改める必要のない唯一の人だったはずです。
ではどうして、イエス様はヨハネからバプテスマを受ける必要があったのでしょうか?

① ヨハネのバプテスマの権威を護るため
ルカの福音書では、短い言葉でサラッと書いているだけなので、もう少し詳しく書いているマタイの福音書を見てみましょう。

マタイ3:13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
3:14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
3:15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

これを見ると、ヨハネはイエス様に洗礼を授ける事を躊躇していた事がわかりますね。
ヨハネは、イエス様こそ救い主メシヤだという事を知っていました。
この方のためにこそ、ヨハネは道備えをしていたのであり、この方が与える聖霊のバプテスマこそが私たちに必要なものだと知っていました。
イエス様はメシヤであり、神の御子なのですから、イエス様が悔い改めのバプテスマを受ける必要は全くなかったはずなのです。
それなのにイエス様は、ヨハネに強いてまで、バプテスマを授けさせました。
イエス様はなぜそこまでして、バプテスマを受ける必要があったのでしょうか?

第一の理由は、ヨハネが授けるバプテスマの権威を損ねないためでした。
悔い改めのバプテスマを受ける必要は、確かにイエス様にはありません。
でも、イエス様が神の御子であることなんて、この時は誰も知らない事だし、理解できない事でした。
この時点で、イエス様はバプテスマを受ける必要がないという事になると、ヨハネのバプテスマには権威がないという人たちも出てくるかもしれません。
そうならないよう、このバプテスマは間違いなく神様からの権威のあるものだという事を表すために、イエス様は自らこのバプテスマを受けてお手本をしめしたのです。
それが、第一の理由でした。

② 私たちと同じ目線に立つために
第二の理由は、イエス様が、私たちと同じ立場に立つためです。

イエス様は神の御子であり、罪のないお方でした。
本来ならば、神の子として崇められるべき方です。
この世の光であり、私たちの希望。
その御子イエス様が、へりくだって自らの姿を低くし、自らを覆い隠して普通の人として、赤ん坊の姿で生まれて下さった。
聖書には、このようにも書かれています。

ピリピ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。

悔い改めのバプテスマを必要としていたのは、罪人です。
だからイエス様がこのバプテスマを受けられたという事は、その罪のない聖なる存在を、罪人と等しいところに置かれたという事です。

なぜ、ここまでへりくだる必要があったのでしょうか?
それは、あくまでも私たちと同じ立場に立つためです。
大人が子供と話すとき、上から物を言うのではなく、子供の目線に合わせてしゃがみながら話すように、イエス様は私たちと同じ目線に立つために、へりくだって下さった。
いや、それだけではありません。
イエス様は私たちの罪を代わりに支払うために、自らを罪人の立場に置いて下さったという事なのです。

③ 罪人となるために
イエス様が、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けた第三番目の理由は、聖い御子であるイエス様が罪人となるためです。

これだけ聞くとさっぱり意味が分からないかもしれませんが、イエス様がなぜこの地上に来られたかという事を考える時、イエス様がここでした事の意味が分かってくるのです。
聖書は、神様が何のために救い主を送ると言っていたでしょうか?
イエス様が生まれてくる600年以上前に記されたイザヤ書にはこのように書かれています。

イザヤ 53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

イザヤ書53章の全体を通して書かれているのは、救い主は私たちの代わりに私たちの罪を負い、生贄が捧げられるのと同じように、救い主が罪人としての裁きを引き受けて下さるという事です。

何度も言ってきたように、イエス様は本来罪のない方でした。
その救い主イエス様が、悔い改めのバプテスマを受ける事はおかしい事でした。
だからヨハネはそれに反対します。
「あなたは聖い方なのだから、そんな風に悔い改めなければならない罪人のようになるのを止めて下さい。」
でもイエス様は、ヨハネがバプテスマを授けるように強いるのです。
「いや、そうさせてもらいたい。私はそのためにこの地上に来たのだから。罪のない者が罪人とされ、罪人の代わりに罰せられる事。それこそが私の使命であり、ここに父なる神の御心がある。」

悔い改めのバプテスマは、私たち罪人には、悔い改めて神様を見上げるための洗礼です。
しかし、罪のないイエス様にとっては、罪人と同じ立場になるためのステップでした。
私たちの罪を負い、私たちの代わりに罪の罰を受けるために、イエス様はまずバプテスマを受けて罪人のひとりになられたのです。

ヨハネがイエス様にバプテスマを捧げた時、そこには驚くべき光景が広がります。
聖霊が鳩のようにしてイエス様の上に下り、「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」という声が聞こえたのです。
ここに、父、子、聖霊の三位一体の神様が揃って現われています。
イエス様の、キリストとしての歩みは、まさにここから始まります。
ここから始まる事が神様の御心であり、正しい事だったからです。

パウロは、このように言っています。

IIコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

聖い神の御子イエス様は、ご自身を罪人として、その命を犠牲にして私たちの罪を代わりに背負い、贖って下さいました。
神の子としての全ての権威、すべての権利、栄光、その全てを、私たちのために投げ出して下さったのです。
私たちを救うため、私たちに失われた命を与え、私たちに義を与えるためです。

その救いを、自分のものとしませんか?
私たちが悔い改めて、神様に立ち返るなら、私たちはその救いを手にする事ができるのです。
神様の側からのアクションは、もう2000年前に起こされました。
後は、私たちの側の選択だけなのです。
ひとりでも多く、主の救いに預かる事ができますように・・・・。

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