ルカ4:31-44 『 ルカ12 みことばの権威 』 2015/03/08 松田健太郎牧師

ルカの福音書4:31~44
4:31 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々に教えられた。
4:32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
4:33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。
4:34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
4:35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け」と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。
4:36 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」
4:37 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。
4:38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
4:39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
4:41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。
4:42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
4:44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。

今日は『みことばの権威』というタイトルでお話ししたいと思います。
いつも、なかなかタイトルを思いつかなかったりするのですが、今回はちょっと堅い感じがするタイトルになってしまいましたね。
特に“権威”と言う言葉は、普段あまり使う機会もないし、何だか威嚇されるような、あるいは力で押さえつけられるような、ちょっと恐い雰囲気もあるか言葉です。
でも、イエス様が他の人たちと何が違ったかという事を考える時、権威と言うのは、私たちがどうしてもお話しする必要のあるものなのです。

権威とは何でしょうか?
権威と言うのは、私たちに服従を求める力です。
イエス様の話を聞いた人たちは、みんなそれぞれに感動し、その言葉に驚きました。
なぜなら、その言葉には権威があったからです。
イエス様の言葉には、そのような力があると聖書には書かれているのです。

4:32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。

イエス様のお話は、多くの人たちの心を動かし、今も私たちを驚かせています。
それは、涙を誘う良い話だったからではなく、みんなが爆笑するようなジョークが盛り込まれていたからでもなく、パワーポイントを使った見事なプレゼンだったからでもありません。
その言葉に、権威があったからなのです。

① 悪霊の働き
今日の話の舞台は、先週お話ししたナザレからそれ程遠くないカペナウムと言う町です。
この町の会堂で、イエス様はお話をしました。
しかしそこには、悪霊に憑りつかれた人がいて、大声でわめいていたのです。

4:34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

皆さんは悪霊の存在を信じますか?
クリスチャンとして、イエス様や神様は信じていても、悪霊は迷信だと思われる方も少なくありません。
でも、これもまた聖書に書かれている事であり、イエス様ご自身が悪霊について語ったり、追い出したりしているのですから、この部分は信じないというのはおかしな事です。

確かに悪霊の追い出しを積極的に行っている教会の話などを聞いていると、すごく怪しい感じがしますし、実際に間違った方向に向かっているところがあるのも確かです。
でも、だから悪霊を信じないという理由にはなりませんね。

何度かお話ししている事ですが、私たちが生きるこの世界は悪魔の支配の中にあります。
そして多くの人たちは悪霊に支配されていますが、本人に自覚はありません。
悪魔、悪霊の働きの目的は何かと言うと、私たちを神様から引き離す事と、神様からの力を奪う事です。
そのため、悪霊の影響下ではなかなか神様の事を信じる事ができなかったり、クリスチャンや神様に対するネガティブな感情に支配されてしまったりします。
その人たちは、それが自分の考え方であり、自分の考えによってそうしていると思っていますが、実は自分が悪魔や悪霊の支配下にある事に気が付いていないだけなのです。

そう考えると、私たちがイエス様を救い主として信じるという事自体が、どれだけ大きな奇跡であるかが分かるのではないでしょうか?
神様がまず私たちの上に働いて下さるのでなければ、私たちは信仰を持つという事すらあり得ない事なのです。
パウロは手紙の中でこのように書いています。

Iコリント 12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

さて、このカペナウムの会堂で、悪霊に憑かれた人が大声でわめいていました。
人々が、神様の言葉を聞く邪魔をしようとしていたのかもしれませんね。
イエス様はそれを見て、悪霊を叱って言いました。
「黙れ。その人から出ていけ。」
すると悪霊はその人を倒して出て行ってしまいました。
これが、イエス様の言葉の権威です。
『その人から出ていけ。』と言われた悪霊は、出ていくべきかどうかを自分で決めるののではなく、イエス様の言葉に従うしか他なかったのです。

私たちがイエス様を受け入れて、信仰を持ち、聖霊を受ける時、私たちの内には、このような神様の権威があります。
それによって、悪霊の力は追い出され、聖霊の力が注がれるのです。
聖霊が私たちの内に宿るなら、神様の権威によって、悪霊は今までの様に私たちを支配し、思いのままに操る事はできません。
イエス様への信仰は、悪霊の支配から私たちを自由にするのです。

② 悪霊を追い出し、病を癒やす権威
カペナウムで起こった出来事は、それだけではありませんでした。
シモン・ペテロの実家に行くと、イエス様は熱で苦しんでいたペテロのしゅうとめを、その権威によって癒やしました。
他にも色々な病気の人たちが癒され、悪霊は追い出されていきます。
これを読んで私たちは、イエス様のスーパーパワーにただただ感心するだけになりがちですが、そこで終わってはいけません。
大切なのは、これはすべて、イエス様の上にある神様の言葉の権威によるものだという事なのです。

後にイエス様は、弟子たちを二人一組にして、他の町に派遣します。
その時イエス様は弟子たちに、病を癒し、悪霊を追い出す権威を授けるんですね。
弟子たちは出かけて行って、いろんな人たちの病を癒し、悪霊を追い出します。
これはイエス様だけの特別な業なのではなく、イエス様の権威によって、全ての弟子たちに与えられたものなのです。
弟子たちに与えられたという事は、私たちがイエス様の弟子なのであれば、私たちにも与えられている権威だという事です。
このような奇跡は、何か特別な賜物を与えられた人たちだけのものではないんですね。
なぜなら、癒しや悪霊の追い出しは私たちの力によって起こるものではなく、神様の権威によって起こるものだからです。

③ イエス様の権威によって
さて、イエス様はたくさんの人々を癒したり、悪霊を追い出したりしたので、カペナウムの人々はイエス様にずっとここにいて欲しいと願いました。
でもイエス様は、次の町に行かなければならなかったのです。

ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
4:44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。

イエス様の使命は、カペナウムの人々を癒し、助ける事ではなく、神の国を述べ伝え、この地上にそれをもたらす事でした。
だから今は、次の町に行かなければなりません。
これがイエス様の働きなんですね。
しかし、先ほども言いましたが、後になってイエス様は、弟子たちにこの権威を授け、他の町々に遣わしています。
イエス様の元で学び、力を受けた弟子たちが、今度はイエス様か遣わされて、イエス様の権威によって神の国をもたらしていく働きをするのです。

でも皆さんの中には、このように思われる方がいらっしゃるかもしれません。
「そんな事を言われても、わたしにはそんな事、起こった事がありません。」
これは、現代には起こらない事かというと、決してそんな事はありません。
多くの国で、聖書に書かれている通りの事が起こったという証を、私たちは本で読んだり、耳にしたりします。
でも、私の身には起こらない。 ・・・なぜしょうか?

私たちがこの様な体験をするために、必要な事がいくつかあると思います。
第一にそれは、ただ信じているのではなく、私達がイエス様の弟子になるという事です。
弟子になるための条件として、イエス様はこのように言っています。

ルカ14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

これは、私たちが自分の思いや願いを十字架に付けて、神様の御心に従って生きるという事です。
全ての力は、私たちが絞り出すのではなく、神様からくるものなのですから、自分の思いではなく神様の御心を中心にして行動するのでなければ、神様の御業を体験する事もないでしょう。

第二に、神様との関係を深めて、信じる事です。
イエス様が神様だと信じる事くらいなら、悪霊だって信じていました。
また、イエス様を信じる事ができなかったナザレの町では、イエス様も奇跡を起こさなかった事を思い出して下さい。
私たちは体験するから信じるのではなく、信じるから体験する事ができるのです。
神の御子であるイエス様でさえ、時々静かな所に行って、神様との静かなふたりきりの時間を過ごしました。
私達はもっともっと親密な関係を、神様と築く必要があるのではないでしょうか?

第三に、私たちは遣わされる必要があるという事です。
私たちが教会にこもって勉強し、自分を磨くことに一生懸命になっている限りは、私たちは結局成長する事がありません。
霊的成長に必要なのは知識ではなく、実践だからです。
私たちはまずイエス様の弟子となり、その関係をさらに深めたなら、出て行って、イエス様の権威によって祈り始める事です。

たくさんの奇跡が起こり、リバイバルが起こっている途上国では、救われた人がすぐに出て行って、人々のために祈り、福音を伝えているそうです。
まだ聖書を全部読んだこともない人が牧師となったり、まだ洗礼を受けていない人が教会を始める事も少なくないそうです。
日本でそれをやる事がいいのかどうかはわかりませんが、聖書に書かれているような出来事は、そんな環境の中で起こっているという現実を、私たちは知っておいた方が良いと思います。

「もっと学んでから。」
「聖書が全部わかってから。」
そう思っていませんか?
しかし、私たちの弱いところにこそ、主が働いて下さると言われます。
私たちは何よりも、神様の御心を尋ね、それに従う事を第一とする必要があるはずなのです。

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