詩篇95:1-6 『 心から礼拝する教会 』 2015/04/12 松田健太郎牧師

詩篇95:1~6
95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。
われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、
賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
95:3 主は大いなる神であり、
すべての神々にまさって、
大いなる王である。
95:4 地の深みは主の御手のうちにあり、
山々の頂も主のものである。
95:5 海は主のもの、主がそれを造られた。
陸地も主の御手が造られた。
95:6 来たれ。
私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。
私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

今日は午後から信徒総会があって、教会の運営について一緒にお話しする事になります。
でも午前中の礼拝では、もっと霊的な部分でのビジョンと方針について、お話ししておきたいと思いました。
クロスロード・インターナショナル葛西教会の2015年度のテーマであり目標。
それは、私たちが「心から神様を礼拝する教会になる」という事です。

これは、牧師がひとりでそうなろうと思っても、できる事ではありません。
皆で協力して一つの方向に向いていくのでない限り、クロスロードが心から礼拝をする教会にはならないでしょう。
だからこの事をじっくりと考えて、しっかりと理解していただきたいのです。

① 復習:教会・礼拝とは何か?
まずは、シンプルな質問から入っていきたいと思います。
私たちが心から礼拝することは、どうして大切な事なのでしょうか?
それは、私たちの心は礼拝によって神様に向かい、礼拝によって整えられるからです。

その事を考えるために、これまで学んできたことを少し整理し、復習してみましょう。
第一に、教会とは何だったでしょうか?
教会と言うのは、建物の事を指すのではなく、私たち人の集まりが教会であるというのが、一つの答えだと思います。
でもそれは、単なる人の集まりではありません。
私たちがキリストの体として集まり、機能する時に、それは教会と呼ぶことができるのです。

キリストの体は、何をするのでしょうか?
それは、イエス様が地上でしたように、人を愛し、教え、癒し、励まし、福音を述べ伝える事です。
聖書ではこれを別の言葉で、『十字架の苦しみの欠けたところを補う』と表しています。
イエス様が天に帰ってしまったためにもうできなくなってしまったことを、聖霊を受けた私たちが、イエス様に代わって行うのです。

第二の質問は、礼拝の本質は何なのかという事です。
礼拝とは何だったでしょうか?
単に日曜日に集まり、歌ってお話を聞く事ではないというお話をしましたね。
その話をした時に、僕は一つの聖書箇所を引用しました。
そこにはこのように書いてありました。

ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

私たちが何を受けるかではなく、自分を捧げるところに礼拝の本質はあります。
賛美を捧げる。
祈りを捧げる。
献金をさ捧げる。
そして何にも増して、自分自身を捧げるという事です。

私たちは、この地上でキリストの体としての役割を果たすために、自分自身を捧げるのです。
そこに礼拝の目的があり、日曜日に教会が集まるのは、この礼拝を通して私たちが整えられるためにあるという事なのです。

② どのようにして整えられるのか?
さて、今日はそこからもう一歩先に進みたいと思うのです。
それは、日曜日の礼拝の時間に、私たちはどのようにして整えられるのかという事です。
それを理解していないと、私たちはただ日曜日にこの場所に来ればいいのだと思ってしまいます。
そうでなければ、私たちはどのようにして感動するお話を聞いて、神様に仕えるための元気を受けるかという事を考えるのではないでしょうか?

でも、礼拝に出席することや、良いお話を聞いて感動することが私たちを整えるのではありません。
意味がないとまでは言いませんけど、もっと大切な事があるんです。
それは、神様を礼拝する事を通して、私たちの神様との関係が整えられるという事です。

私たちの中のモチベーションがどれだけ高められたとしても、私たちが神様のための働きを、自分の力や努力で働こうとしたのではあまり意味がありません。
なぜならそこにあるのは、自分の力と限界の範囲内のことでしかないからです。

そんな事はこれまでもしてきたし、神様がいなくてもできる事です。
クリスチャンでなくてもできる事が無意味だとは言えませんが、どうせなら私たちの限界を超えている事、神様の御業を見たいと思いませんか?

私たちは整えられなくても、自分の力で自分の思う所をする事はできますが、整えられていかない限り、自分の力を越えた働きをする事ができません。
それでは、神様との関係が整えられるというのは、どういう事を言うのでしょうか?

それは、私たちが心から神様を愛するという事です。
そして、私たちが自分の働きや計画、人生そのものを支配しようとするのではなく、全てを神様の支配に委ねていくという事です。
私たち自身が主体になろうとするのを止めて、全てのものから手を放し、神様を主体としてそれに従うという事です。
それは、当たり前と言えば当たり前の事。
神様を、神様とした関係になるという事なのです。
単純な事にお思えるかもしれませんが、そこに神の国があるのです。
つまり礼拝とは、私たちが神の国に生きるために備える時間だという事です。


私たちが、心から神様を礼拝する教会になる必要があるという事は、現時点で私たちにはできていないという事でもありますね。
皆さんは、どう思われるでしょうか?
僕は、僕自身を含めて、心から礼拝の時を持つことはできていないと感じています。

私たちが祈る時、私たちは心から祈りの時を持っていますか?
何か考え事をしていませんか?
他の人たちが気になって、頭が真っ白になっていませんか?
祈っていたとして、単なるお願い事の繰り返しになってしまっていませんか?

賛美はどうでしょう?
私たちは心から神様を賛美しているでしょうか?
それとも、ただ歌を歌っているだけでしょうか?
あるいは賛美の時でさえ、何か考え事をしてしまっていませんか?
3年ほど前のTBB(ゴスペル・クワイヤ)には、心からの賛美がありました。
その時には、見学に来たノンクリスチャンの人たちが、練習に参加する中で涙を流し始め、神様の臨在をそこに感じていました。
歌がうまいかどうかと関係なく、心からの賛美はそのような現象を生み出します。
今のTBBには、なぜかなくなってしまっていますが、私たちの礼拝はどうでしょうか?
クリスチャンであれば、心から祈ることは難しい事ではないはずですですが、そのような賛美が今の私たちの中にあるでしょうか?

献金はどうでしょう?
私たちは喜んで捧げているでしょうか?
それとも、義務感だけで捧げているでしょうか?
多くを蒔けば、多くを刈り取る事になるという御言葉を心から信じ、神様が支えて下さることに信頼して、捧げる事ができているでしょうか?

メッセージはどうでしょう?
そこに語られている神様の言葉を受け取っていますか?
そしてただ御言葉を蓄えるだけではなく、福音に生きようとする心はあるでしょうか?

礼拝が終わってからの交わりはどうでしょうか?
そこには互いに思いやる愛はあるでしょうか?
始めてきた人たちを迎え、神様の家族として受け入れる心は私たちにあるでしょうか?
それとも、すでに仲良しの人たちと話すことだけが私たちの心にあるでしょうか?

かなり厳しい話をしていると思いますが、これは何よりも、僕自身が反省している事なのです。
そして、皆さんがそれをする事ができていないのだとしたら、それは全て、牧師である僕の責任なのです。
心からお詫び申しあげます。

でも、私たちが心から礼拝を捧げる教会になるのは、これからでもそれは遅くないと僕は信じています。
心から神様を礼拝する教会を、一緒に作っていきませんか?
私たちが神様を見上げ、初めて来る人たちでさえ、そこに神様の臨在を感じるような教会になりませんか。
神様との個人的な交わりがあり、神様への愛が募り、全てを神様の支配の中に委ねて行くような、そんな時を体験していきませんか?
そして、霊的に整えられた私たちが、御言葉に従って歩み出し、私たちの周りの人間関係が変わり、私たちの職場が変わり、私たちが住む地域が変わっていくのを体験しませんか?
神の国は、私たちの礼拝から始まるのです。

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