ルカ5:27-39 『 ルカ16 新しい革袋 』 2015/04/26 松田健太郎牧師

ルカの福音書5:27~39
5:27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。
5:28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
5:29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
5:30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
5:31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
5:33 彼らはイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」
5:34 イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。
5:35 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」5:36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
5:37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
5:38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」

先週は、全身が麻痺してしまった人がイエス様の所に連れて来られ、イエス様が癒やしたという話でしたね。
今日はそのすぐ後に起こった出来事です。
イエス様はその後、その家を出ていくと、レビという取税人と出会います。
取税人というのは、つまり税金を徴収する人ですね。
この時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にありましたから、ローマ帝国に対して多大な税金を支払っていました。
取税人はさらに、余分に税金を徴収し、差額を自分の懐に入れていたので、お金持ちでしたが人々から嫌われ、敵視されていました。
しかもこのレビはユダヤ人でしたから、裏切り者としてかなり嫌われていただろうと思います。
そんなレビとイエス様は出会い、イエス様は言いました。
「わたしについてき来なさい。」
こうしてレビは、イエス様の弟子となります。
このレビこそ、後に福音書を書く事になるマタイですね。

イエス様はこの時、どうして取税人だったマタイに声をかけたのでしょうか?
マタイは、どうしてこの一言でイエス様の弟子となったのでしょうか?
イエス様はこのように言っています。

5:31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

マタイは罪人で、他の人はそうではないという事でしょうか?
そうではないですね。
自分が病気で、治してもらう必要があるという自覚のある人だけが医者に行きます。
私たちはみんな罪人ですが、イエス様は「自分が罪人だ」という自覚のある人を救いに導くのです。

こうして、自分は罪人だという自覚を持った取税人や、たくさんの罪人たちが、イエス様の元には集まってきました。

それを見て、眉をひそめる人たちもいました。
律法学者や、パリサイ派の人々です。
彼らは何が気に食わなかったのでしょうか?
律法学者やパリサイ派の人々が何を求めていたのかを考えながら、今日の聖書箇所を共に考えていきたいと思います。

1  分離された人々
さて、先週も少しお話ししましたが、パリサイ派というのは、「分離された」という意味を持つ言葉からできた呼び名で、彼らは律法を守って自分たちを聖く保ち、罪人たちとの接触を一切断とうとしていた人たちです。
だから、うわさに聞くナザレのイエスという人が、汚れた人々とされる罪人たちや、取税人のような裏切り者とともに食事をしているのを見て、眉をひそめたのです。

それどころかこの連中は、律法に則って断食をして祈るという事もしない。
パリサイ派の人々にしてみれば、「ダメだこいつら。話にならない。」という感じですよね。
そこで、質問というよりは半ば軽蔑を込めて、このように言ったのです。
「私たちは律法に従って、断食をして祈ります。バプテスマのヨハネの弟子たちだってそれくらいの事はする。なのにあんたたちは、どうしていつも食べたり飲んだりして、罪人たちとともに過ごしているんだ?」

断食とはどういうものでしょう?
「断食」というのは、原文では「身を悩ませる」という意味の言葉で、律法では毎年7月10日の罪の償いがされる日に、断食をする事が定められていました。
他にも悲しみの時や、悔い改めを表す時、必死の祈りの時などに断食が行われました。
この頃には、パリサイ派の人たちは断食をする事によって自分の宗教的敬虔さを表し、週に二度断食をして、自分たちの信仰深さをアピールしていたのです。

パリサイ派の人たちに、イエス様は答えます。
「今は地上に私がいるので、悩みの時、悲しみの時ではありません。でも私がこの地上を去る時には、弟子たちも悲しみの中で断食をしますよ。」

断食に関わらず、多くの宗教的な儀式や行いが、多くの人々によって守られていました。
私たち日本人も、形から入ったり、伝統を守るのが大好きですよね。
そういう事から学ぶ事がたくさんあるのは、確かな事だと思います。
でも、形ばかりが大事になって、その本質的な意味を見失われてしまうのは、決して神様が求めている方法ではありません。
そこでイエス様は、このような話をされたのです。

2  古い布きれ、古い革袋

5:36 イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。
5:37 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。
5:38 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
5:39 また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い』と言うのです。」

これには少し、解説が必要ですね。
どうして新しい布きれで、古い着物に継ぎをしないのでしょうか?
それは、新しい布きれは洗うと縮んでしまうからです。
古い着物は、そのままでも生地が弱くなっていますから、新しい布きれで継ぎをして選択をすると、継ぎをした布切れが縮んで、古い着物が破れてしまうのです。

それでは、どうして新しいブドウ酒を、古い革袋には入れないのでしょうか?
新しいブドウ酒は、まだ発酵が続いているので、その時にたくさんのガスが発生します。
新しい革袋だと革が柔らかいので、ガスが発生してもそれに合わせて膨張する事ができます。
しかし古い革袋は、表面がカチカチに堅くなってしまっているので、ガスが発生すると膨張に耐え切れず、破裂してしまうのです。
これは、古いやり方、考え方のままで新しいものを取り入れようとしてもうまくいかないという事です。
それどころか、すべてを台無しにしてしまう。

これまで、人々には律法と預言者による言葉だけが与えられてきました。
それを受け取った人々は、その言葉を大切にし、守ろうとする事によって神様への愛を表そうとしてきたのです。
そこにはもともと、間違った受け取り方もたくさんありましたが、手がかりは旧約聖書しかなかったのだから、ある程度は仕方がなかったでしょう。
でもその時代は終わった。
旧約聖書に約束されていたメシヤがきたのです。
神様が直接、聖書の意味を教え、その生き方を実践して見せたのです。

古い律法主義的、行い主義的、宗教的な方法は、新しい福音的な価値観と相容れません。
福音を理解し、福音に生きるためには、古い考え方を捨て、新しい器になる必要があるのです。

3  新しい革袋
さあ、私たちはどうでしょうか?
「自分は別に、律法主義的じゃない。宗教的でもない。だから新しい器だ。」
「これだからパリサイ人は…」
僕もそう思っていました。
でも、イエス様が言ったこの言葉の意味を深く理解するにしたがって、自分がどれほど古い着物や古い革袋に固執していたかがわかってきたんです。

「あの人を愛しなさい。」と神様に言われる。
「あの傷を与えた相手を赦しなさい。」と言われる。
「あの人に福音を伝えなさい。」と言われる。
「あの人を助けなさい。」と言われる。
「あの人に声をかけなさい。」と言われる。
「受けるのではなく、与えなさい。」と言われる。
「いつも喜んでいなさい。」と言われる。
「全てを私に委ねて、心配をしてはならない。」と言われる。
「これまでやった事がない事に挑戦しなさい。」と言われる。

そんな時に私たちは、「いや、私にはムリです。私はそういう人間じゃない。やった事がありません。」と答えてしまう事がどれほど多いでしょう。

私たちは、新しい事が苦手です。
これまでの生き方がある。
これまでやってきた方法がある。
そして、そしてそこそこうまく生きてきました。
それなりに満足はしているかもしれません。
しかしみなさん、経験は素晴らしいものではありますが、時として、僕たちが新しい自分へと変わるための邪魔になってしまうのです。
古いワインは良いものだと思いこんで、古いものを手放せないでいるのです。

聖書には何と書かれていますか?
神様は何と約束しているでしょうか?
IIコリント4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

IIコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

私たちがイエス・キリストと共に歩み始めているなら、私たちはもう、新しい着物、新しい革袋に変えられているのです。
それなのに、古い着物、古い革袋からくる古い価値観に縛られてしまっている。
でも考えてみてください。
このままでは、何も変わらないんです。
今までと同じ事をやっていたのでは、僕たちの人生が変わるはず有りません。
新しい着物として生きませんか?
新しい革袋として生きませんか?
私たちはもう、新しくされているのですから。

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