ルカ6:12-19 『 ルカ18 十二人の使徒 』 2015/05/10 松田健太郎牧師

ルカの福音書6:12~19
6:12 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。6:13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
6:14 すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、
6:15 マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、
6:16 ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。
6:17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。
6:18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。
6:19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。

イエス様の周りには、いつでもたくさんの人たちが集まっていました。
そしてそういう群衆の中に、特にイエス様に仕えていこうとする弟子たちがたくさんいました。
ある時イエス様は、人々から離れて山に行き、ひとりきりになって祈ります。
そして一心不乱に祈っている内に、やがて夜が明けて朝になったのです。
イエス様は、弟子たちの中から、大切な役割を果たす使徒たちを選び出すために祈っていたのでした。
そしてイエス様は、たくさんいた弟子たちの中から、イスラエルの12部族と同じ、12人を選び出し、“使徒”と名づけます。

イエス様は何のために、この12人を特別に選んだのでしょうか?
実はマルコの福音書の中に、その事を説明する言葉が記されています。

マルコ3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

第一にそれは、『身近に置くため』でした。

どんなに素晴らしく見える人でも、その人と一緒に暮らしてしばらくすると、悪いところもいくつか見えてきてがっかりしたりもするものです。
でも、イエス様に関してそれはありませんでした。
生活を共にし、いつも身近にいる中で、彼らはイエス様が確かに全き人であり、罪を犯す事がなかったことを見たのでした。

第二に、『遣わして、福音を宣べさせ』るためでした。

地上にいる間、イエス様の体はひとつの場所に制限されざるを得ませんでした。
そんなイエス様が、ひとりでも多くの人たちに派遣して、福音を伝えるために、使徒たちは選ばれたのです。

第三に、『悪霊を追い出す権威を持たせるため』でした。
使徒たちは、悪霊に縛られて神様から離れてしまっていた人たちを解放しました。
その時、そこには神の国がもたらされ、神の支配が広げられていったのです。
そんな重要な役割を持ち、イエス様が徹夜で祈りながら選ばれた使徒たちはどんな人たちだったのでしょうか?
今日は、あまり注目される事のない12使徒たちについて、少し学んでいきましょう。

① シモン・ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブ
さて、まず使徒たちの筆頭に当てられるのは、シモン・ペテロです。
彼は、教会の時代になるとみんなのリーダーとなって、多くの人たちが彼の元に集まるようになりました。
でも、イエス様とともにいた頃のペテロは、愚直でおっちょこちょい。
お調子者で、いつも失敗ばかりしていました。
それでも彼は、いつでもイエス様を愛し、後についていたのです。
だからこそ、イエス様を三回も知らないと言ってしまったことに落ち込みましたが、「わたしの羊を牧師なさい。」と命じられ、励まして下さるイエス様の愛によってその信仰を復活させていきます。

そんなペテロをイエス様の元に連れて行ったのは、ペテロの兄弟アンデレです。
彼は特に派手な事は何もしませんでしたが、彼の行動には一つの特徴があります。
それは、会った人をみんなイエス様の元に連れて行くという役割です。
彼がいなければ、ペテロはイエス様を知る事もありませんでした。
人々をイエス様の元に連れて行く人たちを必要としています。
彼自身が大きな働きをする事はありませんでした。
でも彼の働きにによって、多くの人たちがイエス様に繋がっていったのです。

次にヨハネです。
母親はイエス様の母マリヤの姉妹で、このふたりとイエス様とはいとこ同士という関係だった事になります。
彼は、イエス様から雷の子(ボアネルゲ)と名づけられるような気性の激しい、怒りっぽい人物だったようです。
しかしペテロとヨハネは、いつでもイエス様のそばにいました。
イエス様はふたりの中に、リーダーとしての素質を見出していたのかもしれません。
ヨハネは「自分こそイエス様から最も愛されている。」という自信いっぱいの人でもありましたね。
ヨハネが書いた福音書では、名前を伏せながらも自分が一番愛されていたと主張しています。
さて、ペテロとアンデレが兄弟だったように、ヨハネにはヤコブという兄弟がいました。
母親がヨハネのヤコブを連れてイエス様の元に行き、「あなたが王になったら、この子たちをその右と左に座らせてください。」と権力を主張するようなズルい事もありました。
しかしこのヤコブは、後にヘロデ・アンティパス王に殺され、最初の殉教者となったのです。

② ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス
ピリポは、あまり印象に残っていないかもしれません。
5千人の人たちと荒野をさ迷っていた時、イエス様が「どうやって彼らに食べさせようか。」と聞いたのがピリポです。
その時ピリポは、「二百デナリでは足りませんねぇ。」と、何の解決にも答えにもなっていない返答をしています。
また別のところでは、ピリポはイエス様に「あなたがいつも話している父を、私にも見せて下さい。」と言いました。
その時イエス様は、「ピリポよ。あなたはこれほど長く私と一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。」と言って呆れてしまっています。
ようするに、このピリポという人は、鈍い人なのです。
霊的な物事に対して、鈍いタイプの人がいるものです。
それでも彼が、使徒の中に加えられていたのは慰めですね。

バルトロマイはピリポの友達です。
このバルトロマイは、別の福音書ではナタナエルと呼ばれています。
かれについての記述はほとんどありませんが、イエス様との出会いの時、「ナザレから何の良いものがでるだろうか。」とバカにして言った人です。
しかし、いちじくの木の下で祈っていたのをイエス様が見ていたという言葉に驚いて、イエス様について行く事を決めます。
マタイは、先々週のメッセージでお話ししましたね。
彼はもともとは取税人で、ユダヤ人たちから疎まれている人でした。
しかしイエス様と出会い、ユダヤ人たちのために福音書を書くほど、イエス様とユダヤ人とを愛した人でした。

トマスは、デドモとも呼ばれるとある個所では出てきます。
デドモというのは双子の意味で、実はふたりのトマスがいるのではないかと思うほど、考えが右に左に揺れてしまう人だったようです。
要するに、優柔不断だったのです。
ラザロが死にそうだという知らせを受けた時には、イエス様を殺そうとしている人たちがいるベタニヤに行くべきではないと止めつつも、その後には「先生と一緒に死のうではないか。」と前言を翻しています。
イエス様が復活したと聞いた時には、「この目で見るまで信じない。」と疑い深さを露わにしましたが、実際にイエス様に合うと、「わが主よ、わが神よ」とはっきりした信仰を告白したのです。
気持ちによって信仰が右に左に揺れてしまう、そんな信仰の持ち主がトマスでした。

③ アルパヨの子ヤコブ、熱心党シモン、ユダ、イスカリオテのユダ
ここから、聖書にも殆ど出てこない人たちが続きますが、まずはアルパヨの子ヤコブ。
別のところでは小ヤコブとも呼ばれています。
使徒たちの中でもとにかく目立たない人でした。
続いて熱心党のシモン。
熱心党というのは、ユダヤの独立を目指して活動する政治的組織でした。
今でいう、過激派です。
彼らは、イスラエルはローマに税金を払うべきではないと強く主張していましたから、取税人を激しく憎んでいました。
そんなシモンと、取税人マタイが同じ使徒として任命されていたところがすごいところです。

ヤコブの子とされるユダは、別のところではタダイとも呼ばれていますが、いずれにしても手がかりがほとんどありません。

最後に、イスカリオテのユダ。
彼がイエス様を裏切り、ローマ兵たちに売る事になってしまいます。
どうしてこんな裏切り者が、使徒の中に入れられていたのでしょうか?
ひとつわかる事は、そんなユダでさえ、イエス様は他の弟子たちと同じように愛していたという事です。
イエス様は過ぎ越しの時、ユダの足さえも洗い、ユダにしかわからない形で何度も悔い改めを求めます。
ユダが悔い改めても、イエス様が十字架にかかるという神様の計画は変わらなかったでしょうが、この事を通してユダが「生まれてこなかった方が良かった」ほどに苦しまなければならなくなる事を、イエス様は知っていたからです。
それでもユダは、イエス様の声に耳を傾けず、銀貨20枚でイエス様を売ってしまいました。

さて、このようにして様々な人たちが、使徒として選ばれました。

 

しかし、イエス様が徹夜で祈り求めながら任命した割には、あまりにも頼りなく、あまりに役に立たず、あまりにも愚かな使徒たちではないでしょうか?
彼らは大した教育も受けたわけではなく、決して良い性格だったわけでも、深い信仰を持っていたわけでもありませんでした。
これが、神様の選びと言うものなのです。
パウロは手紙の中でこのように言っています。

Iコリント1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

私たちも、彼らと同じように、もともとは欠けだらけ、問題だらけだったりします。
でも、使徒の働きに入って聖霊を受けた後の彼らの活躍を思い出してみて下さい。
欠けだらけ、問題だらけの私たちが聖霊に満たされる時、私たちの不足を神様が補って下さり、私たちが短所だと思っていたものが長所へと変わるのを体験するのです。
神様がもともと創って下さった私たちは、素晴らしいものだからです。

また、マタイと熱心党シモンのように、主義主張、性格が正反対の人たちが同じところに集まってきたりもします。
普通ならそこにケンカが起こり、派閥ができて体験な状況になってしまう事も少なくはありません。
でもそんな人々が、イエス様によって結び付けられる時、互いに赦しあい、互いに愛し合い、互いに仕え合う心が与えられたりするものなのです。

生まれも育ちも全く別の私たちが兄弟姉妹となるのが、教会の奥義のひとつなのです。
使徒とは、もともと遣わされる者という意味の言葉です。
厳密に言えば賜物が違うかもしれませんが、大きな意味で言うなら、私たちはそれぞれに神様に召され、遣わされている使徒です。
失敗だらけ、問題だらけだった彼らが、それでもイエス様の使徒として選ばれたように、私たちも主に選ばれ、遣わされるものとしての自覚と、喜びを大きくして行こうではありませんか。

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