ルカ6:27-36 『 ルカ20 高原の説教II (敵を愛しなさい) 』 2015/05/24 松田健太郎牧師

ルカの福音書6:27~36
6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。
6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。
6:30 すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。
6:31 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。
6:32 自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
6:33 自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。
6:34 返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。
6:35 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。
6:36 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

前回から引き続いて、イエス様が話された高原での説教です。
高原での説教は、イエス様が単に集まってきた人たちではなく、イエス様の弟子となり、生涯を捧げようと願った弟子たちに向けて話された言葉でした。
それもあってこの言葉は、私たちの心に食い込み、価値観をひっくり返し、チャレンジを与えるような言葉なのです。

今日のチャレンジは、「あなたの敵を愛しなさい。」という事です。
皆さんには敵がいるでしょうか?
“敵”という言葉を聞くと、皆さんは誰を思いつきますか?

人間関係の問題は、私たちが日々の生活を送っていく中で、一番現実的で、基本的な問題です。
私たちが一人で生きていく事はできませんから、どうしても他の人たちと関わり合って生きていかなければなりません。
そうすると、中には気の合う人たちもいれば、どうしても嫌いな人、好きになれない人、気の合わない人がいたりもするものです。
できればそういう人たちを避けたいものですが、私たちが社会の中にいる以上、それは決して避けられるものではありません。
それどころか、イエス様は私たちに、そのような人たちとも積極的に関わりなさいと教えているのです。

ましてや、私たちの敵と愛するとはどういう事でしょうか?
自分と同じ価値観を持っていたり、利害が一致している人たちを愛することはできます。
でも、そうじゃないヤツを愛することは難しいし、敵対するなら憎むべき相手です。
大体その相手を愛するというなら、それはもう敵じゃないではありませんか?

イエス様は一体、何を私たちに伝えようとしているのでしょうか?
どうしたら、敵を愛するなどという事が可能になるのでしょうか?

① 敵をも愛する愛
さて、前回のメッセージの後半で、このように語られていたのを覚えているでしょうか?
「人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。」
それは、迫害を受ける事でさえ幸いとなるんだという言葉でした。
この時彼らはまさに、このような事態を経験していたのです。
彼らは、同胞であるユダヤ人たちから嫌われ、憎まれ、異端と呼ばれ、けなされていました。
その迫害は、その後もどんどん大きくなり、ついには人々がクリスチャンだというだけで捕えられ、生きたまま皮を剥がれ、殺されるという事まで起こっていったのです。
そのような現実の中でイエス様は、敵を愛し、彼らのために祈りなさいと言ったのです。

皆さんならできるでしょうか?
皆さんはどうだか判りませんが、少なくとも僕の中にこのような愛はないと断言します。
実際のところ、これはできる事ではありません。
なぜなら、罪人である私たちの中にある愛は、自己中心的な愛でしかないからです。

では、イエス様が話した事は単なる絵に描いたモチでしょうか?
遠くから眺めて、「きれいだなぁ」と言っているだけのものに過ぎないのでしょうか?
そうではないはずです。
なぜならば、まずイエス様ご自身が、このような愛を実際に見せて下さったからです。

イエス様は愛する人々から裏切られ、鞭うたれ、嘲笑われ、唾を吐きかけられ、ついには十字架にかかって殺されました。
しかしその時にイエス様の中にあったのは、いつでも人々を愛し、ひとりでも多くの人たちを救い出そうとする思いだったからです。
そして弟子たちもまた、激しい迫害の中、それでも人々を愛しながら命を落としていったからです。
そこにあったのは、確かに神の愛、アガペーの愛でした。
彼らは一体どうやって、そのような愛を自分のものとして成長していったのでしょうか?

② 神様の愛
そこで私たちは、イエス様がどのような流れの中でこの話をされたのかという事を思い出す必要があります。
前回の話を思い出してみましょう。
弟子たちを見つめながら、イエス様が最初に与えたチャレンジは、私達クリスチャンの幸いについてでした。
私たちが貧しい時、飢え渇いている時、心の底から泣く時、イエス様の名ゆえに憎まれ、迫害される時、私たちは幸いだとイエス様は言いました。
そのような所に幸せを見出していく事は、私たちには到底できる事ではないように思えます。
でも、私たちが幸せだと思っている富や物質的なもの、地位や名誉、一時の笑いや他人の評価は、決して私たちを幸せにはしません。
私たちが本当に必要としているのは、心の飢え渇きが満たされる事であり、魂の貧しさが満たされる事だからです。
心の飢え渇きと、魂の貧しさを満たす事ができるのは、神様だけです。
だから私たちがそのような貧しさ、飢え、渇きを自覚して神様にそれを求める時、私たちは状況によって左右される事のない本当の幸せを得る事ができるという教えだったのです。

本当の幸いを得るための秘訣は、それを神様に求める事でした。
今日の箇所は、この話の流れの中で語られている事ですから、そこに同じ原理を観致す事ができます。
私たちは敵をも愛する愛を自分の中に見出そうとするのではなく、神様に求める必要があるという事です。
「私にはできない。」
私たちはまず、そこに立つ必要があります。
「私には、敵を愛する事なんてできない。」
なぜなら、私たちは霊的に貧しく、心が飢え渇いた罪人でしかないからです。

でも私たちが神様を見上げる時、私たちはそのような愛を神様の中に見出す事ができるのです。
私たちの中にそのような愛はない。
しかし、神様はそんな愛で私たちを愛してくださっているのではなかったでしょうか?
私たちは、神様を無視し、背き、反逆して自らが神になろうとさえした、神の敵でした。
『片方の頬を打たれたら…』と書かれていますが、イエス様の頬を打ったのは私達です。
私たちが神様を憎み、呪い、侮辱してきたのです。
そんな私たちを神様はそれでも愛し、私たちに善を行い、私たちを祝福し、私たちのために祈ってきました。
そしてついに、私たちのために命を投げ出して下さったのです。

そのような愛が、私たちの上には注がれています。
神様がまず、敵だった私たちを愛してくださったのです。
その事に気づいたヨハネは、手紙の中でこのように書いています。

Iヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


私たちがただ、ひたすらに隣人を愛し、敵を愛する事を求められていて、それができなかったら天国には行けないと言われていたとしたら、私たちは誰一人として天国に行く事はできません。
でも神様は、まずそんな僕たちを愛し、赦しを与えて下さっている。
私たちが、そのような無限の愛で愛されている事を知るなら、私たちの内にも他の人たちを愛したいと思う勇気が、湧いてくるのではないでしょうか?
ヨハネは、手紙の中でこのようにも言っています。

Iヨハネ3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

イエス様は文字通り、私たちのために十字架にかかり命を捨てて下さいました。
私たちは、同じような意味で命を捨てるという事はあまりないかもしれません。
でも私たちは、誰かを愛するために、自らの自我や欲求、欲望を捨てて、誰かに仕え、誰かに与える事ができるのです。

ここにいる私たち一人ひとりが、このような愛で隣り人を愛し、敵をも愛するようになったら、私たちの周りにはどんな事が起こってくると思いますか?
私たちが好きな人だけでなく、私たちには何の得になるわけでもない人たちを愛するなら、私たちに害をなす人たちでさえ愛していくなら。

その時私たちの周りには、孤独で苦しむ人たちはいなくなるのではないかと思うのです。
また、その愛は私たちを憎む人たちの心さえ解かし、争いがなくなっていくのではないかと思うのです。
私たちの周りから、孤独や争いがなくなったら素晴らしいと思いませんか?
それが地域に広がり、町を変え、国を変え、世界の文化を変えていったら、素晴らしいと思いませんか?

私たちが、自分の力で世界を変える事はできません。
しかし神様が、それを可能にして下さるのです。
神の子供とされた私たちが、今できる事は何でしょうか?
私達が今愛し、仕えるべき相手は、誰なのでしょうか?
祈りましょう。

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