ルカ7:36-50 『 ルカ27 赦しの大きさ 』 2015/07/19 松田健太郎牧師

ルカの福音書7:36~50
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓についておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心でひそかに思っていた。
7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたい事があります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返す事ができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが、「よけいに赦してもらった方だと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。
7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入ってきたとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、私の頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
7:47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 

さて、ある時イエス様はパリサイ派のユダヤ教徒、シモンの家の食事会に招かれました。
この頃、イエス様はほとんどのパリサイ派のユダヤ教徒たちからは嫌われていましたから、これは特別な事です。
シモンはパリサイ派でありながらも、イエス様の噂を聞き、あるいはその奇跡や福音をの言葉を耳にして、個人的に話を聞いてみたいと思ったのかもしれません。
しかしそこに、ひとりの招かれざる客が入ってきました。
イエス様がそこいる事を聞きつけて、ひと目会いたくて入ってきたというのです。

それは、この町でも罪深い女として有名な女でした。
彼女が具体的にどういう罪を犯していたのかは、書かれていません。
でも、罪深い女として有名だった事と、貴族でも何でもない彼女が高価な香油を持っていた事を考えると、恐らく娼婦だっただろうという事が考えられます。

想像してみて下さい。
見るからに際どい格好をした、近所でも有名な女性が、突然家の中に入ってきたのです。
しかもしれは、パリサイ派ユダヤ教徒の家。
あまりにも場違いな場所だといえるでしょう。
そこにいた人々は騒然となりました。
あるいは息を飲んで、イエス様がどのように対応するかを伺っていたかもしれません。

この女性は、どうしてこんな場違いな所で恥をさらすような事をしたのでしょうか?
そして、この時の出来事は私たちにどのような意味を持っているのでしょうか?

① 罪深い女
さて、突然シモンの家に入ってきた罪深い女は、その手に香油の入った石膏のツボを持って来て、泣きながらイエス様の後ろで足のそばに立ち、涙で足を濡らし始め、髪の毛でぬぐい、イエス様のその足に口づけして香油を塗りました。
彼女は一体、何をしているのでしょうか?
彼女がした事の意味はここでは書かれていないので、はっきりとはわかりません。
でも、この女性は深い悲しみを抱えていて、イエス様に会いたかったのです。

イエス様に会えば、何かが変わると期待していたのかもしれません。
あるいは、自分の罪が赦されると、本能的に悟っていたのかもしれません。
何か言いたい事、打ち明けたい事、訴えたい事もあったのかもしれません。
しかしこの女は、イエス様の元に来ると、ただただ涙があふれてきたのです。
それは、イエス様の愛に触れた人が流す、感動の涙でした。
そしてそれは、罪深いこの女が自分の罪を思い、悲しむ悔い改めの涙でもあります。
その涙は頬を伝わって落ち、イエス様の足を濡らしました。
すると今度は、その髪の毛で涙をぬぐい、イエス様の足に口づけをして、持っていた高価な香油をその足に塗ったのです。

それは、この時の彼女にする事ができる最大の賛美でした。
自分が持っている一番いいものを捧げる事、それが神様を崇める事であり、神様を礼拝する事なのです。

② パリサイ派シモン
シモンは、その場に起こっている出来事を呆然と眺めていました。
しかしやがて、シモンの心にはひとつの思いが沸き起こってきたのです。
「俺はこの人こそ真の預言者かも知れないと思っていた。でも、このナザレのイエスという人が本当に神様から遣わされた預言者なら、今ここにいる女がどんな女なのか分かっているはずだ。預言者がこんな汚れた女に触れられることを黙って見ているはずがない。こいつはニセモノだ。」

ここしばらく、私たちの思いこみが神様の愛を見えなくするという話をしましたね。
彼の中には、神様から遣わされた聖い方が、罪深い女に触れられたら汚れるという思い込みがあったのです。
それは、パリサイ派的聖書の解釈であり、多くの人々が持っていた思い込みでした。
だから彼は、神様の愛を目の当たりにしていながら、そこにある真理を見る事ができなくなっていました。
シモンの中には、イエス様を偽預言者として軽蔑する思いさえ、起こってきたのです。

イエス様は、その事に気が付きました。
そして、シモンに声をかけます。
「シモン、あなたに話したいことがあります。」
シモンは、軽蔑の念を含ませながら答えます。
「ああ先生、どうぞお話しください。」
そこでイエス様は、こんなたとえ話をしたのです。

7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
7:42 彼らは返す事ができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

500デナリは500万円、50デナリは50万円くらいです。
借金を許してもらった二人の内、どちらがより喜んだでしょうか?
これはとてもわかりやすいたとえ話ですね。
50万円もらうのも嬉しいですが、500万円もらう方がもっと嬉しいでしょう。
イエス様の話のポイントはこうです。
より多く赦された人はより多く受け取った人であり、より多く喜び、より多く感謝する。
赦されている事の喜びが大きいからこそ、より多くイエス様を愛するのです。

パリサイ派のシモンは、イエス様を夕食に迎え入れましたが、足を洗ったり、頭につける油を持ってくるという当時のおもてなしをしませんでした。
イエス様の事を、最初から下に見ていたのです。
自分が家に招き、話をさせ、評価を下してやろうと思っていたのです。
しかし、途中から入ってきたこの女は、イエス様の足を涙で洗い、髪の毛でぬぐい、香油を足につけてもてなしました。
それは、この罪深い事で評判だった女が、より多くの罪が赦されたことを知っていたからでした。
彼女にとっては、イエス様のそばにいるだけで喜びであり、自分の様な者が赦してもらえる喜びで震え、涙が止まらないほどだったのです。

③ 赦されている罪の大きさ
さて、私たちはどのように、この話を受け止めるでしょうか?
イエス様のたとえ話を、どのような言葉として受け取るのでしょうか?
「赦された罪が大きい方が、イエス様への愛が大きくなる。」
「そうか、私の信仰があまり大きくならないのは、私の罪があまり大きくないからだ。」
「なら、私たちもいっぱい罪を犯した方が良いですね」と思われるでしょうか?
パリサイ派のシモンも、この言葉をそのように受け取ったかもしれません。

パリサイ派のシモンは、この罪深い女に比べたら罪が少なかったのでしょうか?
私たちも、そう思ってしまいがちです。
他の人たちと比較して、自分は彼らより罪が少ないと思う。
自分は正しいけれど、あいつらは間違っている。
酷い罪人だと思う。
ああいう連中の罪は赦せない!
でも、そうではありません。
見落としてしまいがちですが、私たちも、彼らと同じくらい罪人なのです。

「何を言っているんだ?売春婦なんかと一緒にするな!」と、シモンは言ったでしょう。
もしかしたら、皆さんもそう思うかもしれません。
しかし残念ながら、それは本当の事です。
私たちもまた、「あんな奴ら」と思う人々と同じくらい間違っているし、同じくらい罪人なのです。
違うのは、罪が大きいか小さいかではないんです。
ここで問題にされているのは、自分の罪を小さく評価しているか、それとも自分の罪の大きさを自覚しているかという事なのです。

私たちの一番大きな問題は、人と比べて自分は正しいと考えてしまう思い込みです。
でも実はそれ自体が、自分を正しいと思いこむ、自己義認という罪なのです。
それは、偶像崇拝と同じくらい、神様が嫌う大きな罪です。

私たちが、自分の罪を小さく見積もっているなら、私たちは赦しの素晴らしさを実感することはあまりないでしょう。
イエス様への感謝や、愛する気持ちも小さいものになります。
でも、自分の罪をよく知っている人は、赦されている事の大きさもよく理解しているのです。
そして「わたしの罪を贖うために、イエス様は十字架にかからなければならなかった」という事と、その恵みの大きさに圧倒されます。

私たちは、パリサイ派のシモンの様に、自分の罪を小さく見積もっていないでしょうか?
イエス様の十字架による罪の赦しを贖いを感謝するために、多くの罪を犯す必要はありません。
ただ、ありのままの自分をよく知ればいいだけです。
そして、自分がしてきた行いよりも、自分の心の状態に目を向けてみる事です。
表面的にごまかす事なんていくらでもできます。
でも、私たちが心の中で思っている事は、私たち自身と、神様にしか聞こえません。
私たちが普段、何を考え、何を思っているか。
そこから、どれだけ神様を締め出そうとしているか。
それが、私たちの罪の大きさです。
そんな私たちを、神様は御子イエスの命と引き換えに贖って下さったのです。
それがどれほど大きな恵みか、どうか祈りつつ考えてみてください。
その時私たちは初めて、神様の愛の大きさ、赦しの大きさに気づくことができるのです。

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