ルカ8:4-15 『 ルカ28 実り豊かな人生 』 2015/07/26 松田健太郎牧師

ルカの福音書8:4~15
8:4 さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスさはたとえを用いて話された。
8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いている時、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
8:7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
8:8 また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
 イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のあるものは聞きなさい。」と叫ばれた。
8:9 さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
8:10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知る事が許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
8:12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われる事のないように、その人たちの心からみことばを持ち去ってしまうのです。
8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いた時には喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらく信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです。
8:14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでならないのです。
8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

 

聖書の言葉には、力があります。
聖書はこれまでの歴史の中で、多くの人たちを励まし、落ち込んだ人たちをもう一度立ち上がらせ、進むための力を与えてきました。
ある時には、自らの罪に気づかせ、生き方を変えました。
そして聖書には、人々を神様に立ち返らせ、人生そのものを変える力があるのです。

実際に、何人もの人たちの人生が、聖書の言葉によって変わるのを見てきました。
新しい命によって歩み始める人たちを見る事は、何にも勝る興奮であり嬉しい事ですね。
皆さんの中にも、そのような証があったり、聞いたことがある方がたくさんいらっしゃることでしょう。

でも、色んな人たちに福音を伝えていると、気がつく事があります。
それは、同じように話をしていても、聖書の言葉に敏感に反応して信仰を持つ人と、全くと言って良いほど反応しない人とがいるという事です。
同じ言葉を同じように話しても、反応に差があるのはなぜなのでしょうか?
聖書の言葉には、人生を変える力があるのです。
どうせなら、もっといろんなものを吸収して、実りの豊かな人生を送りませんか?
その答えとなるのが、今日の聖句である、イエス様が話したたとえ話です。

① 道ばたに落ちた種
イエス様は、種のたとえを使って4種類の人について話しています。
まず第一は、道ばたに落ちた種です。

8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いている時、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
このたとえの意味については、イエス様ご自身が解説していますね。
8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
8:12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われる事のないように、その人たちの心からみことばを持ち去ってしまうのです。

御言葉を聞いても、読んでも、こういう人たちの心の中には入っていきません。
聖書の言葉は、全く響かないのです。
こういう状態にある人たちは、もちろん自覚があるわけではありません。
自分は悪魔の支配の中にあるという事自体がわかっていないのですから、気が付かないのも当然なのです。

自分の価値観、世の中の考え方、本で読んだ知識に固執してしまっていると、悪魔はそれを巧みに利用します。
心を開いて神様の声に耳を傾けようとしない心は、道ばたのように固い心なのです。

② 岩の上に落ちた種
ある人たちは、一見福音を受け入れて、喜びの中にあるように見えます。
しかし、時間とともにその信仰はなくなってしまう。
そのような人は、岩の上に落ちた種の様だとイエス様は言います。

8:6 また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
これについて、イエス様はこのように解説しています。
8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いた時には喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらく信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです。

どれだけ芽吹いて、育ってきたように見えても、根が土に根付くことがなければ、その種は育ち続ける事ができません。
感情だけの信仰は、まさにこういうものだと言えるかもしれません。
感情の力は強いので、福音を聞いた時、その喜びでぐんぐん受け入れていくように見えます。
でも、感情は表面的な信仰でしかないので、良い事が起こっている間は良いですが、何か問題が起こると、感情はすぐにしぼんでしまって、すぐに信仰から離れてしまうのです。

感情そのものが悪いのではありません。
時に感情が、大きく成長する力になる事も確かです。
でも、それだけでは岩の上に落ちた種でしかありません。
私たちはもっと地に根を伸ばすような成長が必要なのです。

③ いばらの中に落ちた種
それでは、土に根を伸ばす事ができればいいのかと言うと、必ずしもそういうわけではない事を、イエス様は3つめのたとえで教えてくれています。

8:7 また、別の種はいばらの真ん中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。

8:14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでならないのです。

良い土壌であるほどに、そこには他の色んなものも育ってくる可能性があります。
良く気づき、色んなものに興味を持ち、真理を追究しているようなのですが、何もかもを自分のものにしようとし過ぎて、世の中の常識や価値観に振り回されてしまう。
そんな中で、他のものに力を奪われてしまって肝心な神様との関係は成長していかない。
むしろ枯れていってしまうという事も起こるのです。

パウロもまた、この事を忠告し、アドバイスを与えてくれています。

ガラテヤ 5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させる事はありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思う事をすることができないのです。

④ 良い地に蒔かれた種
最後に、蒔かれた神様の言葉がどんどん成長していく人の事を、イエス様はこのように話しています。

8:8aまた、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」

これが、私たちの望むことですよね。
神様の言葉を受けて、私たちは百倍の実を、結びたいのです。
良い地に種が落ちるとはこういう事だとイエス様は解説しています。

8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

良い地とは、第一のタイプのように頑なな心ではなく、第二のタイプのように感情だけに頼るのでもなく、第三のタイプのように神様とこの世の両方に仕えようとする二心があるのでもない状態。
偏見や思い込みで物事を決めず、謙虚で、素直な心を持ち、素直に感動する幼子のような心を持った人です。
もうひとつは、御言葉をよく守り、よく耐えるという事。
良い地として耕されるためには、それなりの努力も必要です。
それは、神様の言葉はただ聞いたり、蓄えるのではなく、従う必要があるという事です。
実践が伴わない信仰は、やがて虚しい外側だけの宗教になってしまいます。
外見がどれだけ整えられていても、そこには何の味わいもなく、栄養もなく、人生を変える力もないものです。
それでは、本当の意味で実り豊かな人生だという事はできないでしょう。

さあ、御言葉の種は今日も投げかけられています。
皆さんの心はどのような状態でしょうか?
道ばたのように頑なで、種はすぐに持っていかれてしまうでしょうか?
岩のような状態で、すぐに枯れてしまうのでしょうか?
いばらの真ん中のような状態で、他のものに栄養を持っていかれてしまうでしょうか?
実り豊かな人生を送るためには、私たちの心は良い地のようでなければなりません。
でも、自分は良い地のようではないと、すぐにあきらめないでください。
そのために、私たちは自分自身の心を耕す事もできるからです。

実はそのためのヒントは、イエス様のこのことばの中に表わされています。

8:8b イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のあるものは聞きなさい。」と叫ばれた。

叫ばれたという所に、イエス様がどれだけこの言葉を伝えたかったがわかりますね。
私たちにとって大切なのは、「聞く耳を持つ」という事なのです。

「聞く耳のあるものは聞きなさい。」という事は、逆に言えば聞きたくない人は聞かなくていいという事のようにも聞こえますよね。
聞いても、意味がないという事なんです。
実際に、聞く耳を持たない人たちがイエス様の言葉を聞いた時、彼らの心に起こったのはむしろイエス様に対する憎しみでした。
心を開き、御言葉を受け入れ、それに従う心を持っていなければ、どれだけ力のある言葉を聞いたところで意味はないのです。

大切なのは、私たちが心を開き、心から神様の言葉を求める事です。
そのようにして神様の声に耳をすませる時、私たちの心は良い地となって、御言葉がどんどん大きく成長していくようになるのです。
神様の言葉に期待してください。
心から求めて下さい。
そして、神様に信頼し、その言葉に従って下さい。
皆さんが、実り豊かな人生を送る事ができますように。

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