ルカ8:19-21 『 ルカ30 神の家族 』 2015/08/09 松田健太郎牧師

ルカの福音書8:19~21
8:19 イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のためにそばへは近寄れなかった。
8:20 それでイエスに、「あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに会おうとして、外に立っています」という知らせがあった。
8:21 ところが、イエスは人々にこう答えられた。 「わたしの母、私の兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」

 

今日の聖書箇所、これだけ読むと、イエス様が何だかすごく薄情で、冷たい人間のように思えませんか。
せっかく来たお母さんや、弟たちをないがしろにして、そこに集まっている人たちの事を家族だと言うなんて、それを聞いたマリヤたちはどんな風に感じた事でしょうか?
イエス様はなぜ、こんな事ひどいを言ったのでしょう?
今日は、その背景を探りながら、イエス様のこの言葉の意味するところを探っていきたいと思います。

① マリヤたちが来た訳
福音書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つあります。
この4つの福音書には、同じでき事について書いてあっても、それぞれに印象がかなり違ってくることがあるんです。
場合によっては、同じ事について書かれている他の福音書を読むことによって、初めてその話の全体像が見えてくると言う事もあります。
4つの福音書は、互いに補完し合っているのです。

今日の聖書箇所だけを読んでいると、イエス様が家族に対して冷たい事を言っているようにしか聞こえません。
でも少し、疑問も残りますよね。
マリヤと弟たちは、この時何のためにイエス様に会いに来たのでしょうか?
そこで、他の福音書の中で、この時の出来事の手がかりを探してみましょう。
そうすると、この時の状況がわかり、少し話が変わってくるのです。

実はマルコの福音書を読むと、マリヤたちがイエス様に会いに来た理由がわかります。
このように書かれています。

マルコ3:21 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出てきた。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。

この時、マリヤと弟たちがイエス様に会いに来たのは、イエス様を連れ戻すためだったというのです。
しかもそれは、イエス様の気が狂ったという噂を聞いたためだったのです。

ナザレで大工をしていた頃から、イエス様はかなり変わりました。
周りにいた人たちから見たら、狂ってしまったように感じたとしても、不思議はありません。
しかしそれにしても、他の兄弟たちはともかく、マリヤがどうしてこんな事になってしまったのでしょうか?
マリヤは、イエス様が生まれてくる前から御使いと会い、処女でありながらイエス様を妊娠するという奇跡も体験しました。
イエス様がメシヤだという事も、御使いから伝えられていたはずではありませんか。
今更どうして、「気が狂った」などという噂に惑わされてしまうのでしょうか。

結局、マリヤもまた、ひとりの人であり、母親だったという事ではないかと思います。
マリヤが、イエス様の母親だったからこそ、「気が狂った」などという噂に惑わされ、不安な気持ちになって来た、それこそが親心なのだと思います。
そこには親としての愛、そして子を思いやる気持ちがありました。
しかし、親の愛、思いやりが、必ずしも良い答え、正しい道に向かう答えだとは限らないという事なのです。


十戒には、「あなたの父と母を敬いなさい。」という言葉があります。
私たちは父と母を蔑ろにしてはならないのは、当然の事です。
しかし、もしも私たちの父と母が、神様の目には明らかに間違ったことを言ったとしたらどうでしょうか?
あるいは、神様から離れるように、信仰を捨てるようにと言ったとしたらどうでしょうか?
両親がクリスチャンでないなら、これは当然の事として起こり得る事です。
クリスチャンだったとしても、私たちはやはり罪人であい、間違いを犯してしまう事だってあります。

だからイエス様は、このようにも言っているのです。

マタイ10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

これはもちろん、家族を愛してはいけないとか、捨てるべきだとか、憎むべきだという事を言っているのではありません。
それでは言っている事が矛盾してしまいますよね。
でも、私たちが家族を大切にし、愛しているからこそ、神様よりも優先にし、偶像にしてしまう危険性を、家族との関係は持っているのです。

しかし、考えてみて頂きたいのです。
私たちの家族と、神様とでは、どちらが正しい事を知っているでしょうか?
私たちはその愛の大きさ、関係の深さから家族を神様よりも優先にしてしまいがちですが、どちらの意見に従うべきかという事は明確な事です。
でも、これも忘れないでおいていただきたいんです。
神様を優先にするという事は、家族を蔑ろにしていいという事ではないという事です。
聖書の中には、このようにも書かれています。
Iテモテ5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

イエス様は、この時は冷たい態度をとっているように思うかもしれませんが、関係を蔑ろにしていたわけではありません。
マリヤは死の間際にもイエス様に会いに来ますし、弟たちもイエス様が死んだ後、真理に気が付き、教会をまとめるはたらきのために命を注ぎました。

私たちに求められている事は、『神の国とその義とを、まず第一に求めなさい。』という事であって、神様の御心の中には、私たちが家族を愛する事もちゃんと含まれているのです。

③ 神の家族
最後にもう一つ、イエス様はこのような言葉でこの出来事を結んでいます。

8:21b 「わたしの母、私の兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです。」

ここでイエス様が言いたかったのは、マリヤや弟たちとは家族の縁を切って、教会の家族を大切にするという事ではありません。
神のことばを聞いて行う人たちは、「わたしにとって、家族と同じなんだ」「それほど大切なんだ」とイエス様は言っているのです。

ここで話は、先週、先々週の話と繋がります。
私たちが神様の言葉を聞き、従う事によって聖霊の油に満たされて光を放ちます。そうして私たちは、世の光となるんですよというのが先週の話しでした。
先々週は、御言葉を聞く耳を持ち、実行に移す事が、良い地に種を蒔くという事であり、それによって御言葉の種は100倍に成長するという話でしたね。
それが私たちに求められている事であり、そんな私たちは、イエス様にとって家族同然だという事なのです。
いやむしろ、それこそが本当の家族の姿だと、イエス様は言っているのです。

私たちが神様の言葉を聞き、従う私たちひとりひとりがイエス様の家族なら、イエス様によって繋がれた私たち同士も一つの家族ですね。
こうしてイエス様によって繋がれた主にある家族である私たちは、時として血を分けた家族よりもずっと深い関係を持っていったりするものなのです。

今僕は、セレブレーションオブラブwithフランクリン・グラハムというミニストリーの中で関東中の教会と繋がるような仕事をしていますが、そこで「やっぱり一つの家族なんだなぁ」と実感する事があります。
神学もバックグラウンドも違う教会が、どんどん繋がって協力し合っていく姿は、本当に美しいものです。
そしてその輪がどんごん繋がり、広がっていく事が、私たちにとっての大きな喜びです。

でも、私たちが忘れてはならないのは、私たちをひとつにするのは、「御言葉を聞き、それに従う」姿勢なんだという事です。
私たち一人一人の中にそういう思いがあるのでなければ、私たちが一つになる事は決してありません。
そこには私利私欲が入ったり、互いに利用しようとしたり、自分の正当性を主張しようとしたりすれば、その絆は簡単に壊れてしまいます。

キリスト教という宗教に属しているというだけの繋がりだけでは、決して家族となる事はできないんだという現実もまた、私たちの前にはあるのです。

私たち、クロスロードが一つの家族になれるかどうかという事も、その事にかかっています。
私たちは、ただ子の教会に来て話を聞いているだけで、家族になるわけではありません。
私たちひとりひとりが神様の御声を聞き、それに従っていくのでなければ、私たちが一つの家族になる事はできません。
所詮は価値観もバックグラウンドも違うあかの他人なのですから、当然と言えば当然の事ですよね。
わたしたちは自分の価値観や感情が優先になっている限り、一致する事が絶対にありません。
でも私たちは、主の御心を求めて一致する時、血を分けた家族でも経験することのないような、素晴らしい体験を分かち合う事ができるようになるのです。

神のことばを聞き、それに従う事の素晴らしさを、皆さんも体験しませんか?
それとも、ただ漫然と集まり、話を聞くだけにしておきたいですか?
皆さんが、祝福にあふれた人生を体験できますように。

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