ルカ9:37-43a 『 ルカ41 不信仰な今の世 』 2015/12/13 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:37~43a
9:37 次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。
9:38 すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。
9:39 ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。
9:40 お弟子たちに、この例を追い出して下さるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
9:41 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」
9:42 その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。
9:43a 人々はみな、神のご威光に驚嘆した。

 

先週は、イエス様がペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れて山にのぼり、ひとり静まって祈る事の大切さを教えたことについてお話ししました。
イエス様は、山の上で祈り始めると姿が変わり、衣は白く輝き、その隣にはモーセとエリヤの姿が見えたんでしたね。
霊の目が開かれて素晴らしい体験をした弟子たちでしたが、やがて山を下りなければならない時がきました。
ここからが、大切な時なんです。

僕は、弟子たちにとっての変貌の山での体験は、教会の礼拝や大きな集会に似ているなと思います。
私たちも礼拝や、セレブレーションオブラブのような大きな集会で、共に祈り、賛美し、御言葉に耳を傾ける中で、霊の目が開かれ、神様を身近に体験するような体験をします。
いつまでもそこにいたいと思うような事もあるかもしれません。
でも、私たちはその山から下りて来なければなりません。
そして、山の上で起こる素晴らしい体験は、地上で起こる現実的な状況や問題と向き合っていくための時だという事を、私たちは忘れてはならないのです。

① 世の不信仰
さて、イエス様たちが山を下りてくると、そこでは早速問題が起こっていました。
悪霊に取りつかれたある人の息子が、てんかんを起こしたり、突然叫び出したりして苦しんでいたのです。
父親は、その悪霊を追い出すように残っていた九人の弟子たちに頼みました。
しかし、彼らには追い出す事ができなかったと聖書には書かれています。
イエス様と3人の弟子たちは、そんな所に現れたのです。

「大勢の人の群れが」そこにあったと書かれていますね。
そこには人だかりができていたのです。
人々は、何のためにそこに集まっていたのでしょうか?
マルコの福音書の並行箇所を見ると、そこに何が起こっていたのかがわかります。

マルコ 9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。

彼らはただ、物珍しさのために集まっていたのではなく、議論するために集まっていたというのです。
ここで彼らが論じ合っていたのは、イエス様の弟子たちには悪霊を追い出す事ができないという事に関してでした。
律法学者たちを始めとして、そこにいた人々、癒やしてもらいに来た子供の親まで、子どもをいやす事ができなかった弟子たちを批判し、責めていたのです。

それを見たイエス様は、このように言いました。

9:41 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」

そしてイエス様は、この子をいやしたのです。

皆さんは、この言葉を聞いてどのように感じるでしょうか?
優しいイエス様にしては、ずいぶんキツイ言い方をするなぁと思われる方もいるかもしれません。
でも、私たちは人間と言うものを知れば知るほどに、本当に不信仰で、曲がった世の中だという事が実感できるのではないでしょうか。

人はいつまで経っても、自分より立場のいい人たちを羨み、妬んで自分の不幸を呪い、その問題を全て人のせいにして責めたてます。
そして最後には、神様のせいにして、神様に文句を言うのです。

私たちは、時として神様の愛に甘えてしまっているのかもしれません。
神様は愛してくれているから、これくらい大丈夫。
神様は心が広いから、これくらいの事は赦して下さる。
でも私たちはその時に、どれだけ神様の優しさに付け込んで、神様を傷つけてしまっている事でしょうか?

そういう所にも、私たちの罪は大きく働いているように思うのです。

② 弟子たちの不信仰
もちろん不信仰だったのは、世の人たちだけではありません。
この言葉には、そこにいた弟子たちに向けられた言葉でもあるのです。

マタイの福音書では、その事がより明確に表されています。
自分たちにはどうして癒やす事ができなかったのかと訊ねる弟子たちに、イエス様はこのように応えています。

マタイ 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

弟子たちには、病をいやし、悪霊を追い出す権威が与えられていたはずです。
事実、少し前には二人一組でさまざまに地に派遣され、彼らは素晴らしい働きをしていたはずでした。
それではなぜ、この時にはできなかったのでしょうか?
ここでは、『からし種ほどの信仰があったらできる』と言われています。
この時弟子たちには、からし種ほどの信仰さえもなかったという事になります。
この時、彼らには一体何が起こっていたというのでしょうか?

③ 祈りによらなければ
さらにこの答えのヒントとなる言葉が、マルコの福音書の並行箇所に記されています。

マルコ 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

弟子たちにからし種ほどの信仰さえもなかった事の正体は、彼らが祈っていなかったという事です。
祈らなかったという事は、どういう事でしょうか?
祈らなかったという事は、神様により頼むのではなく、自分の力に頼っていたという事なのです。

彼らは、確かに癒すことと悪霊を追い出すための権威を、イエス様から与えられていました。
でもその力は、自分たちから出てくるわけではありません。
人々を癒し、悪霊を追い出す力は、神様からのものなのです。
イエス様から派遣された時には、彼らもその事をよく理解していたはずです。
しかし何度も人を癒やし、悪霊を追い出す中で、弟子たちはいつの間にか、それが自分の力だと勘違いしてしまったのかもしれません。
彼らは神様に祈るのではなく、自分の念じる力や、あるいは“祈りの力”によって、癒やそうとしていたのかもしれませんね。

悪霊を追い出すかどうかという事に関わらず、同じようなことが私たちにもありがちではないでしょうか?
誰かに福音を伝え救いへと導くことも、何か問題を解決することにも、あるいは聖書を読んで理解するということひとつにしても、神様の助けなしにはできない事がたくさんあります。
私たちはいつの間にか、その事を忘れてしまうのです。
そして、自分の判断で行動して、失敗してしまう事が多いのではないでしょうか?

聖書は、私たちにこのように教えています。

箴言 3:5 心を尽くして主に拠り頼め。
自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。

そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

いつでも、私たちは自分の力ではなく、主の力により頼んでいきたいですね。
力は私たちにではなく、神様にあるからです。
そしてそれは、私たちが神様に求めて祈るという信仰の姿勢から始まるのです。

私たちが祈り始めた時、それがからし種のように小さな信仰であったとしても、山を動かすような状況がそこに生まれてきます。
山を動かすのは私たちの力ではなく、神様の力なのですから。

不信仰で曲がった時代に、私たちも生きています。
このような世の中だからこそ、私たちは忘れずに祈り続けていきましょう。
祈りが私たちをも変え、私たちの信仰を研ぎ澄ませていくはずです。

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