ルカ9:57-62 『ルカ45 弟子として生きる』 2016/01/17 松田健太郎牧師

ルカの福音書9:57~62
9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついていきます。」
9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
9:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」
9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

私たちがクリスチャンとして生きるという事は、単にキリスト教という宗教の信者になったという事ではありません。
これは僕が、色んな機会に、何度もお話ししてきたことです。
イエス様は私たちに、「信者を作りなさい」と言ったのではなく、「弟子としなさい」と言いました。
私たちがクリスチャンとして生きるという事は、単にどの宗教を信じているかという事ではなく、キリストの弟子となり、イエス様に従って生きるという事なのです。
今日の聖書箇所では、イエス様に従って弟子になろうとしている3人の人たちが出てきます。
その3人のケースを通して、イエス様の弟子になるとはどういう事を意味しているのか、一緒に考えていきたいと思います。

1. 人の子には枕するところもない
ひとり目の人は、自らイエス様のところに来て、弟子になりたいと申し出ました。

9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついていきます。」
9:58 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」

この人イエス様に、「先生、私はどこにでもついていきます。」と言いました。
普通なら、「ではついて来なさい」と喜んで答えても良さそうなものですよね?
でもこの時イエス様は、「野生の動物たちでさえ眠る所や住む場所があるけれど、人の子(私)には、ひと時休む場所すらありません。」と冷たい返事をしました。
せっかく熱心に、「どこにでもついて行きます」と言ってきた人に対して、冷や水を浴びせるような言い方です。
一体何が起こっていたのでしょうか?

ここで思い出していただきたいのは、以前お話しした、救い主のイメージです。
多くの人々が抱いていた救い主のイメージは、世界の王様でした。
イエス様が聖書に預言された救い主だと信じる人たちは、イエス様がイスラエルの王になると信じていたのです。
そういう彼らが期待していたのは、この人について行けば力や権力を得る事ができる、大金持ちになる事もできるにちがいないという事でした。
だからイエス様は、このような冷たい言い方をしたんですね。
この後、この人がどうしたかは書かれていませんが、何も書いていないという事は、このまま去って行ったのかもしれません。
イエス様について行って待っているのが、力や富ではなく、住む場所もないような困難なら、ついて行っても仕方がないと思う人もいるわけです。

さて、クリスチャンになるという事は、すべての問題が消えてなくなり、良い事ばかりが起こる人生を得られるという事ではありません。
クリスチャンでも病気になるし、お金に困る事もあるし、飢える事もあるし、問題の中で苦しむことに変わりはないのです。
私たちが体験するのは、何も問題が起こらない事ではなく、問題の中で私たちが神様とともに歩み、道を拓いて下さる神様の御業を体験する事だからです。

私たちは、イエス様に何を求めているでしょうか?
的外れなものを求めていたら、私たちがイエス様の弟子となる事はありません。
そして、神様が与えようとしている祝福を得る事も体験できなくなってしまうのです。
2. 死人に死人を葬らせよ
2番目の人は、最初の人とは逆にイエス様が「ついて来なさい」と声をかけた人でした。

9:59 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

これは、ちょっと難しいですね。
イエス様が、とても厳しい事を言っているように聞こえる部分です。
両親のために葬式をする事はとても大切な事でした。
それなのに、私たちには、父親のために葬式をしてやる事さえ許されないのでしょうか?
この話は、情を重んじる日本の文化では、理解する事が少し難しい話かもしれません。
でも、私たちがイエス様の心を知り、本当にイエス様に従う弟子となっていくためには大切な事でもあるので、そのつもりで聴いていただきたいのです。

葬式とは、何でしょうか? 何のために葬式をするのでしょうか?
葬式をしないと、亡くなった方は天国に行く事ができませんか?
葬式をしないと、化けて出るでしょうか?
実際に、そのような理由で葬式をする人たちもいるかもしれませんが、別にそんな事はありません。
お別れの時という意味もあるのかもしれませんが、亡くなった方は返事ができないので、一方的なお別れになりますね。
お別れというものは、亡くなられる前にした方がよさそうです。
こうして改めて考えてみると、葬式と言うのは別に、亡くなった方のためのものではないという事がわかります。
では誰のためにするのかと言うと、生きている人たちのためにしているわけです。
さて、父親を葬りたいと言う人に、イエス様はこんな風に言いました。

9:60 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

これは何が言いたいかと言うと、「葬式という儀式を行うなどという事は、霊的に死んでいる人たちに任せておきなさい。あなたが今するべき事は、神の国を言い広める事だ。」と言っているのです。
葬式と言う儀式を行う事を本当に必要としているのは誰でしょうか?
それは、永遠のいのちの確信がない、死を恐れる人々ではないでしょうか。
普段は永遠のいのちとか、死後の話をバカにしていても、いざ身近な死に直面すると、何かをしないではいられないのです。
そして、せめて儀式をする事によって平安を得ようとするのです。
でも、永遠のいのちの中にあり、死がわずかな間の別れでしかないと知っている私たちには、儀式自体が大切なのではない事も知っています。
葬式をしてはいけないというのではありませんし、それも悪くはありませんが、それよりも大切な物があるという話しなのです。

情を重んじる私たち日本人の文化では、儀式だけとは割り切れない部分もあるでしょう。
だったら、儀式としてでない葬式をやればいいんだと思います。
どうせ葬式をするなら、本当に意味のある事をしましょう。
亡くなられた人の人生を振り返り、そこからたくさんの事を学ぶ事もいいでしょう。
家族の絆を確かめ合う時にしたらいいでしょう。
そして何より、皆が命について考える葬式は、福音を伝える最高の機会でもあります。

他の事はどうでしょうか?
私たちは単に習慣として、儀式的にやっているだけになっている事はないでしょうか?
礼拝が、単なる儀式になってしまってはいないでしょうか?
新しい命に生きる者として、私たちはもっと互いを生かし、人に命を与える事をしていきたいですね。

3. 手を鋤につけて
3番目の人はこのように言いました。

9:61 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」
9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

いとまごいというのは、最後に別れの言葉を言いたいという事ですよね。
この話も、いとまごいをしてはいけないという事ではなく、心構えの問題です。
鋤というのは、畑を耕すために使う道具です。
シャベルのような形をしていて、前にある土を掘り返して土を耕していくわけです。
これは前をまっすぐ見て一直線に掘っていかないと、線がグニャグニャになってしまうんだそうです。

後ろを振り返っては、まっすぐに進むことができない。
ここでは家族の事が取り上げられていますが、要するに神の国の働きをしようとしながら、この世の事に心が引かれてフラフラしてしまうのでは、神の国の働きをちゃんとする事ができないという事なのです。

神の国にあって、神様は私たちに導きを与え、進むべき方向を示して下さいます。
私たちはそれぞれが、神様の示す道に従って歩むべきなんですね。
でもそこで、自分の好き嫌いで決めたり、クリスチャンではない人たちの意見を聞いたり、世間体を気にしたりしていると、神様に従う事は途端に難しくなってしまいます。
私たちは神様だけ、前を歩んで下さるイエス様だけを見て進む必要があるのです。

でも、心配をしなくても、神様は必要な時に、ちゃんと必要な導きを与えて下さいます。
必要であれば、神の国の働きとして、家族との関係に関わる事もあるでしょう。
経済的な必要も、ちゃんと整えて下さるでしょう。
イエス様の弟子として私たちに必要なのは、自分でいろんなことを心配してあたふたすることではなく、いつでも、どんな時でも神様に従って歩んでいく事なのです。

さて、こうして見てみると、イエス様の弟子として歩むことは、決して簡単ではない、厳しい歩みだという事がわかります。
「ふさわしくない」と言われれば、「ああ、自分はふさわしくないんだ」と思ったりします。
それは、たぶんみんな同じです。
私たちはみんな、神の国にふさわしくありません。
イエス様の弟子として、不十分であり、問題があります。
それでもイエス様は、私たちを見捨てる事はありません。
そしてだからこそイエス様が、私たちを励まし、助け、執り成して下さっているのです。

私たちは、弟子として完成した状態で始まるのではありません。
一生涯かけて、イエス様の弟子として整えられていくのです。
そして弟子としての成長の中で、神様とともに生きる事の喜びをたくさん味わう事になるのです。

単なる信者として生きた方が、楽な事もあるかもしれません。
でも、そこには神様が私たちに与えようとしている本当の祝福は、決して味わう事ができません。
厳しくても、本当の喜びがあり、本当の楽しみがある生き方をしませんか?
イエス様が導き、共に歩んで下さいます。
そこにある祝福を、一緒に味わっていきましょう。

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