ルカ11:33-36 『ルカ55 健全な目で』 2016/04/03 松田健太郎牧師

ルカの福音書11:33~36
11:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。
11:34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
11:35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

先週は、私たちに与えられているしるしについてお話をしました。
多くの人たちは、神様がいる事の証拠、イエス様が私たちの救い主であることのしるしを求めます。
その証拠となるような奇跡さえ起これば、もっと多くの人たちが信じることができそうなのに、神様はそのようなしるしを一向に見せてくださろうとしません。
それはなぜでしょうか?
ひとつには、多くの人たちはしるしを見ても、何か言い訳を作って信じようとはしないで、もっと大きなしるしを求めるだけだという事。
ふたつ目に、たとえ奇跡を見て信じたとしても、そのような信仰は長続きしないという事でした。
そして、私たちに必要なのは、何かしるしとしての奇跡を体験することではなく、復活したイエス様と出会う事なんだというのが、先週のメッセージのポイントだったわけです。

それでは、どうして人々は、奇跡を見ても信じることができないのでしょう?
あるいは、それがしるしであるという事に気が付かないなどという事が起こるのでしょうか?
ちょっと読んだだけでは謎のように思える今日の聖書箇所を通して、その謎に迫っていきたいと思います。

①  世の光となられたイエス様
さて、イエス様はこのような話から始めています。

11:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。

実はこの言葉、以前にも出てきたことがあるのですが、覚えていらっしゃるでしょうか?
その話をしてから半年くらい経っていますから、覚えていなくても無理はありません。
また、そのメッセージ自体を聞いていない方もいらっしゃると思いますから、もう一度この御言葉について考えてみたいと思います。

光とはどんなものでしょう?
光とはすべてのものを照らし出し、物事を明らかにするものです。
光は私たちに希望を与え、光が私たちの心をあたたかくします。
神様は、この光によって全てのものを明らかにし、私たちの世界に希望を与えてくださるのです。

では、この光とは何でしょうか?
バプテスマのヨハネは、イエス様を指して「彼こそ、この世を照らす真の光だ」と言いました。
また、イエス様ご自身も言っています。

ヨハネ 8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

イエス様が、私たちの心を照らす世の光です。
イエス様によって私たちに神様が表され、イエス様によって私たちには希望が与えられます。
イエス様はその言葉を通して、人々に注がれる愛を通して、そして奇跡を通して、その光を輝かせました。
イエス様が歩む道を照らして下さるから、私たちは進むべき方向を見出す事が出来たのです。
そしてイエス様という光によって、私たちにとっては見えない存在である神様が明らかにされたのです。

光は、輝くため、輝かせるためあります。
光を灯しておいて、それをわざわざ隠す人はいません。
神様は、イエス様という光を、惜しむことなく輝かせました。
神様はその光を、隠したりなんかしなかったのです。

② 盲目となったわたしたち
では、どうしてそれを見ない人たちがいるのでしょうか?
また、その光を見ているはずなのに、神様が輝かせた世の光なのだと認識できない人たちがいるのはなぜなのでしょうか?
イエス様はこのように話しています。

11:34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。

そこに光があっても、それがどんなに明るく、どんなに素晴らしい光であったとしても、見る事ができなければ、そこに光があるという事がわかりません。
また、私たちがそこに偏見や、思い込み、あるいは自己中心という眼鏡をかけてしまっていたら、見えているはずのものも歪んで見えてしまいます。
“神様なんていない”という思い込み、あるいは“神様とはこういうお方だ”という偏見によって、私たちは神様が見えなくなってしまっているのです。

私たちは、何をどのように見るかという事によって生き方も変わってきます。
まっすぐなものが曲がって見えていたら、どうなるでしょう?
青信号が赤に、赤信号が青に見えていたら、どうなるでしょうか?
ましてや、心に見えるはずのものが見えなくなり、あるいは歪んで見えてしまうなら、私たちの人生そのものを変え、歪めてしまう事になります。
光が見えなくなるという事は、そこから得ることができるはずの希望や喜びも受け取ることができなる事であり、歪んだ姿を受け取るという事は、真理を歪んだものとして受け取ってしまうという事なのです。

神様がいつも共にいて、愛してくださっている人生と、神はいない人生では大きく違います。
神様が、優しくて愛に満ちた方か、怖くて、いじわるな存在かによって、生き方は大きく変わってくるでしょう。

間違った神様のイメージがもたらすのは、恐れや、苛立ち、怒り、不品行や、律法主義からくる表面だけの正しさです。
そのような生活は、決して私たちを幸せにしません。
そして、私たちをますます暗やみの方に近づけてしまうのです。
イエス様は言います。

11:35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。

これは、イエス様を見出していない人たちだけの問題ではありません。
すでにイエス様を見出しているつもりでも、私たちの信仰は簡単に歪み、神様を何か別のものにしてしまうという、怖い実態を表しています。

私たちは、健全な目で見、光を受け入れているでしょうか?
それとも、暗やみの中にいたり、歪んだ神様を見ているでしょうか?
恐いのは、多くの場合私たちが暗闇の中にいても、自分の目が健全ではないという事実に気が付かないということです。
私たちの目が健全であるかどうかは、私たちにとって重要な問題なのです。

③ 健全な目が私たちに光を与える
では、どうすれば私たちの目は開け、健全な目となることができるのでしょうか?
「目が健全なら」の“健全”という言葉は、「単純」とか、「混じりけのない」という意味の言葉だそうです。
私たちが勝手な思い込みで見るのを止めて、単純に物事を見さえすれば、神様が救い主を送って下さったというしるしは、私たちには明確に見えてくるはずなのです。

でも、罪によって神様と離れてしまった私たちは、なかなかそんな単純になったり、純粋な目で見る事ができません。
そこでお勧めしたいのは、自分の心の目が悪いことを認めて、眼鏡をかけるという事です。
視力が悪ければ、眼鏡をかければいいのです。

私たちには単純な目、純粋な目が必要なのですから、私たちはまず自分の中にある思い込みや偏見の眼鏡をはずす必要があります。
そして、イエス様が見たように神様を見ようとして見るのです。
福音書の中に、そのヒントとなるものがたくさんあります。

そして次は、イエス様によって変えられた人々が見ていたように神様を見、イエス様を見ようとして見るのです。
使徒の働きや、手紙の中にそれは表されています。
そうすると、これまで見えなかったものがたくさん見えてくるか不思議です。
そこに見えてくる神様の光が、私たちに知恵を与え、希望を与え、平安を与え、私たちを導き、私たちをキリストに似た者として成長させていきます。
素直で純粋な目によって、私たちは神様の愛や優しさを受け取り、それによって私たちの心は変えられていくのです。

世の光であるイエス様は、私たちもまた世の光であると言いました。
こんな私たちが、世の光となるのです。
私たちの心の目から入ったイエス様の光が、今度は私たちの内で輝いて、私たちをも世の光とするのです。
イエス様はこのようにも言っています。

11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

その時私たちは、誰かを無理やり説得して、クリスチャンにさせようとする必要はありません。
私たちの中に輝く光を見て、人々は自然に引き付けられ集まってきます。
そして、私たちの中にある光を見出して、イエス様と出会うようになるのです。
そうなったら、素敵だと思いませんか?

そのために、私たちは健全な目でこの光を受け取りましょう。
そして、この光を世で輝かせるのです。
私たちは、これを升の下に隠してはいけません。
教会の中で、クリスチャンの中だけで輝くのはやめましょう。
私たちは世に出て行って、この光を輝かせるのです。
「あなたの信仰が、あなたを癒したのです。

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