ルカ12:22-34 『ルカ61 神の国を求めなさい』 2016/05/29 松田健太郎牧師

ルカの福音書12:22~34
12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。
12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。
12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。
12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。
12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。

人生と言うものは、まったく苦労の多いものです。
生きていくのは大変なことですね。
その中でも、多くの人たちが悩み、苦しむのは生活の苦労ではないでしょうか?
何を着て、何を食べ、どうやって住むかという事は、私たちが日々直面しなければならない現実的な問題です。

ある人は、突然イエス様の前に飛び出してきて、遺産相続の問題を解決してくださるようにと願いました。
しかしイエス様は、その願いを叶えることはせず、その代わりに別の話をしました。
それは、自分のために宝を積んで神に対して富まない者は肉体の命の終わりとともにすべてを失ってしまうと言う話です。
私たちが求めるべき宝は、目に見える物や目先の安心ではありません。
天にある神様の祝福、そして今与えられているイエス様をこそ宝とするべきだというのが、前回のメッセージのポイントでしたね。

遺産相続の話を持ち出した人の本質的な問題は、本当のいのちよりも富を求める貪欲さです。
でもその貪欲さは、未来の生活に対する不安から来ているという事も出来ます。
そう考えたとき、この人が抱えていた問題は私たちの中にもあって、私たちは決してこの人の愚かさを笑えるような者ではないという事に気づかされるのです。

私たちが、未来のことを不安に思い、悩むことを「思い煩い」と言います。
私たちはなぜ、お金について、健康について、人間関係について、将来について、様々な思い煩いを抱いてしまうのでしょうか?
私たちはこのような思い煩いとどのように向き合い、どうすれば思い煩いから解放されるのでしょうか?
今日もイエス様の言葉を通して、私たちの問題と向き合っていきたいと思います。

① 心配する対象を間違えている
さて、私たちが抱えている第一の問題は、心配するべき対象を間違えているという事です。
イエス様は、弟子たちにこのように言いました。

12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

私たちは食べる物、着る物の心配をしますが、それよりももっと大切な事があるはずです。
それは、私たち自身ですね。
私たちは生きるために食べるのでしょうか、それとも食べ物のために生きるのでしょうか?
体のための着物ですか、それとも着物を着るための体なのでしょうか?
食べ物が先なのではなく、私たちであるはずです。
着物よりも、それを着る私たちの方が大切なはずです。

私たちは、心配するべき対象を間違える事によって、間違えたものを求めている事があるのです。
別においしいものを食べたり、おしゃれをする事が悪いと言っているのではありません。
でも本当に大切なものを犠牲にして、私たちはおいしいものを食べ、いい家に住み、おしゃれな服を着る事を選んでしまっていないかと思うのです。
あるいは、私たちは自分の人格や、賜物、使命やそこにある喜びをしてまで、ただ漫然と生きていく時間を延ばす価値が本当にあるのでしょうか?
しかもそれは、いつまで続くかわからないのに・・・。
私たちは多くの場合、優先順位を間違えてしまっている様に思うのです。

② 私たちのあるべき姿
私たちが抱える第二の問題は、私たちが本来あるべき生き方をしていないという事です。
イエス様は、続けてこのように話しています。

12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
そして、このようにも言っていますね。
12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

畑を耕したり、蓄えたりしなくても、カラスは神様に養われて生きています。
自分を着飾らなくても、ユリの花は神様に着飾られて美しく咲いています。
しかし神様は、カラスや野のユリ以上に、私たちを愛しているはずです。
私たちが神様に任せ、もっと委ねて生きていたら、神様は私たちにどんなものを与えてくださることでしょうか?
ひとつ勘違いしないでいただきたいのは、イエス様のこの話は、神様が養ってくださるから私たちもカラスのように気ままに生きたり、ユリの花のように何もしないでいるべきだという話ではないという事です。
そんなことをしたら、私たちは路頭に迷い大変な事になってしまうでしょう。
この言葉のポイントは、カラスはカラスらしく、ユリの花はユリの花らしく生きる事が一番素晴らしい事であり、そこに神様の備えがあるのだという事です。
私たちもまた、神様に与えられた自然のままの自分として生きる事ができれば、それだけで最高の生き方ができるはずです。
しかし私たちは、神様を信頼せず、神様から離れ、神様が与えたのとは違う人生を歩み始め、戻れなくなってしまいました。
そして罪人となった私たちは、自分の事だけを考え、心配し、思い煩い、自分のために少しでも多くを蓄え、力を得ようとしています。

その結果、世界には争いが絶える事なく続いています。
私利私欲のために環境が犠牲になり、砂漠化と温暖化はますます深刻になっています。
世界の富の半分近くを、100人に満たない人たちが独占していて、その一方で何億人もの人たちが貧困の中で喘いでいます。
世界をこんな風にしたのは、神様ではありません。
神様を信頼せず、神様に背を向け、神様の計画から離れてしまった私たちの罪と不信仰の結果なのです。
罪人となった今のままの私たちが向かうところは、結局このような所でしかありません。
それでは私たちは、どうすればいいのでしょうか?

③ 神の国を求めなさい
イエス様は、このように言っています。

12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

私たちが求めるべきは、他の何物でもなく、神の国です。
神の国とは何でしょうか?
神の国と言うと天国の事を連想しますが、それでは死ななきゃ得られないという話になってしまいます。
ルカの福音書のシリーズでも何度もお話ししてきた事ですが、ここで言われている神の国とは、神様の支配の事です。
私たちが神様に従い、神様の全き支配の中に入っていく時、私たちは思い悩みから解放されていくことになります。
なぜならそれは、私たちが本来あるべき創造されたままの私たちに近づいていくことだからです。

カラスやユリのように、私たちも自然な生き方になる必要があるという話をしました。
私たち人間にとって、自然な生き方とはどんな生き方でしょうか?
私たちは、神様に似せた者として創られ、神様を愛し、愛される者として創造されました。
私たちは、互いに愛し合うものとして創造されました。
私たちは、世界を管理する者として創造されました。
そして自然のままの私たちの生き方とは、何よりも神様とともに歩む人生であるはずです。
私たちがみんな、そのような生き方をしていたとしたら、世界はどんな場所になるでしょう?

私たちが互いに赦し合い、互いに愛し合うなら、やがて世界から争いはなくなっていきます。
すべての人が自分に必要な分だけを持って、後は分け与えるなら、それだけで世界の貧困問題なんてあっという間に解決するでしょう。
全てが完成するのは、イエス様の再臨まで待たなければならないと思います。
でも、私たちが神の国を求め、そこに近づいていくことは今からできる事です。
そして、私たちがその方向に向かって歩み始めるその時から、私たちの中にある心配や思い煩いが軽くなっていくのを体験していくことができるはずです。

そして私たちは、富から得られるひと時の祝福ではなく、イエス様と言う尽きる事のない宝をこそ、心から喜びましょう。
その宝は、永遠に失われることのない宝なのですから。

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