ルカ12:35-48 『ルカ62 思いがけない時に来る主』 2016/06/05 松田健太郎牧師

ルカの福音書12:22~34
12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。
12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。
12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
12:41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」
12:42 主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。
12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
12:44 わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
12:45 ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、
12:46 しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。
12:47 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
12:48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

先日、茨城県で家の教会を導いている方とお話をしていました。
彼には何人かの仲間がいて、彼ともうひとりのリーダーと共に教会を運営していたそうです。
ところが、彼と一緒に家の教会を導いていたもうひとりのリーダーが、この春突然亡くなってしまったという事をお聞きしました。
まだ30代だったのに、妻と子供を残して、その男性は突然死んでしまいました。
特に何か病気だったというわけではありません。
ただ、夜眠って、そのまま起きてこなかったという事でした。

その話を聞いて、ゴスペルクワイヤのメンバーくまちゃんが、同じように亡くなったのを思い出しました。
彼女は風邪をひいていましたが、単なる風邪だったはずでした。
たかが風邪で寝ていただけなのに、それからずっと起きることはなったのです。

私たちがいつまで生きているかなんて、本当に誰にもわかりません。
私たちも、今日眠りについたら、目覚めたら天国にいたという事があるかもしれません。
それを忘れてしまうと、イエス様がたとえ話で話したように、蓄えることに夢中になって、財産さえあれば自分は大丈夫だと考えるようになります。
私たちが本当に考えなければならないのは、私たちが生きる今の数十年以上に、永遠に続く神様との関係だという事を、改めて思わされます。

さて、イエス様の再臨も、いつ来るかわかりません。
イエス様は天に帰っていく時、もう一度同じようにしてこの地上に来るという約束をされました。
そして、イエス様がもう一度この地上に来る時は、この世界が終わる裁きの時なのです。

私たちの死が先に来るのか、イエス様が地上に来るのが先なのかは誰にもわかりません。
私たちの死、あるいは終わりの時がいつ来るかという事も、誰も知りません。
私たちに必要なのは、いつその時が来ても準備ができているという事ではないかと思います。
イエス様はこのように言っています。

12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。
12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

皆さんは、その準備ができているでしょうか?
私たちは、その時を迎えるために、どんな事に気を付けておく必要があるでしょうか?
今日はこのみ言葉を通して、私たち自身も終わりの時に備えていきたいと思います。

① 帯をしめ、あかりをともす
当時のイスラエルの婚礼は、人々によって盛大に祝われていました。
その婚礼がどれだけ続くかという事は主催者によって決められたのですが、丸一日大騒ぎをして、三日三晩帰ってこないという事もあったのです。
ここでイエス様は、終わりの時に備えるために、主人がいつ帰ってくるかわからないまま待っているしもべたちのようでありなさいと、弟子たちに教えています。
終わりの時は、いつ来るかわからないからです。

主人の留守を良いことに、まるで自分が屋敷の主人になったかのように錯覚し、我が物顔で屋敷に友達を呼び、パーティを開いて、食べては酔っ払って、そんな時に突然主人が帰ってきたらどうなるでしょう?
そうではなく、主人がいなくてもしっかり仕事をこなし、忠実に仕えているしもべを、主人は喜ぶのではないでしょうか?
「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。」とは、そういう事を言っているのです。

さて、私たちはどうでしょうか?
私たちは、神様のしもべです。
それが私たちと神様の、本来あるべき関係ですね。
この世界の主は私たちではなく、神様です。
でも私たちは、神様のしもべとしての自覚を忘れてしまうことがあるのです。

私たち人類は、自分が世界の支配者となって、環境を破壊してきました。
私たちは、自分の人生の支配者となって生きてしまっているかもしれません。
何が正しいか、何が間違っているかを自分で判断して、自分の価値観で他の人たちを裁こうとしてしまっていないでしょうか?
私たちは“主”ではありません。
神様が私たちの主であるはずです。
私たちは、そのことを決して忘れはなりません。

② しもべに仕える主
でも「私たちはしもべだ」なんて言うと、少しがっかりしてしまう方がいるかもしれません。
まるで、考えるのをやめて、言われた通りにしか生きられないように感じてしまったり、自分には価値がないと言われているように感じてしまう。
それはたぶん、世の中でそのような扱い方を受けているからなのかもしれませんね。

社員に対する対応が酷い企業を、“ブラック企業”と呼んだりします。
また、低賃金で養われて家畜のようにこき使われる会社員を、“社畜”と言うそうです。
そんなことが横行しているこの社会で、しもべとしての立場にいると、神様にまでそんな風に扱われるような気がしてしまうのも、無理はないかもしれません。

では、私たちの主は、どのような主人なのでしょうか?
イエス様はこのように言っています。

12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。

私たちが忠実なしもべとして主をお迎えするなら、主が帰って来られた時には、主御自身が私たちの給仕をして仕えてくださると、イエス様は言っています。
こんな主人がいると思いますか?
いるわけがないでしょう。普通はいないのです。
主人の足を洗い、労をねぎらい、飲み物を出すのはしもべの仕事です。
どんないい主人だって、しもべのために給仕をするなんて事はありません。
しかし、神様はそのような主人だとイエス様は言うのです。

イエス様はそれを、実際に見せてくださいました。
弟子たちを前に上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻き、弟子たちの足を洗いました。
私たちの主は、このようなかお方なのです。
だからこそ、この主に仕えていく事が、私たちの心からの喜びなのではないでしょうか。

③ 忠実な管理
さて、イエス様はさらに、私たちがしもべとしてどのような事に気を付けていく必要があるかという事について話しています。

12:42 主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。
12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
12:44 わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

「賢い忠実な管理人」と言われていますが、これはしもべたちを管理するリーダー的なしもべの事です。
ここでイエス様は、主人が帰ってきた時に褒美を与えたくなるようなしもべがどんなしもべかについて話していますね。
賢く忠実なしもべとは、預けられているものをちゃんと管理するしもべの事なのです。
一方で、不忠実なしもべは、主人がいなくなると自分が主人であるかのようにふるまい始めたり、預けられているものを自分のものとして横領したり、ちゃんと管理しないしもべたちの事です。

12:45 ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、
12:46 しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。

私たちは、神様に預けられているものがたくさんあります。
お金や時間、健康、才能、自分自身の人生や、こどもたちまで、私たちは自分のものだと思ってしまってはいないでしょうか?
しかしそれは、すべて神様によって預けられているものです。
私たちが忠実なしもべであるかどうかは、私たちがそれをどのように管理し、どのように扱っているかという事で見ることができるのです。

自分自身の事を顧みてみましょう。
私たちは、忠実なしもべとして生きてきたでしょうか?
それとも、不忠実なしもべだったでしょうか?
私たちに求められているのは、ただ忠実であることです。
もしこれまでの私たちが不忠実なしもべだったと感じたならば、今ならまだ遅くはありません。
神様に立ち返り、忠実で賢いしもべとして生きませんか?
そうしなければ罰を受けるとかそんな事ではなく、神様は忠実に仕えるのにふさわしい方です。
そして、しもべの忠実に答えてくださる方です。
そこにある喜びを味わうことが、私たちを終わりの時に備えさせていくのです。

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