ルカ14:15-24 『ルカ71 あなたの言い訳は?』 2016/08/14 松田健太郎牧師

ルカの福音書14:15~24
14:15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言った。
14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』
14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。』
14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
14:21 しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。』
14:22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
14:24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。』」

先週は、佐田千絵子さんがメッセージを通して、教会開拓への熱い思いをお話ししてくださいました。
みなさんぜひ、この開拓に関わっていくために引き続きお祈りいただければと思います。
神様とともに、神様が命じた働きに携わっていく事は、何にも勝る祝福を受ける事ができるからです。

さて、今日のメッセージは先々週のお話と少し関係がありますので、少し復習してから本題に入りたいと思います。

前回イエス様は、食事をするためにパリサイ派の人々の家に招かれていきました。
そこでイエス様は、ひとつのたとえ話をしたのです。
それは、婚礼の披露宴に招かれたら、上座ではなく下座に座りなさいという話でした。
そのたとえ話を通してイエス様は、謙遜である事の大切さを教えたのでしたね。

謙遜であるとはどういう事でしょうか?
遠慮する事が謙遜になる事、ではありませんでした。
本当は高いのに、低いようにふるまう事、でもありませんでした。
謙遜であるというのは、ありのままの私たちは、低いという事実を認める事でしたね。
私たちが、自分は低い事を知った時、神様が私たちを高くして下さる。
その事の大切さを学んだのが、前回のメッセージでした。

さて、今日の話はその同じ食事の場で話されている話です。
そこに居合わせてある人が、突然このように言ったのです。

14:15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言った。

本当に、この人の言う通りですね。
神の国で食事をする人は、何と幸いでしょうか?
黙示録には、イエス様がもう一度この地上に来られる時、神の大宴会が開かれると記されています。
楽しみですね!

さて、ここでイエス様はもうひとつのたとえ話を始めました。
宴会に招かれた人々のたとえ話です。
イエス様はこの話を通して、どんなことを話そうとしているのでしょうか?

① 宴会に招かれた人のたとえ
イエス様はこういうお話をしました。
「ある人が盛大な晩餐会を催して、大勢の人を招きました。
いよいよ晩餐会の時間になったので、招いていた人々を呼ぶためにしもべをやりました。
ところが、みんな一様に断って、晩餐会には来られないというのです。
そこで主人は怒って、普通なら招いてもらえないような貧しい人たちや、体の不自由な人たちを呼びに行かせました。
それでも席があまっているので、主人は『どこへでも行って、誰でもいいから連れてきてこの家をいっぱいにしなさい。』と命じました。
しかし、初めに招待されていた人たちは、誰もこの晩餐にあずかる事はできないのです。」
簡潔に言うと、そういう事ですね。

さて、このたとえ話の中では、晩餐会に最初から招かれていた人たちが登場します。
これは、当時のユダヤの習慣で、晩餐会に人を招くときには、まず招待客を決め、その人を招待して、晩餐会の日にもう一度その事を通知するわけです。
最初に招待されていた人たちだったという事が、この話のポイントのひとつですね。
しかし招待されて、行く約束をしていたはずのこの人たちは、当日になって晩餐会の参加を断っています。

ひとりは畑を買ったからそれを見に行くために、ひとりは牛を5頭買ったので、もうひとりは結婚したから・・・。
彼らが主張する「行けなくなった理由」は、どれも単なる言い訳でしかありません。
彼らはその日が晩餐会の日だという事を知っていたはずですから、スケジュールはいくらでも調整できたはずです。
ムリなら、最初から断っておけばよかったのです。
しかし、みんな自分の事にかまけて晩餐会の事はどうでもよくなってしまいました。
晩餐会よりも、今眼先にあるものが大切になってしまったのです。

ここで描かれている「最初に招かれていた人たち」とは、パリサイ派のユダヤ人たち、いわゆる宗教的なエリートたちです。
彼らも最初は純粋な心をもって、神様に従う事を考えていたかもしれません。
しかしいつの間にか、他のものに目を奪われて、神の国を見失ってしまったのです。
だから、待ち望んでいた救い主が目の前にいても、それに気づく事ができませんでした。
それどころか、救い主を自らの手で十字架にかけて殺してしまったのです。
彼らは、神の国の晩餐に行く手段を失ってしまったのです。

② なぜ断ったのか
それにしても、このたとえ話に出てくる最初の招かれていた人たちは、どうして招きを断ってしまったのでしょうか?
第一に、この世の生活の方が晩餐よりも大切になってしまったからです。
パリサイ派の人々は、神の国よりも地位や名誉の方が大切になってしまいました。

私達にも同じことが起こっていないでしょうか?
神様は、私たちも神の国の晩餐会に招いてくださっているのだとしたら、毎日の生活の事にかまけて、その事を忘れてしまってはいませんか?
永遠の時に比べたらどうでもいいようなことを言い訳にして、神の国の晩餐を断ってしまってはいないでしょうか?
私たちは、イエス様の招きに応えて神の国へと入る必要があるのです。

第二に、彼らは今招きを断っても、自分はいつでも晩餐会に行けると思っていたのかもしれません。
神の国に関して、多くの人たちが持っている誤解は、「なんだかんだ言って自分は神の国に入る事ができる」と思っている事です。
しかし神の国は、神様の招きがない限り、そして私たちがそれに応答しない限り、決して入る事はできないものなのです。

これは、謙遜の話とつながる部分ですね。
自分自身を高いと考えている事によって、私たちはいま神の国への招きに応えなくても良いじゃないかと考えてしまいます。
そして、私たちの傲慢さやプライドが、神の国へと至る扉を閉じてしまう事になるのです。
イエス様は言っています。

ヨハ 5:44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。


さて、人々が祝宴に来ない知らせを聞いた主人は、怒りを露わにします。
そこで主人は、体の不自由な人や、貧しい人々を呼んでくるようにとしもべに命じました。
これは、最初に招かれた人たちが見下していたような人々です。
パリサイ派の人々が、その存在を無視し、相手にしなかった人たちです。
宗教的なエリートたちは結局神の国の祝宴に来ないので、このような人々が招かれるのだ、とイエス様は言ったのです。

しかし帰ってきたしもべたちは、貧しい人々やからだの不自由な人たちを集めても、まだ席はいっぱいにならないと報告しました。
そこで主人はさらに命じます。

14:23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

街道や垣根にいるのは、罪人(ざいにん)や売春婦、そして異邦人です。
神の国の祝宴には、このような人々も招かれます。
神様は、すべての人々をこの祝宴に招かれるのです。
私たちは今も、神様のしもべとして、ひとりでも多くの人々をこの祝宴に招いています。

さて、ここで少し注意しておきたいのは、この節にある「無理にでも」という言葉です。
この言葉は、教会の歴史の中で拡大解釈されて、間違った宣教をもたらしてきました。
つまり、キリスト教の国が他の国を侵略し、強制的にキリスト教徒に改宗させるという事が行われてきたのです。
しかし、神様はそのような手段で救いをもたらしません。
それなら、最初に招いていた人たちを力ずくで連れてくればよかったのです。

神の国の強制力は、愛の力です。
愛をもって、寛容な心で、忍耐深い心で、いつまでも待つ心で誘い続ける。
そういう力です。
私たちもそうではなかったでしょうか?
神様からの、そしてそのしもべである他のクリスチャンたちからのしつこい(笑)、いや愛の力で、私たちは教会に繋がり、福音を受け入れたのではないでしょうか?

私たちは、多くの人たちがクリスチャンになってほしいと願っています。
しかしそれ以上に神様も、ひとりでも多くの人々がこの祝宴に参加できる事を願っているのです。
みなさんが、他のものに心を奪われてしまうのではなく、神の国の祝宴を心待ちにする事ができますように。

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