ルカ15:8-10 『ルカ74 失われた銀貨』 2016/09/04 松田健太郎牧師

ルカの福音書15:8~10
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

パリサイ派のユダヤ人たちは、いつも取税人や罪人と共に過ごしていたイエス様をさげすみました。
そこでイエス様は、失われた魂を求める神様の心について3つのたとえ話をしたのです。
前回は迷った羊の話しでした。
今回は、失われた銀貨の話です。
羊の話しも、銀貨の話も、大きなポイントとして伝えたい事は同じです。
しかし、細かい部分で違う部分もあり、イエス様はあえて似たようなポイントの話を3回もしたわけです。
それでは、この失われた銀貨の話を通してイエス様が話したかったのは、どういう事だったのでしょうか?

① 失われた銀貨
このたとえ話の第一のポイントは、失われたものが見つかる事の喜びです。
この話の中に出てくる銀貨というのは、ドラクマというギリシャの通貨だそうです。
ローマ帝国の通貨にデナリという貨幣があって、イエス様のたとえ話にも出てきますが、ここではなぜかドラクマが使われています。
ドラクマ銀貨1枚が1デナリと同じ価値でしたから、一日分の労働料です。
私たちの感覚だと、1万円くらいだとよく言われます。
まぁ、実際には当時の労働者の賃金は今よりずっと安く、1000円にも満たなかっただろうと思いますけど、感覚的には1万円くらいの価値だという事です。

さて、イエス様の話の中で、“女のひと”と表されているこの登場人物は、他の家族が登場しませんから、夫も子供もいないやもめだろうと思われます。
一般的には1ドラクマというのはそれ程大きな金額ではありませんが、働き手がいないやもめ暮らしだと考えると、彼女にはかなり大きな金額です。
まぁ私たちの感覚でも、1万円をなくしてしまったら、相当焦って探しますよね。
ランプの油を節約していたとしても明かりをつけ、家具を動かしてその下を掃いたりしながら、なくしてしまった1万円を必死になって探すのではないでしょうか?
そしてそれが見つかったら、近所の人たちや友達を呼んで、「銀貨がみつかりましたから、一緒に喜んで下さい。」と言うでしょう? 言いますよね? あれ、言わないですか?

こうして読んでいて、「え?」と思う所こそ、イエス様が強調したいポイントです。
ここでのツッコミポイントは、「そこまでするか?」です。
いくらなくしていたお金が見つかったからと言って、近所の人たちを呼んで一緒に祝うまでするでしょうか?
まぁ、パリサイ派の人たちには、まずありえない事でした。
私たちも、たぶんそこまではしないのではないでしょうか。

そこでイエス様は言うのです。
「あなた達は、そんなはした金、何という事はないと思うかもしれない。しかし、あなたたちがバカにしているやもめたちは、その銀貨を探すために家じゅうをひっくり返し、見つかったなら、近所の人たちとともに祝うほど、嬉しいと思うものなのです。」
そして、貧しいやもめが銀貨を見つけた時のように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、天では御使いたちの間に大きな喜びが起こります。
それが、イエス様が言いたい事です。
一つの魂が救われて、神様との関係を回復するという事は、神様にとってはそれ程うれしい事なのです。

② 10枚1セット
さて、この短いたとえ話には、これだけではないもう少し深みがあります。
それはイエス様が、どうして1枚の銀貨をなくしたという話しだけではなく、10枚の銀貨を持っていたという話をしたかという事なんです。
また、なぜデナリではなく、ドラクマの話なのかという事でもあります。

貴重な1ドラクマを無くしたというだけの話なら、10枚の銀貨を持っていたというくだりは必要ありません。
「なんだ、あと9枚あるじゃないか」という気持ちになるだけです。
ここでイエス様が、わざわざ「10枚持っていた」と言った事、そしていつも話すようにデナリではなく銀貨の話をしたことには、ちゃんと意味があるのです。

現代の日本に生きる私たちにはわからない事ですが、ここにいた人たちは「10枚の銀貨」と聞いてすぐに連想できるものがありました。
それは、10枚の銀貨にひもを通して作られたネックレスです。
これは、単にお金をネックレスにしたというのではなく、記念コインのようなもので作られた装飾品でした。
1ドラクマ銀貨を使って作られてはいますが、1ドラクマ×10枚ではなく、その何倍もの価値があるものでした。
貧しいやもめがそのような高価なものを持っていた事にも、何かドラマを感じますね。
しかしこの銀貨を使った装飾品は、1枚無くしてしまったら、1セットとしての価値をうしなってしまいます。
残りの9枚は、1ドラクマが9枚の価値しかなくなってしまう。
10枚が1セットになっていなければ、意味がないのです。

さて、私たちは一人一人でも、かけがえのない価値を持つ存在です。
そこには何の疑いもありません。
しかし、私たちはただそれだけの存在ではないのだと、イエス様は言っているのです。
それはどういう事でしょうか?
聖書は、繰り返しのこの様に教えています。
エペソ 5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。

私たちはキリストを頭とするひとつのからだです。
互いに愛によって結び合い、それぞれがそれぞれの性質、機能、働きを持っていて、誰ひとり、欠けてはならない存在なのです。
だからイエス様は、そんな私たちを、『明かりをつけ』『家を掃いて』『念入りに捜す』と言っているのです。

③ 神様の評価を知る時
さて、イエス様はパリサイ派の人たちに向かってこの話をしていましたが、実際には色んな立場の人たちがこの話を聞いていました。
皆さんは、どの立場で今日のたとえ話を聞いたでしょうか?

自分はパリサイ派の人たちと同じだと気づき、悔い改めて、ひとりひとりの価値を見出すことができたでしょうか?
取税人や罪人の立場として、こんな自分が悔い改めた時、神様はどれほど喜ばれるのかを知って、神様に立ち返ろうと思ったでしょうか?
あるいは、失われた銀貨として自覚し、例えそう思えなくても、自分には大きな価値があるという事に気づく事ができたでしょうか?

皆さんがどのような立場からこの話を聞いていたとしても、神様があなたを愛するその愛の大きさに変わりはありません。
失われた状態にある私たちを、イエス様は必死になって探し出し、命をかけて救い出して下さっているのです。

世界には、自分にそんな価値を見出すことができない人たちがたくさんいます。
「自分なんていなくなっても、世界には何の影響もないんじゃないか」と思っている人たちがたくさんいます。
私たちが、どれだけ「あなたには価値があるよ。」と伝えても、聖書がそう語っている事を知ったとしても、その事をにわかには信じる事ができない。
それもまた、当然の事です。

有名なイスラエルのダビデ王は、詩篇の中でこのように歌っています。

詩篇8:3 あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
8:4 人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。

神様から最も愛されていた王であるダビデでさえ、そのように感じていた事があるのです。
私たちに価値があり、愛されている事が信じられなかったとしても無理はありません。
それでも、そうだとしても神様はこのように言っている事に変わりはないのです。

イザヤ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

世界の創造主が、あなたを価値のある者だと言っている。
その事を受け入れませんか?
私たちがその事を本気で信じる時、私たちはこの世の他の人の評価など、全く問題ではなくなっていきます。
そして、私たちが頑張る事によって誰かから愛され、認められようとする必要はなくなります。
私たちの原動力は、「愛されるため」とか「嫌われないため」というものではなく、「愛されているから何かをしたい」という力へと変わるのです。
祈りましょう。

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