ルカ17:5-6 『ルカ82 からし種の信仰』 2016/11/06 松田健太郎牧師

ルカの福音書17:5~6
17:5 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。

20年前のオウム真理教による無差別テロ事件以来、日本人の宗教離れは甚だしいと言われてきました。
その結果、一般的に現代の日本人は無宗教の人が多いと言われています。
しかし実際には、宗教的な事、あるいは霊的な事が好きな日本人はたくさんいます。
キリスト教や仏教に関する本もたくさん出ていますし、雑誌で特集が組まれます。
また、スピリチュアル系と呼ばれる占いや、霊能力のようなことを信じている人たちはたくさんいますし、多くの人たちが、潜在的に神様のように人間を超越した力を持つ存在がいる事を信じています。

思うにほとんどの人たちは、何か特定の宗教団体に所属する事が嫌なだけで、宗教的な事に対する関心は衰えていないのだと思います。
2011年3月11日の大震災以来、その傾向はさらに大きくなったように感じます。
人間の力ではコントロールする事ができない大きな出来事を通して、人知を超えた神様を求める心が、日本人の中にも起こってきたのかもしれません。

それはそれで嬉しい傾向だと思いますが、それで良いという訳ではありません。
神様の存在を信じていると言っても、それは信仰を持っている事とは違うからです。
イエス様の弟ヤコブは、手紙の中でこのように書いています。

ヤコブ 2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

神様の存在を信じているだけなら、悪魔だって信じているのです。
でも、それによって悪魔は救われているわけではありません。
大切なのは、存在を信じているかどうかではなく、そこに信仰があるかどうかだという事です。

先週私たちは、ルカの福音書を通して“生きた本当の信仰”について学びました。
その話を通して、生きた本当の信仰とは、神様を主として、しもべとなる事だという話しをしましたね。
今日は、それをさらに掘り下げて、同じ聖書から、”生きた本当の信仰“に関して、もう少し深く考えてみたいと思います。

① 関係がいのち
人間関係の中で、「誰かを知る」という事について考えてみても、そこにはいろいろな深さの「知る」があるという事がわかります。
「ある人の評判を聞いたことがある」という程度でも「その人を知っている」という事はできますよね。
でもそれは、「ある人について知っている」のであって、本当の意味で「その人を知っている」事にはならないかもしれません。

「以前同じクラスだった。」という人も、その人を知っていると言うかもしれません。
しかしそれもまた、学生時代のその人を知っていたのであって、現在の事は何もわかりません。

そして、今のその人を知っていて、いつでも連絡する事ができるという関係もあります。
これはすべて、言葉の上では「ある人を知っている」と言える関係です。
しかし、その人を本当に深く知っているのは、今も関係を持っている人だけです。

神様との関係についても、同じことが言えます。
神様について知っている人も、神様の御業や導きを体験したことがある人も、自分は神様を信じていると言うかも知れません。
しかし、本当に生きた信仰を持っていると言えるのは、今この時神様との関係を築き、神様を体験している人たちだけなのです。
それは、イエス様を通して神様との関係が回復され、聖霊を通して神様との関係を築くことによって可能になります。
そして、その関係の中に留まり続け、さらに深めていく事が、クリスチャンとして生きた信仰の中にあるという事ができるでしょう。

今、神様との関係の中に生きている人は、その人生の中で神様の愛をもっと受け、神様の力をもっと体験し、歴史を重ねるにしたがってその関係はますます深まっていきます。
だからその信仰が、今はからし種のように小さくても何の問題もありません。
頑張って大きくしようとしなくても、自然に成長していくものだからです。

生きた神様との関係とは
神様を知らない人は、神様が何を求め、何を憎むかという事もまったくわかりません。
使徒パウロは手紙の中でこのように書いています。

ガラテヤ 4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。

神様を知らない人たちは、自分でも知らない内に悪魔の奴隷として生きているのです。
私たちは、自分が正しいと思う事を行い、行動してきたと思うでしょう。
しかしそんな正しい行いに縛られて身動きが取れなくなり、神様との関係からは離れてしまうのが、神様を知らない人たちの生き方なのです。
それに比べれば、少しでも神様を知っていると言える状態の方がましのように思うかも知れません。
それでは、神様について知っている人たちは、どのような状態にあるでしょうか?
神様についてある程度の知識があれば、神様が何を望み、何を憎むかという知識くらいなら持っています。
そこで、神様が喜ぶだろうと思う事をしようと努力をするかもしれません。
しかしそこに生まれるのは、表面的にルールだけを守ろうとするような、律法主義的な信仰です。
それが聖書に載っているというだけの事であって、実際の行動としては神様を知らない人たちとほとんど変わりません。

今もつながりを持ち続ける、生きた関係の中にあれば、私たちの思いがルールだけに留まってしまう事はありません。
神様との関係を深く築いていたダビデが、それでも神様の御心から外れてしまったように、大きな罪を犯すこともあるでしょう。
そんな時でも、そのルールを守る事のできない私たちを神様が赦し、愛して下さる事を私たちは体験します。
そこにある神様の計画、力、平安は、私たちをより神様に近づけ、より理解していく事ができるのです。

詩篇の中でダビデは、神様との関係についてこのように歌っています。

詩篇 63:1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
63:5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

まるで誰かを恋い慕う乙女の様だと思いませんか?
生きた神様との関係とは、こういうものなのです。

③ どれくらい神様を知っていますか?
みなさんは、神様との関係がどれくらい親密になっているでしょうか?
その親密さは、相手をどのような名前で呼びかけるかによってある程度知る事ができると思います。
例えば僕の事を「松田健太郎様」とか、「松田様」と呼ぶのはビジネス的な関係です。
「松田さん」になると少し親しみが増しますが、せいぜい知り合いくらいなものでしょう。
中学生くらいまでの友達は、僕の事を親しみを込めて「まっちゃん」と呼んでいました。
今の僕を知っている人の多くは、僕を「けんたろさん」と呼びますね。
「健太郎」と呼び捨てにするのは、僕の妻や両親、あるいは余程関係の深い友人でしょう。
しかし、何よりも親しみのある呼び方があります。
それは、「パパ」という呼び方ですね。
こればかりは、皆さんがどれだけ僕と親密な関係になったとしても、呼ぶ事ができません。
そのように僕を呼ぶことができるのは、ふたりだけなのです。

私たちは、イエス様を通して、神様の事をそんな風に呼びかける事ができるようになりました。
これ以上にないほどの親密さをもって、神様との関係を築くことができるのです。

それだけではありません。
神様はいろんな性質を持ったお方であり、それに合わせた色んな名前で呼ばれています。
私たちがその名前の性質を、どれだけ多く体験したかによって、私たちがどれくらい神様を知っているのかを計る事ができるかもしれません。

「全能の神」「創造主」「癒し主」「備えて下さる神」「平安の神」「勝利をもたらす方」「私の羊飼い」「ここにおられる方」「最も高い方」「力ある神」他にも何百という呼び名が神様にはあります。
皆さんは、神様をどれだけ体験し、どれだけ深く知っているでしょうか?
もしかすると、まだまだ知らない、体験していない神様の一面があるかもしれません。
いや、この地上にいる間に、神様の全てを知り尽くすことはできないでしょう。
そして神様を深く知るほどに、私たちは自分自身の中にある新たな人生を発見するのです。

もっともっと、神様を知って下さい。
神様について知るとか勉強するとかいうのではなく、もっと神様を体験して欲しいのです。
そして、もっと親密な関係を、神様との間に築いてください。
その愛と平安と喜びに包まれて、さらにその関係を深めて下さい。
そのような生きた神様との関係の中に、不可能はないのですから。

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