ルカ21:25-33 『ルカ100 その雲を見た時、私たちは何を思うのでしょうか?』 2017/03/19 真鍋健一朗

ルカ21:25~33
21:25 そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
21:26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
21:27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
21:28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」
21:29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。
21:30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。
21:31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。
21:32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
21:33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

この機会を与えて頂き、有難うございます。100回目の記念すべき機会にメッセージできる事を感謝いたします。
パワーポイントも使わず、言葉だけでの説明は難しいですが、できるだけ皆様に理解いただけるようにと意識し、また、通訳者の方へご迷惑をかけない様、できるだけ原稿に沿って進めて行きたいとおもいます。お休みになられる方もいらっしゃると思います。その時は、春の陽気のせいとして下さい、私メッセージのせいとはせず、愛のある御配慮を御願い致します。お祈りを持ってはじめます。

◆25~28節:
そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み人々は、その住む全ての所を襲おうとしている事を予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。その時、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲にのってくるのを見るのです。
これらの事が起こり始めたら、体をまっすぐにし、頭を上に上げなさい。購いが近づいたのです。

先週から、終末へ近づくにつれての恐ろしい状況の記載が続きます。大地震、疫病、ききん、迫害、裏切り、そして、複数の偽キリスト。先週の話では、韓国では既に50人の偽キリストが現れたと。今週の箇所でも、恐ろしさの度合いが分かります。私たちは、恐ろしさのあまりに気を失う。気を失うという経験がないのですが、人間の忍耐の限界を超える恐怖が襲いかかるのでしょう。人間が持つ機能、体を守ろうとする機能として、恐怖から意識を逃避させようと気を失わせるのでしょう。それ程、恐ろしい状況。そして目が覚めると、人の子が雲にのってくる。まさか50の雲が現れることはないでしょう。一人の人の子があらわれる。雲の上にのる人は?私たちの世代では、堺正章です。西遊記です。彼でもなく、イエス様が雲に乗ってやって来るのです。(西遊記。猪八戒=豚。西田敏行。三蔵法師は夏目雅子)。その雲を見た時、私たちは何を思うのでしょうか?これが本日のメッセージのタイトルとなりました。

◆31~33節
そして、イエス様は続けます。そのように、これらの事が起こるのを見たら、神の国が近いと知りなさい。まことに、あなた方に告げます。全ての事が起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。
しかし、私の言葉は、決して滅びることが有りません。

この箇所は、「滅びる」という言葉を回転軸にして「滅びない」「滅びる」「滅びない」となっています。何が滅び、何が滅びないのでしょうか。 「これらすべてのものが起こるまではこの時代は滅びない」とこれが第一のことです。これは、「滅びる」と簡単に言い切ってしまうべきものが「滅びない」という現実があることを教えています。不正な王の支配、災難や災害、この時代、命あるものが経験する事は、すべてが過ぎ去って行くということです。しかし、私たちが終わるべきもの、過ぎ去るもの、滅びるものと考えているものも、神の時の順序を経なければ「滅びない」と語られているのです。私たちが今生きているのは、このような時です。従って、神の時に身を委ね、この時の意味をしっかり踏まえつつ忍耐しなければなりません。次は「天と地は滅びます」です。ここで、「滅びる」と語られているものの規模の大きさに注目しなければなりません。「天と地」は不動のもの、変わらないものの象徴であるはずです。地で言えば、国土、家、ふるさと、伝統、文化、習慣、親、妻、夫、子、友人、少し小さいもので言えば、仕事、趣味、努力、名誉。天でいえば、太陽、月、星、これらは変わることのない天と地に根ざして多くの人の生き甲斐を与えてきたものでした。これらは無くなってしまうのです。しかし、その中で第三として「私のことばは決して滅びない」です。ここで「滅びない」のは「ことば」という目に見えない、風のように消え去ってしまう何の実体もないようなものであることは興味深いことです。主イエス・キリストの言葉、この言葉だけが、天と地が滅びても滅びることはにないと・・・・。ところで、私たちの始まりには何があったのでしょうか?言葉です。ヨハネの

福音書1:1~ はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方は初めに神とともにおられた。全てのものは、この方によって造られた。

イエスの言葉が最初であり、時代を超え、語り続けられ今の時代にまで、福音として私たちの所にさえ、届いています。そして、終末の後も生き残る。私たち人間の言葉は状況によって変化し、約束も破られ、心にもないようなほめ言葉や心のそこからわきあがってくるような悪意にあふれた言葉などで不信や不安はあっという間に増大します。でも、イエス様は、自分の言葉について「決して滅びない」と断言なさいました。イエス様が何を教え、何を語られたのか、そういう言葉を丁寧に読み、学んでいく時、私たちは決して滅びない価値のあるものを発見できると思います。 その言葉を発信される方が、雲に乗ってまたやってくるのです。いつ来るのでしょうか?先日の子供向けのメッセージでは恵先生はおっしゃいました。いまでしょ!いや違います。突然にやってきます。

◆34節
あなた方の心が、放蕩や深酒、この世の煩いの為に沈み込んでいるところに、その日が罠のように、突然あなた方に臨むことが無いように、良く気をつけていなさい。放蕩や深酒やこの世の煩いに沈み込むとは、どういう事でしょうか?放蕩や、深酒とありますが、話す対象のメインはクリスチャンであると思います。毎週教会に行く、奉仕をする、大きな声で賛美する。教会から帰り会社、学校でも、手を抜かずにがんばって、出来れば世の塩、世の光となりたい、御言葉を伝える者として用いていただきたいと思い、悪口は言わず、言われても反撃せず、右の頬を叩かれれば、左の穂を出す。しかし、時に言いたい。『神様少し疲れました。また貴方の力をかりて、この様な成功を得る事ができました。有難うございます。そんな時は、貴方もおっしゃいました。汝の重荷をおろしなさいと。はい!そうさせてもらいます。しかしもうちょっとリラックスさせてください。』これが油断です。そう言うときに『WELLCOME BACK=おかえり!』とサタンが呼びます。サタンが私たちを引きずり込むのではなくて、私たち自らの足で彼の元へ行ってしまうのです。 そうです。弱い私たちは、サタンと居る時が、実は、非常にリラックスできる時間なのです。
これらの御言葉があります。エペソ5:8:また酒に酔ってはいけません。そこには、放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。ヤコブ1:14~人はそれぞれ自分の欲に引かれて、おびき寄せられて誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。そして、私たちは、神を程ほどに?恐れています。放蕩の後、この世の煩い(=これらは皆様によって定義が違うと思いますが)、大体がその翌朝に大きな後悔の念が襲い、沈み込んでいることが多いと思います。この繰り返しです。『神様これが最後です。』と祈ってもまた、同じ罪を犯してしまいます。その時に、あの雲がやってきたら、言い訳のしようがありません。 そしてイエス様は続けます。

◆36節
しかし、あなた方は、やがて起ころうとしているこれら全ての事からのがれ、人の子の前に立つことができる様に、いつも油断せずに祈っていなさい。人の子の前に立つとはどういう事でしょうか?人の子によって裁かれる事であると先ず思ってしまいます。その時の人の子は、どの様な裁判官なのでしょうか?

伝道者の書:12:14:神は、善であれ、悪であれ、全ての隠れたことについて、全てのわざをさばかれるのだ。

とあります。
36節では、いつも油断せずに祈っていなさい。とありますので、『はい、いのります。神様有難うございます云々』その時に、あの雲が来たときには、ラッキー!と思うでしょうか。『貴方の御教えの通り、常に祈っていますよ。ですから、神様、分かっていますよね?貴方と神の御国へ連れて行ってください。裁かないでね!』と言える立場でしょうか?または、放蕩の際にあの雲が突然に来た時、私の場合、『いえいえ、まだ二杯目なんです!
そして丁度、今帰ろうとしていたんですよ。今朝もちゃんと祈っていましたから、ちょっと大目にみて、ここはシャンシャンで』と言えるのでしょうか?もう一度 36節を見ます。いつも油断せずに祈っていなさい。
何のため?人の子の前に立つことができる様にと記されます。人の子の前に立つとは?28節に戻ります。
これらの事が起こり始めたら、体をまっすぐにし、頭を上に上げなさい。購いが近づいたのです。

この世を造られた方、その言葉を携え、終末の時に、雲に乗って、私たちの前に現れ、その方の前に立った時、そのお方は、私たちの事、全てを知る事ができる、その力を持つ方です。私たちは何も隠すことが出来ません。
今、私たちは、『いつも祈っていなさい』と言われて、『裁きのときに裁かれないように』と祈ることはあまり意味が無い気がします。なぜなら数え切れない程の罪を犯し、その全てを神様はご存知であるからです。その神の前に立つときに、ただ単純に、体をまっすぐにし、頭を上にあげて、堂々とした姿勢で立つ事ができる様に祈るべきです。しかし、この気を失うような恐ろしい状況の中で、恐ろしい力を持つ貴方の前に立つことこそ本当の恐ろしいことであると思います。しかし勇気を出して立たつという事は、その時、神の前で心から自分の罪を認め、謝り、貴方を神として信じ、感謝できる様に、腹をくくることができるからであると思います。その後はどうなるのか?それは分かりません。それも神にゆだね貴方の前に立つのです。

この勇気は直ぐにできるモノではありません。準備が必要であり、練習が必要です。その為の祈りの時間が必要です。『貴方の前に、立つことが出来ますように、その勇気を与えてください』と。もっともっと祈る、成功し、失敗し、貴方から離れ、そして戻り、貴方を信じる気持ちが強くなり、そして私たちが強められる、終末の時に貴方の前に立つことができる勇気を持つ事ができる様になっていくと思います。滅びるといったこの時代が滅びない今の時間。神様は、神の前に私たちが立つための準備の時間、より多くの祈りの時間を、愛を持って私たちに与えていただいているのではないでしょうか?しかし、神は愛の方でありますが、その時は突然やって来ると厳しい事をも言われます。直ぐにやってきるかもしれません。油断はしてはなりません。
私たちは、継続が苦手な者です。サタンに居るのが心地よい者です。しかし、イエス様の前にたてる強い者となるよう、また、より成長したクリスチャンは、自分の為だけでなく、まだ貴方を知らない方も強くなれるように、神が定める時間まで、油断せずに祈り続けようではありませんか。

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