ローマ1:16-25 『ローマ3 「神の義」最強!』 2017/07/02 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙1:16~25
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

ローマ人への手紙の3回目です。
これまでパウロは、まだ見ぬローマのクリスチャンたちに挨拶の言葉を送っていたんでしたね。
その中でパウロは、自分に与えられている福音を宣べ伝えるという使命について、そして神様の選びはすべてのクリスチャンの上にあるということについて話しました。
それは、人々を主イエスに繋げるためであり、すでにイエス様との関係の中にある人々を強めるためでもあったのです。
そしてローマ人への手紙は、いよいよ本題へと入って行きます。

① 福音を恥とは思わない
さて、パウロはこのように言っています。
「私は福音を恥とは思いません。」

皆さんは、この言葉をどの様に思いますか?
「私は福音を誇りと思っています。」の方が、もっと積極的な言葉のように思えるのですが、パウロはどうしてこのような言い方をしたのでしょう?
それは、パウロがもともとどのような人だったかということを考えると、少しわかるかもしれません。

パウロは、かつて熱心なパリサイ派のユダヤ教徒でした。
彼は律法に従って生きて、神様を冒涜するクリスチャンたちを迫害し、アナニヤを始め何人ものクリスチャンたちの死に関っていました。
そんなパウロがクリスチャンになり、福音を伝えるようになった。
クリスチャンではない人たちの中には、ミイラ取りがミイラになってしまったようなパウロを嘲笑う人たちもいたでしょう。
またクリスチャンの中にも、手のひらを反したようなパウロの態度を信頼できない人たちもいたかもしれません。
実際、パウロが人々からの信頼を勝ち取るのは簡単なことではありませんでした。
だからこそ、パウロはハッキリとこの様に宣言したのです。
「私は福音を恥とは思いません。」と。

私たちはどうでしょう?
私たちもパウロと同じように、「福音を恥とは思わない」と言えるでしょうか?
私たちはどこかで、宗教の話をすることに後ろめたさを持ってしまっているところがないでしょうか?
あるいは、友人から嘲笑われるのを恐れて、神様を信じていることを人前で認められないということはないでしょうか?
日本には「空気を読む」という文化がありますから、特にそう感じてしまう事は多いかもしれませんね。

では逆に、パウロはあざけられるような状況に立たされながら、どうして「福音を恥とは思わない」ということができたのでしょう?
なぜなら福音とは、滅びる事が当然だった私たちを救うことができる、確かな神の力だからです。
パウロはこの様に続けています。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
福音とは、信じるすべての人に救いを与える、神様の力です。
神様から離れ、悪魔の支配に入ってしまった私たち人間を解き放ち、神様の御元に引き寄せる力が、福音にはある。
それは、彼がこれまで人生を捧げて信じてきた宗教の世界にはないものでした。
なぜなら宗教は、人の正しい行いに根差し、人の力に頼るものだったからです。

福音には、宗教にはない力があります。
私たちも、神の力である福音を誇りとして生きていきたいですね。

② 義人は信仰によって生きる
さてそれでは、そのような福音の力はどこから来るのでしょう?
パウロはこう説明しています。

1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

福音の力の源は、『神の義』です。
これは、少し難しい言葉なので、解説が必要だと思います。
『義』というのは『正しさ』というような意味ですが、「福音の力の源が神様の正しさである」というのは、一体どういう意味で、どういう理屈なのでしょうか?

そこでみなさんに一つ質問したいと思います。
答えなくても良いので、考えてみて下さい。
実現する祈りとは、どのような祈りだと思いますか?
断食して、徹夜して、熱心に祈った祈りでしょうか?
私たちが完全な信仰で、起こると信じた祈りでしょうか?
そうではないんです。
聞かれる祈り、実現する祈りとは、神様の御心にかなった祈りです。
箴言にこのような言葉がありますね。

箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。

私たちの思いや計画が神様の御心と一致した時、それは現実になります。
神様がこの世界の創造主であり、全ての支配者、王の王だからです。
私たちがどれだけ正しいと思っても、神様の計画にないなら決して実現しないのです。

「神の義」とは、創造主であり、愛であり義なる方である神様の本質を表すものであり、「神の義」の中に神様のご計画はあります。
つまり、持っているものを手放せば下に落ちるように、1+1の答えが必ず2になるように確かな力、それが「神の義」なのです。
「神の義」最強でしょ?(笑)

神様から離れたことによって壊れてしまっていた私たちと神様との関係を、神様はイエス様の命によって癒し、回復しました。
どうすればその救いを手にすることができるでしょう?
道徳的、宗教的に正しい行いによってですか?
多くの人々は、そう思っていました。
正しい人は、律法に即した正しい行いによって生きるのだと信じられていたのです。
でも、そうではありません。

「義人は信仰によって生きる」と聖書には書かれています。(ハバクク2:3-4)

私たちを生かす原動力は、律法を守って正しい行いをするということではない。
神様を愛し、信頼する関係の中で、私たちは生かされていくのだということです。
行いによってではなく、信仰によって…、それがグッド・ニュース、福音なのです。

なぜそんなことが言えるのか?
そこに救いがあるなんて、どうして言い切れるのでしょう?
なぜなら、それこそが神様の性質である「神の義」に根差す神様の計画だからです。
物が下に落ちるように、1+1の答えが2になるようにその救いは確かなもの。
「だから私は、人から何を言われようと、どう評価されようと、福音を恥とは思わない」そのようにパウロは、胸を張って宣言しているわけです。

③ 彼らに弁解の余地はない
そもそも、私たちはなぜ、そのような救いを必要としているのでしょうか?
その理由が18節から書かれています。

1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

この世界にはたくさんの不思議と矛盾があります。
宇宙はこれほど秩序が満ちていて、世界のことを知れば知るほどに、全てが偶然の産物だとは決して言えないようなもので満ちています。
自らを大自然の中に置いてみると、この世界の美しさ、荘厳さに心が打たれ、創造主である神様を感じないではいられません。
そこには愛があり、優しさがあり、厳しさがあり、ユーモアがあります。
一方で、この世界にはたくさんの問題もあり、苦しみもあり、困難もあります。
憎しみがあり、争いがあり、悲しみがあり、病気があり、絶望があります。
全知全能の創造主がいて、私たちを愛しているのなら、なぜこのような事が起こるのかと思うような悲劇に、この世界は満ちているようです。
なぜなのでしょう?
それは、そこに神の怒りが表されているからだとパウロは言います。
すべて、私たちが神様から離れてしまったという“罪”の結果なのです。

私たちはまず、私たちの問題の源は、私たちが神様から離れてしまった事にあるということに気づく必要があります。
そして、だからこそ私たちには、救いが必要だということを知らなければなりません。
皆さんは、すでにその救いを手にしているでしょうか?
神様との関係が回復すると、そこから私たち自身の回復、そして世界の回復が始まります。

クリスチャンになったからと言って、すぐにすべての事が変わるわけではありません。
神様との関係が深まっていくには時間がかかりますし、私たちは神様の導きに従って変えられていく必要もあります。
その歩みは、決して簡単なものではありません。
手放せないものを手放し、赦せない人を赦し、愛せない人を愛するように導かれることもあるでしょう。
しかしそんな神様との歩みの中で、私たちは、本来神様に創造されていたはずの、素晴らしい私たちへと回復していくのです。
救いを必要としない人は、誰もいません。
まずは私たちから、その救いを受け取り、体験し、広げて以降ではありませんか。

 

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