ローマ3:9-18 『ローマ9 罪ってなんだ!?』 2017/08/20 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙3:9~18
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

教会に来る多くの人がもっとも抵抗を感じる言葉のひとつは、『罪』という言葉ではないかと思います。
それは、この『罪』という言葉が日本語では『犯罪』を連想させてしまうからかもしれません。
「私達は罪人です」と言われると、何か酷い言いがかりをつけられているように感じたり、逆に自分には関係のない話のように感じてしまいます。
せめて、「私達には弱さがある」とか、「私達は不完全な存在です」という言い方にしてくれたら、どれほど受け入れやすいことだろうとたくさんの方から言われました。

では、キリスト教ではなぜ『罪』という言葉が使われているのでしょうか?
それは、神様から律法が与えられていて、私達はその律法を違反しているからです。
法律を違反すれば罪となるのと同じように、私達は律法を守る事ができていないので、『罪人』と呼ぶわけです。

私達の問題は、「弱さがある」とか「不完全な存在」という程度のものではありません。
「弱さ」や 「不完全な存在」という問題であれば、「これが私なんだから仕方がないよね」という話になるでしょう。
「人間だもの」の世界です。
でも私達は、神様が与えている律法を違反している、違反者なのです。

法律を違反したら、法律に従って裁かれます。
同じように、律法に違反した人は、律法に従って裁かれなければなりません。
どの様に裁かれるのでしょうか?
それは「死」「のろい」「滅び」というものによって裁かれるのだと、旧約聖書は教えています。

それでは、律法を知らない人はどうなのでしょう?
知らないのだから守りようがないのに裁きだけ受けるのでは、不公平ではありませんか?
では、この世界ではどうでしょう?
シンガポールに行って、ガムを持っているのがわかれば逮捕されてしまいます。
80万円の罰金や1年の禁固刑、場合によってはむち打ちの刑です。
法律を知らない旅行者であっても、それは変わりません。

タイでタイの国王の悪口を言ったら、3年から15年の禁固刑です。
タイの法律を知らない外国人でも、逮捕されてしまったら言い逃れはできません。
法律というものは、秩序を生み出すためにあるその国のルールです。
「知らなかった」という言葉は通用しないのです。

それでは、神様の律法はどうなのでしょう?
律法も、「知らなかった」というのは通用しません。
でもそれは、人間の法律とは少しその理由が違うようです。
パウロは手紙の中でこのように言っていましたね。

ローマ 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

この世界にある誰にでもわかる事柄の中に、神様の意思は表されているということです。
「創造主である神様と、あなたの隣人を愛しなさい。」それが律法の本質です。
当たり前と言えば当たり前のことで、本来は誰もが正しいと思えるはずのことでしょう。
私たちの中には善意があって、その内容は人によって多少の差があるにしても、何が正しいことであり、何が罪かを判断する事が出来ているはずです。
しかし、自分の中にある善意を基準にしてさえも、罪を犯したことがないと言える人はいないのではないでしょうか?
神様の真理や律法を知るまでもなく、私達は罪人です。
ましてや神様の正しさに照らされるなら、私達は誰にも、言い訳をする余地なんてないのです。

そこで、今日の聖書個所の言葉に繋がっていきます。

3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

ユダヤ人たちには律法が与えられていましたが、律法に従って生きていたのかと言えば、実はそうではありませんでした。
パリサイ派たちは熱心に律法に従っていたじゃないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、彼ら自身も『自分たちは律法に従って生きている』と思っていました。
でも、考えてみていただきたいのです。

こどもが何か悪いことをしたために、「謝りなさい」と叱られたとします。
その時子どもが、「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ!!」と嫌々言って、「謝ったからいいでしょ!」と言ったらどうでしょう?
子どもが家にいればよくあることだと思いますが、これは謝った事にはなりませんね。
『表面的に「ゴメンナサイ」という事』が大切なのではなく、申し訳ないという心がなければ謝ったことにはなりません。
ユダヤ人にとっての律法とは、このようなものでした。
彼らは律法を宗教的な規則に留めてしまった、それがユダヤ教ですね。
どれだけ表面的に規則を守っていても、心を失っているなら律法に生きてはいない。
それがユダヤ人の現実であり、異邦人にまさるようなものは何もない。
律法が与えられていても、いなくても、私たちが罪人であるということには何の変りもないのです。

それでは、罪とは何なのでしょうか?
昨年この教会で行った福音の学びを思い出しながら、パウロが引用している聖書個所を見ていきましょう。
罪とは第一に、私達神様から離れている状態です。
パウロは、詩篇14篇が元になっている言葉を引用しています。

3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

ここでパウロは、「義人、つまり正しい人はどこにもいない」と言っています。
この部分がよく取り上げられますが、今回はあえて、次の言葉に注目してみましょう。
『悟りのある人はいない。神を求める人はいない。』
神様を知る人は誰もいない。
それどころか、知るために自ら神様を求める事もありません。
だからすべての人は迷い出て、無益な者となりました。
これが、罪人の状態です。

私達が神様に従わないことによって罪は明らかにされますが、律法を守らない事そのものが問題なのではなく、私たちが神様から離れ、神様を求めない状態にある事が本質的な問題なのです。
私達が神様から離れ、神様を求めない状態にあるから、律法に生きる事ができないのです。

第二に、罪とは、神様が創造した私達本来の状態から離れてしまっていることです。
詩篇140篇の言葉が引用されています。

3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

罪の状態にある私達からは、汚れたことば、嘘、いつわりが出てきます。
その言葉は人を傷つけ、神様を悲しませます。

さらに、15~17節はイザヤ書59章にある言葉からです。

3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」

神様は互いに愛し合うように私たちを創造したはずなのに、罪の状態にある私達の間には争いが起こります。
神様は、私たちが幸せになるように創造したはずなのに、罪の状態にある私たちの道には、破壊と悲惨があります。
こうして、神様から離れて自分勝手に生きようとした結果、私達は自らを傷つけ、苦しめ、神様を悲しませるような結果になってしまうのです。

そして第三に罪とは、自らを神とすることです。
これは少し強引かも知れませんが、パウロが引用している詩篇36篇1節のことばの中にそれが表されています。

3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

神様から離れて関係が壊れた私達は、神様を恐れる心も失って、自分自身を神としているのです。

正しい人はいない、全ての人が罪人だとするなら、私達はみんな、罪がもたらすこのような痛みや苦しみ、傷や悲劇から逃れる事はできないということです。
どうすればいいのでしょうか?
だから私達にはイエス様が必要だということです。
私達は必ずそこに戻ってきます。
そうでなければ教会ではありませんね。(笑)
私達は、イエス様を通して父なる神様との関係を回復し、それによって罪という痛みが癒され、本来創造されていた祝福の状態へと近づいていくことができるのです。

自分の中にある罪に気づいてください。
そして、その罪から癒されましょう。
その先には、必ず祝福が待っているからです。

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