ローマ3:19-31 『ローマ10 律法による人間の義』から『信仰による神の義』へ 2017/08/27 小西孝蔵

 ―ローマ人への手紙3章19~31節-

19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生ずるのです。

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それは、すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

24 ただ、神の恵みにより、キリストイエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

25 神は、キリストイエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じるものを義とお認めになるためなのです。

27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは、すでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼にない者をも信仰によって義と認めてくださるのです。

31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立にすることになるのです。

1.初めに   (祈り)

① 皆さん、コンプラという言葉ご存知ですか?テンプラではありません。コンプライアンスは?-法令順守ですね。会社勤めの方は、耳たこではないでしょうか。律法を逆さにすると法律。日本の法律は、全部で、約2千あります、これ以外の政省令を含めると約8千あります。企業各社がこれらを社内に適用するのに何十ページにもわたる膨大なコンプライアンス・チェックリストを作っています。それでも、東芝の不祥事のように、企業不祥事はなくならないのですね。法令では律しきれない人間の罪の根の深さがここにも表れているような気がします。コンプライアンス疲れも叫ばれています。

② 今年は、宗教改革500周年の年。ルターがローマ教皇庁の免罪符に反旗を翻して、ヴィッテンヴルグ大学に95か条の声明文を出したのが、1517年10月31日

この秋は、日本でも様々な記念事業が予定されています。

ルターの改革の原点は、ルターが修道院の苦悩の修養生活(塔の体験)いわば律法主義的生き方の中で出会った、ローマ書1章17節の「義人は信仰によって生きる」の言葉と言われています。

少し大げさな表現ですが、現代のわたしたち自身が直面する第2、第3の宗教改革とも言うべき、信仰の原点回帰に、神様がローマ書を通して、どのように語り掛けてくださるのかを心にとめながら、ローマ書3章の後半をご一緒に読んでいきたいと思います。

 

2.背景(パウロの思い)

①パウロの第3回伝道旅行で最もローマに近いコリントに滞在中に書かれた。コリントは、東西の貿易拠点、経済的繁栄と道徳的退廃の町。世界伝道の拠点となるローマを目前にして、これまでの伝道活動の集大成というべき、信仰の奥義の集大成。

②パウロはローマを目指すが、直接向かうのではなく、ユダヤ人からの迫害は覚悟の上、エルサレムの愛するユダヤ人教会信徒に献金を届けるという使命を果たすことを決意。

③まだ見ぬローマの教会には、異邦人とユダヤ人とが共存。単純化していえば、異邦人信徒は自由奔放主義に、ユダヤ人は律法主義に陥る傾向、彼らに、信仰の奥義の集大成を伝えて、正しい福音理解に役立てたいという願い。

 

3.律法による罪の自覚と神のさばき(19,20節)

先週学びましたように、3章前半の結論は、「義人一人だになし」。(There is none who does good, no, not one.)すべての人は、神の前には例外なく罪人であるということです。19,20節は、3章前半を受け、律法を行うことによって、だれも神の前に義とされない、さばきに服す、罪の自覚が生ずるのみと主張。

 19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生ずるのです。

 

ちなみに、パリサイ人は、モーセの律法を613の戒め(248 +365)にまとめ、それ以外に種々の口伝律法を付け加えて、モーセの律法をねじ曲げていたわけです。

イエスは、律法の抜け道を設けて、本来の律法を守らず、神から離れてイエスに敵対していたパリサイ人の律法主義を念頭において、イエスの垂訓を語られた。私たちも山上の垂訓を読んだとき、完全に参ったと自分自身の心の中の罪をはっきり自覚せざるを得ません。

マタイ528)「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに姦淫を犯したものである」、マタイ548)「だから、あなた方は、天の父が完全であるように、完全でありなさい。」

 

4.信仰による神の義(21-24節)

21節から26節までは、日本語では切れているが,英語〈原語)では、一文、長文で大変重みのある言葉です。順番に見ていきましょう。

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」

「律法とは別に」は、英語で”Apart from the Law” 律法とは無関係という趣旨。

「神の義」は、神のさばきと救済とが同時に実現されること(後述)。

 

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それは、すべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

「キリストを信じる信仰」は、英語で、“faith in Jesus Christ” キリストが目的格ではなく、キリストにある信仰、キリストが共におられることによる信頼関係。信仰さえ、キリストから与えてくださる賜物です。

 

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリストイエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

「神の恵み」は、英語でGrace,ギリシャ語で「カリス」(恵み)、「カリスマ」(賜物)は、ここに由来。パウロが手紙の中で101回使っているそうです。

例えば、エペソ218)「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たのではなく、神からの賜物です。」

難破した奴隷船の船長だったジョン・ニュートンが回心して作曲した有名な”Amazing Grace” も救われた「驚くばかりの神の恵み」を歌ったものです。

 

「キリストイエスの贖い」は、罪の奴隷からの解放について、出エジプト、レビ記に出てくる、奴隷の身分からの買い取りに譬えている。 奴隷の解放には、50年ごとのヨベルの年が来るまでは、対価を払って買い取らなければならなかった(レビ記25章)

  イエスの十字架上のお言葉「主よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか自分ではわからないのです。」そして「完了した」という言葉は、ギリシャ顔で、「テテレスタイ」(支払いが完了した)、対価を支払うことによって、罪の奴隷状態から解放されたという意味。この「対価なしに」という、負債の完全免除は何と有難いことでしょうか。【現代の卑近な例で見ても、借金地獄に首をくくろうとしている人にとっても、借金の肩代わりの言葉は、究極の救いでしょう。】

 

5.「なだめの供え物」(25節)(26節)

25 神は、キリストイエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じるものを義とお認めになるためなのです。」

 

「なだめの供え物」とは、英語でPropitiation. レビ記(16章)に記されているように、イスラエルの民の罪を赦していただくには、大祭司が祭壇の前に立って、牛、羊、ヤギなどの動物のいけにえを殺した血を祭壇に振りかけるという儀式が背景。

神の義は、ただ、何も代償を払わないで、罪を赦す、言い換えれば、「あるものをなかったことにする」ことはできないのです。「償い」なしの赦しは、本来は、あり得ないのです。

[歌手のさだ・まさしの「償い」の歌は、交通事故で被害者を死亡させた加害者の男性が、7年間、被害者の妻に給料を送り続けて赦しを請うた実話を基にしているそうです。]

新島襄の有名な杖事件があります。同志社英語学校での校則を破った学生の無断欠席事件で、新島は、自分の腕を腫れ上がるまで杖で強く打ち続けて、ついに杖が折れてしまった、それを見ていていたたまれなくなった学生数名が涙を流して新島に罪を悔いた。そのうちの一人が後に牧師になる堀禎一氏でその折れた杖を大切に保管して、今日、新島記念館に保存されている。学生の罪を不問にするのではなく、先生が身代わりとなって罰を負うことにより、学生の罪を赦して、悔い改めに導いた身近な例です。

神様は、人類の罪の赦しと悔い改めによる救いを導いて、神の義を実現するため,何の罪もないひとり子イエスをこの世に使わし、我々の罪の裁きの身代わりとして、十字架にかかってくださった。それは、神様の限りない愛によるものであり、」律法による人間の義」では達成できない、神の義を実現するものであった。このことを一言で言い表しているのが、有名なヨハネ福音書3章6節です。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じるものがひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちをもつためである。」

 

4.現代のわたしたちに語り掛けていること

私自身の拙い体験を短く披露。中高の学生時代、目標に向かって邁進。律法主義の固

まり。人と背比べしながら受験競争に明け暮れる。大学に入って、挫折。目標を失う。半年から1年間、対人恐怖症、うつ状態から抜け出せず、焦りのみが募る。その中でひたすら読んだのがローマ書。特に本日の箇所、3章23,24節が心に響いて、なんとも言えぬ平安がもたらされました。「ただ、神の恵みにより」「イエスキリストの贖いにより」「価なくして」義とされることの幸いを思い知らされました。

その後も、社会人になって今日に至るまで、しばしば、律法主義、ガンバリズムに陥

る。神様のとの対話のチャネルを閉ざして、自分の知恵と力に頼って行き詰る。その都度、神様から試練を与えられて、悔い改めて主に依り頼むという原点に立ち帰らされる。

現代の日本のキクリスチャンは、自分を含めて、一方で、過去の伝統や形式、他人の評価、自分のプライド、上司の人間関係などに目に見えない律法と罪意識とにどんなにか縛られていることでしょう。疲弊し、窒息しそうな状況に追い込まれることもありますね。「律法による人間の義」を実現しようとして、神様に背を向けているのではないでしょうか。

そうした中、ありのままでいいんだよ、神様の下に立ち返って、すべてを委ねれば、律法による罪と悩みの呪縛から完全に解き放たれる、という「信仰による神の義」の救いの言葉は何という慰めでしょうか。

 

5.律法の完成

今や、信仰によるのみと宣言された以上、神から与えられた律法を守ろうとしてきたユダヤ人の取柄はなくなった。律法のない異邦人と同じ立場に置かれるようになった。とすれば、律法は、もう、役割を終えたのかというのが、当然の疑問になります。現代の私たちも、信仰による自由と言いつつ、イエスに従って自らの十字架を負うことを忘れて、何もやっても許される、何もやらなくても許される、無責任な「自由のはき違え」になってはいないでしょうか。それに対して、パウロは、ノーと言っています

31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立にすることになるのです。」

イエスが山上の垂訓の中で言われたのも同じです。

マタイ517)「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのである。」

律法自身が悪いものではない、あくまで正しいものである。それを自分だけのちからで、自分の都合のいいように守ろうとする律法主義、言い換えれば「律法による人間の義」が問題なのです。「信仰による神の義」によって、律法の束縛から解放されると同時に、律法が完成するというのです。どうしてそうなるのか。それは、復活されたイエス様の力と聖霊の働きが与えられるからです。このことの詳しい記述は、今後のローマ書5~8章に譲りたいと思います。

ちょっと脇にそれますが、ローマ書の構成を交響曲に譬えて言いますと、4部楽章の構成。第1楽章(1~4章)個人の救い1(信仰による義)、第2楽章(5~8章)個人の救い2(聖化、栄化)、第3楽章(9~11章)人類の救い、第4楽章(12~15章)信徒の道徳・行い。これに、挨拶部分として序曲(1章前半)とフィナーレ(16章)が加わります。本日の箇所は、第1楽章のハイライト、パウロによって「信仰による神の義」が力強く説かれていました。私のメッセージは、力及ばずですが・・・。

これから先の展開は、ローマ書の第2楽章となる第5~8章(聖化、栄化)で、信仰によって義とされた私たちが生身の人間である現実とのはざまにあって、どのように浄められていくのかを語っています。結論から申し上げると、パウロは、次の言葉にあるように、御霊によって歩むことによって、律法の精神を全うされることを教えています。

ガラテヤ5

13)「兄弟たち、あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで愛をもって互いに仕えなさい。」

14)「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」

16)「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 

私たちは、時には、絶望の淵に追い込まれます。人間の力ではどうすることもできな

い、無力感を感じた時、祈りを通して主に委ねきることにより、主の力が与えられるのです。最後に、自分の弱さを誇ったパウロの言葉で締めくくりたいと思います。この言葉は、私にとっても、窮地に追い込まれた時の心の支えになりました。

Ⅱコリント12

9)「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたがたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう。

(10)「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ

ています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」

     (祈り)

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