イザヤ9:1-7 『ひとり子が生まれる』 2017/12/17 松田健太郎牧師

イザヤ書9:1~7
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

イザヤという人は、イエス様が生まれる700年も前に活躍した預言者です。
この頃イスラエルは、アッシリア帝国によって侵略され、多くの人たちは捕囚(強制移住)によって別の国に連れていかれてしまっていました。
そこには残されたイスラエル人たちもいないわけではありませんでしたが、捕囚によって移り住んできた別の民族の人々に囲まれて、肩身の狭い思いをしていたのです。
そんな事もあって、ガリラヤはもともとイスラエルの中にある地域でしたが、ここでは『異邦人のガリラヤ』と呼ばれています。

自分の故郷が征服され、家族とも別れ別れにされたとしたら、どんな気持ちになるでしょうか?
イスラエルの人々は連れていかれても、残されても、辛く苦しい状況の中に置かれていたのです。

そんな絶望的な状況の中で、預言者イザヤはこのように預言しました。

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

彼らが直面していた絶望の深さを考えるなら、やみの中にいた彼らが光を見るなどと、誰に言う事が出来たでしょうか?
実際、この言葉を聞いた人々の多くは、この言葉を信じることができなかったかもしれません。
しかし、神様はどんな不可能も可能にします。
この絶望の闇の中に、光が見いだされる時が来るのです。
どのようにしてでしょうか?
それは、救い主が誕生する事によってです。

イザヤはこのように預言しています。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

「みどりご」というのは、緑色の子のことではなく(笑)、赤ちゃんのことです。
でもその後の、「ひとりの男の子が」というのは、あまり良い翻訳ではありません。
本来どのように訳されるべきなのかと言うと、『ひとり子が私たちに与えられる』となるはずなんです。
『ひとり子』という言葉を聞くと、思い出す御言葉がありませんか?
そう、この言葉です。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ひとり子とは、神様とともにおられるたったひとりの子、三位一体の神様の一部であり、神の子イエス様のことです。
つまりイザヤ書の中にあるこの言葉は、「たったひとりの神様の子が、あかちゃんとしてこの世に誕生して、私たちに与えられる」という事が預言された言葉なのです。

それでは、その救い主とはどのような方なのでしょうか?
イザヤは、救い主はこの様な性質を持った方だと告げています。
第一に、『不思議な助言者』であるということ。
主は、私たちの思いや考えをはるかに超えた方です。
税金を納めた方がいいかと問えば魚を釣るように命じたり、人々がお腹を空かせている時にはパンを増やしたり、誰も思いもよらない方法で道を切り開きました。
イエス様は今も、聖霊を通して私たちが歩む道を示して下さいます。
そんな時主は、やっぱり私たちが考えもしなかった方向に導くこともありますよね。
しかし、私たちがそれに従う時、そこに御業が起こり、解決への道が開かれていくのです。

第2に、『力ある神、永遠の父』です。
これはどちらも、父なる神様を表わしていますよね。
救い主のことを話しているはずなのに、なぜ父なる神様が出てくるのでしょう?
それは、救い主が神の子であり、三位一体の方だからです。
イエス様はこの様に言いました。

ヨハネ 14:9c わたしを見た者は、父を見たのです。
また、パウロもこのように言っています。

コロ 1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

こんなことに言える存在が、イエス様を置いてどこにいるでしょうか?
救い主であるイエス様は、単にひとりの人ではなく、ある人々が思っていたように王様でもなく、父なる神様と一体です。
そして、イエス様がこのような方だからこそ、私たちに救いをもたらす道を拓くことができたのです。

第3に、『平和の君』です。
救い主は、世界の王として地上に来られると預言されていました。
だから多くのユダヤ人たちは、新しいイスラエルの王としてローマ帝国を倒し、イスラエルを解放して下さると期待していました。
そしてやがては、イスラエルが世界を支配するようになると信じていたのです。
しかしイエス様は、武力によってローマ帝国を倒すどころか、あっけなく捕えられ、十字架にかけられてしまいました。
救い主は、武力によって世界を支配するのではなく、愛によって私たちを支配する『平和の君』だからです。

そしてもうひとつ。
救い主は、私たちと父なる神様との間に平和を作るために地上に来たという事です。
神様に背き、自分自身や他の物を神様としてしまった私たちは、神様の敵となっていました。
イエス様は、ご自身に背き敵となっていた私たちの元に来て下さり、教え、共に過ごし、癒し、助け、そして命を投げ出して下さったのです。

このような方として、繰り返し神様に約束されていた救い主が、ひとりのみどりご、神のひとり子が、2000年前にこの地上に来ました。
私たちがその事を覚えて祝う日が、クリスマスです。
だからこのシーズンは、多くの方にこのことを思い出していただきたいのです。

聖書に記されている救い主は、ユダヤ人たちだけに必要な救い主ではありません。
あるいは、今苦しい状況にあって救われたい人にだけ必要な救い主でもありません。

私たちはみんな、創造主である神様に背き、離れた状態にあって、本来与えられていたはずの素晴らしいものを受けることができていないのだということ。(全知全能の主が最高の者として創って下さった私たちには、もっともっと素晴らしい生き方をすることができるポテンシャルがあるのです。)

それどころか、命の源である神様から離れた私たちにまっているのは死でしかなく、滅びしかないのだということ。(この世界にある全ての問題は、私たちが神様から離れてしまったから起こっていることなのです。)

そして、だから神様は、そんな私たちを救うために地上に来られ、命を懸けて私たちとの関係をもう一度結ぼうとして下さっているのだということです。

この救いは、私たちだけが受け取って、喜んでいればいいものでもありません。
私たちはこの救いを、ひとりでも多くの人たちに伝え、届ける必要があります。
世界は苦しみの中にあり、やみの中にあるのですから。

しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見ます。
この福音を、ひとりでも多くの人たちに届けましょう。
そして私たちは、神様とともに生きる喜びを、もっと味わおうではありませんか。

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