ローマ9:14-29 『ローマ27 あわれみの器』松田健太郎牧師 2018/1/21

ローマ人への手紙9:14~29
9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と言っています。
9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」
9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
9:28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」
9:29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

先週は、拓馬くんがローマ9章の前半を通して、「どうしてイスラエルが選ばれたのか?」ということについて話してくれましたね。
皆さん、どうしてイスラエルが、救いの民として選ばれたのでしたっけ?
それは、「神様がイスラエルを選んだから」でしたね。(笑)
冗談のような答えですが、これ以上に明確な理由はありません。
「仕方がないじゃない、神様が選んじゃったんだから」ということです。(笑)

パウロはこの様に言っています。

9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

神様がイスラエルを選んだのは、彼らが「正しいから」でも、「素晴らしい人たちだから」でもありませんでした。
神様の選びはすべて、人間の願いや努力ではなく、神様の憐れみによるのです。
もしもそこに条件が合ったら、イスラエルが選ばれることはなかったでしょう。
もちろん、私たちも同じですね。
罪人となってしまった私たちは、誰も選ばれる資格など誰も持っていません。
それが、「憐れみによる」ということです。

しかしそうなると、私たちの中には別の疑問が出てくるかもしれません。
「神様はヤコブを選び、エサウを憎んだ。」
ヤコブは良いけど、エサウは?
神様はモーセを選び、イスラエルを救わせた。
モーセとイスラエルは良いけど、ではパロとエジプトは?
神様は憐れみによって一方を選んだかもしれないけれど、選ばれなかったもう一方の立場はどうなるのでしょう?
不公平なんじゃありませんか?

皆さんはこんな風に感じた事はないでしょうか。
僕のように素直じゃない人は、すぐにこういう事を考えてしまうわけです。
しかし、昔からこういう人たちはたくさんいたようですね。
こういう意見に対して、パウロはこのように応えています。

9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
なぜそんなことが言えるのでしょう?

この事を考える上で、2つのことを明確にしておきたいと思います。
第一に、神様は私たちそれぞれに、違う選びを持っているという事です。
神様はそれぞれに、違う性格や賜物を与え、それに応じた使命と役割を与えています。
ヤコブやモーセに使命が与えられていたように、エサウやパロにもそれぞれに与えられた使命があり、そのために選ばれていたはずなのです。

第二に、私たちは神様に背くことができるという事です。
神様は御心のままにヤコブやモーセをあわれまれました。
でも同じように、御心のままにエサウやパロをかたくなにされる方でもある。
それは、主権が神様にあり、すべてが神様の御心にかかっているという事でもあります。

しかし、神様が主権を持って選んでいるという事は、神様が私たちを勝手に動かしているということとは別のことです。
なぜなら、私たち人間には自由意志が与えられているからです。
自由意志があるということは、私たちが神様に背き、従わないという選択ができるということでもあります。

エサウやエジプトのパロのような人たちは、神様に従わなかった人たちです。
彼らには彼らに与えられた使命や目的があったはずですが、彼らは神様に従わず、それを求めようともしていなかったのです。

確かに聖書には、『神がパロをかたくなにした』という意味の言葉が何回も出てきます。
それを見ていると、パロが神様に背くようにさせたのは、神様ご自身のようにも思えてしまいます。
しかし、出エジプト記を読んでいればわかることですが、神様に背く選択をしていたのは、あくまでもパロ自身の意志でした。
神様は、パロを神様に背かせ、かたくなな状態に変えてしまったのではなく、彼の心が「かたくなな状態のまま」にしていただけです。

もしもエサウやパロが、心から神様を求め従おうとしていたら、彼らの人生は聖書に描かれているのとは違うものになっていたことでしょう。
しかし彼らは、神様の御心をではなく、自分の求める道を進みました。
そこで、神様は別の方法で、ご計画のために彼らを用いたということなのです。

さてパウロは、この事を明確にするためにこのような言い方をしています。

9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。

少し、この言葉に注目してみましょう。

皆さんは、このような思いを抱いたことがありませんか?
「神様はどうして、私をこんな風に創ったんだろう?」
「神様はどうして、私にこんな運命を背負わせたのだろう?」
「神様はどうして、私をあの人のようにして下さらなかったのでしょう?」
その思いに、パウロは聖書のこの言葉を引用して答えています。

9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

神様は陶器師。
私たちは、土の塊から作られた陶器のようなものに過ぎません。
陶器師が陶器をどのような物として作るかという事に、作品である陶器はモノ申す事なんてできません。
私たちが茶碗として作られようが、ごみ箱として作られようが、それは全て陶器師である神様が決めた事です。
創造して下さった神様に文句を言う資格なんて、私たちにはないのです。

でもね、ここでもう一度思い出していただきたいのです。
神様は私たちひとりひとりを愛していて、それぞれを最高の者として創って下さっているはずじゃないですか。
たしかにそれは、自分が思い描いている人生とは違うかも知れません。
周りの人たちを見れば、うらやましいと思う事もあるかも知れません。
でも、そこには素晴らしい使命と役割があり、最高の人生があります。
私たちが創造されたように生きる時、私たちは本当の幸せを得ることができるのです。

私たちは、罪人として根本的に神様から離れてしまったので、最初からその祝福の中で生きている人は誰もいません。
しかし方向転換して、神様とともに生きる道を選ぶなら、誰でもその祝福を味わう事ができるのです。

9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

それは、旧約の時代から、神様が約束してくれていたことです。

皆さんはどっちの生き方がいいですか?
エサウやパロのように、自分の道を生きても、それなりの満足はあるかもしれません。
エサウやパロが神様に背いていても、彼らが神様の計画のために用いられたように、私たちが背いても、神様は私たちを用いる事ができるでしょう。
でもそれでは、私たちに本当に与えられている祝福を生きる事ができません。
神様が私たちを選び、与えて下さっていた祝福を台無しにすることになってしまいます。

どうせなら、神様が私たちのために特別に計画している、最高の人生を歩みませんか?
あわれみの器として生きましょう。
神様に聞き従って生きるなら、私たちはその道を味わう事ができるのです。

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