ローマ10:16-11:10 『ローマ30 聞くことから始まる信仰』 2018/02/11 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙10:16~11:10
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
10:18 では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。
10:19 では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者たちであなたがたのねたみを引き起こし、愚かな国民であなたがたの怒りを燃えさせる。」
10:20 また、イザヤは大胆にもこう言っています。「わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」
10:21 そして、イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」
11:1 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。
11:2 神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」
11:4 しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」
11:5 ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。
11:6 恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。
11:7 では、どうなのでしょうか。イスラエルは追い求めていたものを手に入れず、選ばれた者たちが手に入れました。ほかの者たちは頑なにされたのです。
11:8 「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。
11:9 ダビデもこう言っています。「彼らの食卓が、彼らにとって罠となり、落とし穴となり、つまずきとなり、報いとなりますように。
11:10 彼らの目が暗くなり、見えなくなりますように。その腰をいつも曲げておいてください。

先週は小西さんがメッセージを取り次いでくださいましたね。
大きなポイントとして、パウロが伝えたかった事をこの様にまとめて下さいました。
『主を呼び求めるものは救われる。
そのためには、信じることが必要。
信じることができるためには、聞くことが必要。
聞くことができるためには 、宣べ伝えることが必要。
宣べ伝えることができるためには、遣わされなくなくてはならない』ということです。
だから私たちは、神様に遣わされて、福音を宣べ伝える事が必要なんですね。
そのための使命が、私たちには与えられているんだという力強い励ましを、私たちはメッセージから受け取りました。

今日は、その続きからです。
パウロはこんな風に書いているんですね。
『しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。』

救われるためには宣べ伝えられる必要があるわけですが、「宣べ伝えられた人がみんな信じるのか、信じてきたのか」と言えば、残念ながらそうではありません。
これまでローマ人への手紙の中で書かれてきたことですが、イスラエルの人々は福音に従わなかったのです。
そのことは旧約の時代、イザヤ書の中でも記されていることだとパウロは言っています。
では、福音をちゃんと受け取るためには何が必要なのでしょうか?
パウロはこの様に続けています。

10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

信仰は聞くことから始まります。
でも、何を聞くのかという事が大切ですね。
以前もお話ししましたが、正しい地図を見ていても、見方が間違えていたら意味がありません。
同じ聖書を読み、律法を学んでも、間違えた受け取り方をしていたら真理にたどり着くことができない。
私たちは、神様の言葉から「キリストについてのことば」を受け取り、それを聞く必要があるのです。
それをしようとしなかったため、イスラエルは救いを失い、最初は福音を伝えられていなかったはずの異邦人たちがそれを受け取り、救われていくようになりました。

ではどうなのでしょう?
イスラエルは神様に見捨てられたのでしょうか?
イスラエルは、救いを失ってしまったのでしょうか?
確かに、そのように考える人たちもいました。
イスラエルは選びの民としての権威を失い、異邦人である我々が新しいイスラエルとなった、古いイスラエルは神様の御心に適わなかったために見捨てられたのだと。

ユダヤ人迫害の背景には、このような考え方がありました。
宗教改革を担ったマルティン・ルターさえもそのように考えていたと言われています。
しかし聖書を見れば、そうではないという事がわかります。
パウロはここでこのように言ってます。

11:1 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。
11:2 神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。

この時に始まったことではなく、イスラエルは何度も神様から離れ、神様に背いてきました。
その度に神様は彼らを警告し、神様の怒りが下る事もありました。
しかし、神様がイスラエルを退け、見捨てられたことはありません。
神様が「もう滅ぼす」と言った時でさえ、結局はついに滅ぼすことはありませんでした。
もしも神様がイスラエルを見捨てたというなら、もうとっくの昔に滅ぼされていたはずです。

異邦人の救いの道が開かれた後も、それは変わりません。
信仰によって、異邦人が救われるようになったからと言って、イスラエルの救いの道が閉じられたわけではないのです。

そして、これは来週の個所で語られていることですが、異邦人が救われたのはイスラエルの救いのためでもあるとパウロは言っているのです。

さて、パウロはどうしてこのような話をしていたのでしょう?
それは、ローマにはユダヤ人と異邦人のクリスチャンがいて、互いの関係に問題があったからです。
では現代の日本に生きる私たちには、この話はどのような関係があるのでしょうか?
聖書を読んでいく上で、これをどう受け取るかとうことはとても大切なことです。
それを考えるのでなければ、聖書に書かれていることは単なる知識でしかありませんね。
私たちは、この部分から何を読み取ることができるのでしょう?

第一に、私たちがイスラエルの人々と同じように宗教的になり、神様から離れてしまうなら、私たちもイスラエルと同じようになってしまわないとは限らないということです。
先ほども言ったように、ユダヤ人たちは迫害されてきた歴史があります。
その背景には、ユダヤ人たちは神様に背いて見捨てられたという誤まった聖書理解がありました。
でも、そういう私たち教会も、神様から離れ、宗教的になってしまう事があるのではないでしょうか?
これはイスラエルだから、異邦人だからということではなく、私たちには少し油断するとすぐに神様との関係を忘れ、宗教や組織に走ってしまう傾向を、私たちは持っているのです。
イスラエルが見捨てられたというなら、私たちが見捨てられないとなぜ言えるでしょう?

しかし神様は、このように約束しています。

ヘブル13:5d 『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

決して見放すことのない神様の愛は、私たちにとって、どれほど大きな慰めでしょうか。

しかし、もちろんそんな神様の愛と赦しに甘んじていればいいということではありません。
神様がそのような方だからこそ、私たちは神様から離れないようにいつも気を遣うべきですし、離れてしまったことに気が付いたらすぐに立ち返るべきです。
神様から離れたところに、神の国はないのですから。

このことから私たちが学ぶことができるもうひとつのことは、私たちもまた、人々の救いをあきらめないということです。

私たちの周りには、神様を知らない家族や友たちがたくさんいます。
なんとか福音を伝えようと思っても、なかなか受け入れられないこともあるでしょう。
あまりにも頑なで、耳を傾けようともしない家族や友人たちに、絶望的になることもあるかもしれません。
それでも、私たちはあきらめるべきではないことを、聖書は教えてくれます。
なぜなら、神様が彼らをあきらめていないからです。

すべての人が救われることは、残念ながらないでしょう。
でも、ひとりでも多くの人たちが立ち返ることを神様も願って、待っておられます。

2ペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

私たちの家族や友人が、果たして救われるのかどうか、私たちにはわかりません。
でも、例えそれがどれだけ不可能に思えても、私たちに命がある限り、イエス様が再び来られるその時までは、私たちはその人たちの救いのために祈り続け、福音を伝え続けましょう。

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