クリスチャンになったら「お布施」をしなきゃいけないの?【「十分の一献金」はマストなのか】

「クリスチャンになったら、『お布施』をしないといけないの?」「教会にお金を払わないといけないんじゃないの?」クリスチャンではない人にされる質問ランキング上位だ。宗教はお金を搾り取る、というイメージがあるのだろうか。そのような質問に、私は「何の義務もありません」と答える。「十分の一献金は義務」との考えは間違いであると、私は考える。

しかし、教会に行くと、しばしば、「十分の一献金」という言葉を耳にする。「収入の十分の一を献金しましょう」というものだ。収入が20万円なら2万円を、30万円なら3万円を、といった具合だ。教会によっては、牧師から教会メンバーに電話がきて、「まだ今月の10分の1献金が振り込まれていません。至急、支払うように」という督促までするところもあるという。ヨーロッパでは、「教会税」として、一般の税金として徴収されるところもあるそうだ。何の義務もないはずなのに、どうして「十分の一」が義務化されているのだろうか?

「十分の一献金」の根拠は何なのか。順を追って見ていこう。

 

「十分の一」の起源

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「十分の一」という表現が聖書で初めて出てくるのは、創世記である。

アブラムはすべての物の十分の一を彼(メルキゼデク)に与えた。

(創世記14:20)

 

アブラハムは、まだモーセの律法も何もない時代に、「すべての物の十分の一」をメルキゼデクに捧げた。メルキゼデクって誰やねんという人は、ヘブル人への手紙に詳細が書いてあるので、後述する。

ここでのキーポイントは、アブラハムは、十分の一を自ら捧げたという点である。誰かに強いられてではなく、律法でもなく、ただ自らの意思で捧げたのである。

 

「十分の一」という表現が2回目に出てくるのは、次の箇所だ。

ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます」。

(創世記 28:22)

 

これは、ヤコブが神に対して誓ったものである。ヤコブは、石を枕にして眠り、夢の中で幻を見て、神から祝福を約束される。その後で、記念として枕にした石で柱を立てて、この誓いをする。誓いの中に、「すべてあなたが私に下さる物の」とある。彼は、自分が持っているものは、全て神から与えられたと告白しているのだ。そして、その「十分の一」を神に献げると宣言している。これは、彼の自発的な感謝と誓いであり、誰かが決めた規定ではない。

 

「十分の一」の規定の成り立ち

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では、「十分の一」が「決まり」になったのはいつだろう。言うまでもなく、「モーセの律法」である。

地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。

(レビ記27:30)

 

モーセの律法は、まず「十分の一」が神の取り分であると宣言する。そして、次に「十分の一」の用途について書かれている。

さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。

(中略)

それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。

(民数記 18:21)

 

神に捧げられた「十分の一」は、天幕で奉仕をする「レビ族」の取り分、生活費として与えられた。「生活費」といっても、当時はお金ではなく、「家畜の肉」や「穀物」などの産物そのものが、いわゆる「年貢」として納められていたのである。

そのかわり、レビ族には「相続地」が与えられなかった。「神ご自身がレビ族の相続地」だったのである。彼らには、放牧や耕作をするかわりに、天幕で奉仕をする役目があった。「レビ族」もとい、「レビ人」は民の「十分の一」の「年貢」によって生活していたのであった。

 

さらに、モーセの律法は、「レビ人」が捧げる「十分の一」にも言及している。

あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として捧げなさい。(中略)こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主への奉納物を祭司アロンに与えなさい。(民数記18:26)

 

「レビ人」にも「十分の一」を納める義務があった。ちょうど、公務員が税金によって得る収入から税金を払っているのと同じである。さしずめ、「レビ人」は現代の「公務員」のようであったと言ってもいいだろう(違うけど)。

 

まとめると、「十分の一」の成り立ちは以下である。

1:アブラハムやヤコブは、自発的に神への誓い、感謝を表し、財産の十分の一を神に捧げた。

2:モーセの律法では、イスラエルの民に対して、「地の産物の十分の一」は全て主のものだと定義づけた。

3:イスラエルの民が捧げた「十分の一」は、レビ人のものとなった。

4:レビ人も、得たものの「十分の一」を神に捧げる義務があった。

 

こう見ると、「十分の一」は確かに、旧約聖書の律法に明確に書いてある。「安息日」同様(※安息日の記事はこちら)、旧約聖書の律法や習慣を踏襲し、現代の教会にも「十分の一」という基準ができたのは、一定程度うなずける。しかし、ここには重大な論理の欠陥がある。

 

「十分の一」は「いけにえ」であって「お金」ではない

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律法にも「十分の一」をささげる習慣があるから、私たちも「十分の一献金」をしようという理論には欠陥がある。なぜか。「十分の一」は「お金」ではないからだ。上記の聖書の言葉のように、「十分の一」は、「いけにえ」や「収穫」の「十分の一」を指すのである。「お金」ではない。

申命記にも、十分の一についての記述が複数あるが、どれも「いけにえ」や「収穫」に関するものである。ひとつだけ引用しよう。

あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず献げなければならない。主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。

(申命記14:22~23)

 

イスラエル人たちの「礼拝」は、「いけにえ」を捧げることであった(※「礼拝」に関しても後日別記事を書こうと思う)。「いけにえ」や「ささげ物」には、「罪の代償」の意味のほかに、収穫したものや所有する家畜の一部を、神に返し、感謝の気持ちを示すという意味合いもあった。

重要なのは、「十分の一」を捧げるべきものは規定されていて、「財産の全ての十分の一」ではないという点だ。いけにえの羊や牛、収穫した穀物など、「十分の一」を取り分ける対象は決まっていたのである。

余談だが、モーセの律法はよくできていて、「いけにえ」を雄牛や雄羊でまかなえない人は、鳩のいけにえでもゆるされ、鳩もまかなえない貧しい人は、その代わりに穀物の捧げ物でも赦された(レビ5章参照)。

 

つまり、「十分の一」は以下のようにまとめられる。

1:「十分の一」は、イスラエルの民への律法の規定だった。

2:「十分の一」は、「お金」や「全財産」ではなく、「いけにえ」や「収穫物のささげ物」の一部であった。

3:レビ人、祭司たちは、その「十分の一」を得て生活していた。

 

以上の点から、「収入の十分の一を教会に支払う義務」は間違っているといえる。その理由をまとめると・・・

1:「十分の一」は、イスラエルの民への律法の規定であって、私たちへの規定ではない。

2:モーセの律法の要求は、既にイエスが十字架の上で支払い、「完了」している。ゆえに、現代の私たち異邦人クリスチャンに、その義務はない。

3:そもそも、「十分の一」は「お金・全財産」を指すものではない。「十分の一」は「いけにえ」と「収穫物のささげ物」の一部である。

4:イエス以降の時代は、イエスただ一人が「大祭司」であり、他に祭司やレビ人はもはや存在しない。

 

他にも、「十分の一」への言及はサムエル記第二8章(→王の徴税の権利として)、歴代誌第二31章(→ヒゼキヤの時代に民が十分の一のささげ物をした)、ネヘミヤ記10章(→レビ人に対しての「十分の一」の規定)などに登場する。まとめると、「十分の一」の規定には、

1:イスラエルの民への徴税

2:イスラエルの民による感謝の表明

3:レビ人への給料

という側面が読んで取れる。いずれも、現代のクリスチャンに「献金」として当てはめるには、根拠が薄弱だと言わざるを得ない。思いっきり律法で禁止されているブタやエビを食べている私たちが、「十分の一献金」だけ義務化されるのは、おかしい話である。

 

反論1:マラキ3章の記述

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さて、もちろん「十分の一」は義務だと唱える人もいる。彼らが根拠とする聖書の言葉のひとつに、マラキ3章の記述がある。「十分の一献金」を義務化しようとする教会が、よくこの箇所を根拠に信者たちを脅すのだが、さて、どんな言葉なのか見てみよう。

人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。―万軍の主は言われる- わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ書 3:8-10)

 

「十分の一献金義務派」の教会では、「十分の一献金」をしない信徒に対して、この聖書の言葉で対抗する。「あなたが十分の一献金を教会に捧げなければ、あなたは神のものを盗んでいる」と脅すのである。同時に、「あなたが十分の一献金」を捧げたら、「あなたはもっと祝福される」と教えるのだ。えええ、それじゃあモチベーションは、「ご利益信仰」じゃないの? と思うのは私だけだろうか。

「あなたが献金すればするほど、神はあなたを祝福される」というメッセージは、意外にも多くの教会で語られる。私がかつて通っていた韓国系の教会では、それが当たり前の常識として語られていた。しかし、私はそれは間違いだと断言する。神の恵みは、そんな因果報応的な、簡単なものではない。

日本人にとっては、神社に行って、5円玉のお賽銭でお祈りするより、1万円のお賽銭の方が祈りが聞かれそうな感じはするだろう。しかし、イエスの恵みはあなたがいくら払ったかは関係ない。私たちが生まれるはるか前に、既にイエスは十字架の上であなたのために「いけにえ」となって死んでくださったのである。神が死んでまであなたを愛してくださったのに、その恵みを「お金」と等価交換しようとする心持ち自体が、既に冒涜だと、私は思う。

そもそも、マラキ書の預言は、現代の私たちに直接語ったものではない。マラキ1章1説を読んでみよう。

宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。(マラキ書1:1)

 

思いっきり分かりやすい形で、著者と対象者が書いてある。対象はイスラエルであって、異邦人である私たちではない。

私たちが聖書を読むとき、それが「いつの時代」、「誰に」、「どういう目的」で書かれたものか、注意する必要がある。もちろん、神は時を超えるので、旧約のイスラエルへの預言がそのまま適用できる部分もなくはない。「殺してはならない」、「隣人を愛しなさい」という普遍的な教えもある。

しかし、このマラキの記述は明らかに、「イスラエル(ヤコブ)」を対象に書かれたものだ。これは、まだ旧約の時代、モーセの律法が有効だった時代に書かれたものであって、その律法をないがしろにしていたイスラエルの民に向けて書かれたものだ。現代の私たちに宛てて書かれたものではない。残念ながらマラキ書の記述をもとに、「十分の一献金義務化」を唱えるのは、全く説得力に欠ける。

 

反論2:イエスは「十分の一もおろそかにするな」と教えた

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もっと説得力がある反論がある。それは、イエスが「十分の一もおろそかにしてはならない」と教えたというものだ。該当箇所を見てみよう。2つある。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。(マタイの福音書23:23)

だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。(ルカの福音書11:42)

 

なるほど、確かにイエスは「十分の一もおろそかにしてはならない」と言っている。しかし、このメッセージの中心は、「これこそ(正義とあわれみと誠実・正義と神への愛)しなければならないことだ」という点なのだ。

律法学者やパリサイ人は、本来、律法で規定されていない、「ミント・イノンド・クミン・うん香・あらゆる野菜」などの「十分の一」もささげていた。あらゆるハーブ類や、野菜などの、取るに足りない小さなものさえも、厳密に「十分の一」を納めていたのである。「俺たちは、こんなに厳密に、本来やらなくていい『十分の一』でさえもささげているんだぜ!」という感じだったのだろう。現代の私たちにあてはめれば、「手取り」ではなく「額面」の十分の一じゃなきゃダメだとか、「ボーナス」も「十分の一」ささげないとダメだとか、そんな感じだろうか。

 イエスは、そんな彼らの「心の動機」、いわばモチベーションが間違っていると指摘したのだ。外見だけしっかりやっているようでも、その実はただの見栄っ張りだった。彼らは、貧しい人やみなしごたちを、全く無視していた。イエスはそんなパリサイ人たちに向かって、「十分の一のいけにえも大切だが、もっと大切なのは正義とあわれみと誠実だ」と言ったのである。

イエスの教え、指摘をまとめると以下である。

1:「十分の一」はおろそかにしてはならない。なぜなら、それは「モーセの律法」の規定だから。しかし、「モーセの律法」はイエスが十字架で完成したので、現代の私たちは行う必要はない。(→同じように、イエスは、ツァラアトからきよめられた人に、律法に従って祭司に報告するように教えた)

2:一番大切なのは、「心の動機」、モチベーションである。

3:正義とあわれみと誠実、神への愛こそが、しなければならないことである。

 

実は、イエスの指摘は新約時代の新しいものではない。旧約聖書にも同じような記述はたくさんある。いくつか紹介しよう。

あなたは いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは お求めになりませんでした。(詩篇40:6)

まことに、私が供えてもあなたはいけにえを喜ばれず全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17)

サムエルは言った。「主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

(サムエル記第一15:22)

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった。ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め』

(エレミヤ7:22~23)

 

他にもいろいろ同様の箇所はある。旧約聖書にも、「いけにえ」は本質ではないと書かれているのだ。パリサイ人たちは、その真理を見抜けずに、形だけの「十分の一」を行っていたのである。

もちろん、「自分が今持っているものは、全て神に与えられたもの」という認識は正しい。「神から与えられたのだから、それを神にお返ししたい」というモチベーションも、素晴らしいと思う。しかし、正義と公正こそしなければならないことだとしたら、「教会に収入の十分の一を献金する」は正しいのだろうか? 私は、それはもちろん素晴らしいことだとう思うが、「貧しい人へのサポート」、「支援が必要な人への支援」も同様に大切だと思う。

その意味で、サラリーマンであれば、自分の給料から自動的にお金が差し引かれ(それも十分の一以上の結構な額が)、その税金で「ODA・発展途上国援助」や「生活保護」、「被災地復興」がされている点から鑑みれば、実感はないかもしれないが、かなりの献金を既にしているのである(年収350万の人なら、原則、所得税20%+住民税10%で既に十分の三もささげているのである!! ワオ!)。

 

 

「完全ないけにえ」はイエスご自身

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もうひとつ、忘れてはならない大切な事実がある。それは、イエスご自身が完全ないけにえであるということである。ヘブル人の手紙に記述がある。

律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する(※ここからも、「礼拝=いけにえを捧げる」という価値観が読み取れる)人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。ところがむしろ、これらのいけによって罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

ですからキリストはこの世界に来てこう言われました。「あなたはいけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした」

(中略)このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

(ヘブル人への手紙10:1~10)

 

この太字のカギカッコの部分は、先ほどの詩篇40編の引用である。詩篇は、完全ないけにえのイエスご自身を表す預言だったのである。なるほど、「いけにえ」も「ささげ物」も「十分の一」も、全ては「完全ないけにえ」である「イエスご自身」の「伏線」だったのである。

ここで、記事の序盤で出てきた、「メルキゼデク」が意味をなしてくる。創世記に、何の前触れもなくアブラハムの前に登場した「メルキゼデク」とは一体誰なのか。ヘブル人への手紙に詳細な記述がある。一部をご紹介しよう。

イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。

(中略)

さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。

(中略)

言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。

(中略)

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(ヘブル人への手紙6:20~7:25)

 

この「メルキゼデク」という人は、創世記に突如現れる。メルキゼデクは、「大祭司イエス」の「伏線」なのである(※「メルキゼデク≒イエス」という人もいる。私もその考えに賛同する)。つまり、アブラハムもレビも、その他の全ての「十分の一」をささげた人は、このメルキゼデク、すなわちイエスご自身に「十分の一」を捧げたのだ。

私たちは、この「永遠の大祭司」であるイエスご自身が、「完全ないけにえ」になることによって、完全に救われている。「いけにえ」も「十分の一」も全てはその「伏線」なのである。何千年も前から、計画されていた、神の神秘なのだ。ああ、神の計画はなんと深いことか。

 

 

「十分の一」ではなく「十分の十」捧げる

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勘違いしてほしくはないが、私は、「献金しなくていい」と言っているのではない。「十分の一献金」などという概念は聖書にない、それは義務ではない、たくさん献金したからご利益があるわけではない、と言っているのだ。しかし、「献金」は大切である。聖書にもこのような記述がある。

彼らは喜んでそうする(金銭的援助をする)ことにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

(ローマ人への手紙 15:27)

 

パウロは、異邦人クリスチャンたちに、エルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちを支援するよう要請した。カンチガイしてほしくないのは、「霊的なものにあずかった」というのは、「聖書を教えてもらった」という意味ではない。よくこの箇所を引用し、「だから牧師を支援すべきだ」という人がいるが、それは間違いだ。この箇所は、あくまでも、イスラエル人のみ開かれていた救いが、異邦人にも開かれたのだという意味である。また、エルサレムにいるユダヤ人信者たちは、激しい迫害の中にあったことも覚えておく必要がある(→ただ、コリント人への手紙には同じ表現で働き手に対しての献金の要請が書かれている。後述)。

 

加えて、パウロは、ガラテヤの教会、コリントの教会に、献金を命じている。

さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。私がそちらに言ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。

(コリント人への手紙第一 16:1~2)

 

ガラテヤやコリントは、比較的裕福な教会であった(特にコリント)。パウロは、彼らに、「聖徒たちのため」に献金を準備しておくよう伝えたのである。私たち日本人は、世界的に見ればメチャクチャ裕福なのであるから、他の国の兄弟姉妹を支援するのは大切である。しかし、「日本の教会」という意味ではメチャクチャ貧しいのは事実で、その意味では、裕福な西欧の教会や、規模の大きい韓国の教会に支援を要請するのは、理にかなっているとは思う。

 

また、現実問題として、教会運営にお金は必要である。教会会堂の家賃や維持費、会堂建築費の返済、牧師やスタッフの給料、教会のイベント事の予算等々、「教会」の運営にはどうしても結構なお金がかかる。教会開拓にもお金は必要だ。

パウロは、そのような働きに対して、働き手が信者から収入を得るのは当然だと論じている。

モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠<くつこ>をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

(中略)

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

(コリント人への手紙第一 9:9~14)

 

パウロは、この「権利」を自分たちは用いなかった。すなわち、自分たちは教会からの献金を受けずに、「自活」していたと主張する。しかし、原則として、「福音を述べ伝える者」が「福音の働きから生活の支えを得る」のは当然の定めである。「十分の一」は義務ではないが、「牧師や教会スタッフの生活費・給料」は、何らかの形で支払えるようにするのが理想だ。そのために、信者たちの「自発的な献金」は望ましい。

その意味で、「十分の一」は、するのは簡単ではないが、できなくはないギリギリのラインの指標として、非常に有効である。手取り20万円の人が、2万円の献金をするのは、結構大変だ。決して楽ではない。しかし、できなくはない。神様は現代の私たちの生活に当てはめてもなお、ドンピシャでギリギリの指標を与えてくださっているのだ。その意味で、「自発的に収入の十分の一を献金する」のは、とても良いことだと思う。

大切なのは、「心の動機」、モチベーションだ。イエスは、こう言っている。

それから、イエスは献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:41~44)

 

やもめが入れたレプタ銅貨2枚は、ほんの少しのお金だった。日給1万円で計算すれば、たったの156円分である。しかし、彼女にとってそれは全てだった。イエスは、彼女こそが一番の献金をしたと言う。

この箇所から、「献金は額ではなく、割合が大切だ」という人もいるが、私は違うと思う。私は、大切なのは、「心の動機」、すなわちモチベーションであると思う。彼女は、なぜ「生きる手立てのすべて」を投げ入れられたのか。それは、彼女が神に信頼していたからである。彼女こそ、イエスの教えを実践した人であった。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

(マタイの福音書6:27~31)

 

私たちは、神によって養われている。仕事も、経済も、健康も、肉体も、時間も、命も、持っているものは全て神から与えられたものである。その認識に至るとき、もはや私たちは「十分の一」などという概念に縛られない。

まことの礼拝者は、自分自身を、「生きた供え物」としてささげる。「十分の一」ではない。「十分の十」捧げるのである。

 

本当に神の霊に満たされ、神に自分自身を捧げるならば、もはや「自分のもの」は何ひとつない。最後に、聖霊に満たされた人々が、どうリアクションしたか、そして、神がどのように彼らを満たされたか見てみよう。

さて、信じた大勢の人々はこころと思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。

(使徒の働き 4:32~35)

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執筆者 小林拓馬

 

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