ローマ13:8-14 『ローマ37 絶望の中でも光の中を歩む』 2018/04/01 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙13:8~14
13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。
13:9 「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。
13:10 愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。
13:11 さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。
13:12 夜は深まり、昼は近づいてきました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。
13:13 遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。

今日はイースターですが、ローマ人への手紙から引き続きお話ししていきたいと思います。
ローマ人への手紙は12章から「自分自身を神様に捧げる」というテーマになりました。
そしてその話の中でも先週からは、クリスチャンは社会的な義務や責任を果たさなければならないという話になっていましたね。

その話の流れで、パウロはこのように言っています。

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」というのは、借金をしてはいけないという意味ではなく、借金はちゃんと返済しなければならないということです。
この辺りはまぁ、常識的な話ですね。
しかしパウロは、互いに愛し合うことは別だと言っています。
私たちは、愛する事に関しては借りがあってもいい?
いえ、そうではなく、愛する事に関しては借りがあるということです。
それでは、だれに対する借りなのでしょう、それは神様、イエス様に対する借りです。
有名な、ヨハネの福音書3章16節にこのような言葉がありますね。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。

神様に背いた私たちは、罪人です。
そして、罪に対して与えられるものは死である、と聖書には書かれています。
しかしイエス様は、私たちを救うために自らの命を投げ出し、私たちの代わりに罪の代価を支払って下さいました。
借金の肩代わりをして下さったわけです。

そしてそのイエス様が私たちに求めているのは、私たちが互いに愛し合うことです。
それは、律法の中で命じられていることでもあります。
全ての律法は、「あなたの隣人をあなたと同じように愛しなさい」という言葉の中に集約されています。
こういうわけで、私たちには互いに愛し合うという義務があるのです。

さて、パウロは、このように続けています。
13:11 さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。
13:12 夜は深まり、昼は近づいてきました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。

私たちは、今がどのような時代、時なのかを知る必要があります。
今は夜が深まり、昼(つまり日に照らされる時)が近づいています。
私たちは、眠りから覚める時が近づいているのです。

今はまだ、夜の時代です。
悪や不法がはびこり暗闇のわざがなされています。
皆さんの人生には困難がありますか?
生きるのがつらい時がありますか?
辛く、苦しい時がありますか?
それは当たり前のことです。
なぜなら私たちは、夜が深まった時に生きているからです。
しかし、だからと言って私たちも同じように、夜の中に留まっていてはいけないとパウロは言っているのです。

イエス様もかつて、「目を覚ましていなさい」と言っていました。
世界は闇の中にあり、私たちも霊的に眠った状態になっているかもしれません。
でも、イエス様の再臨の時は近づいています。
それが実際にはいつなのかということは問題ではありません。
いつその時が来てもおかしくはなく、私たちは準備をしておく必要があるということです。
だから私たちは、当然のように夜の中で霊的に眠ってしまっていてはいけない。
私たちはイエス様という光とともにいるのですから、光の武具を身に着け、光の中に生きる者として歩もうということなのです。

13:13 遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。

『主イエス・キリストを着なさい』とは、当時よくあった言い回しで、この場合は私たちがまるでイエス様になったように生きなさいということです。
そうあれば素晴らしいですが、ちょっとムチャな話ですね。
そんなことが本当に可能なのでしょうか?
確かに、私たちが一生懸命にがんばることによって、イエス様のようになろうとしても、私たちが本当にイエス様のようになることは絶対に不可能です。
せいぜい、表面的に良い人間のふりをしているような、偽善者になるのが関の山でしょう。
では、なぜそんな不可能なことをパウロは私たちに言ったのでしょうか?
それは、イエス様がこのように言われたからです。

『「それは、人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)」』

今日はイースターですから、少しはイースターらしい話もしておきましょう。
イースターというのは、イエス様が私たちの罪を贖うために十字架にかかり、命を投げ捨てられた後、3日目に復活したことを祝う日です。
イエス様の復活にはどのような意味と目的があったのでしょう?
第1に、イエス様が救い主であり、神であることを人々が知るため。
第2に、“死”という罪の呪いを打ち破られたことが明らかにされるため。
そして第3に、私たちがイエス様と同じ復活の命に歩むようになることを示すためです。

ここで大切なのは第3の目的、私たちは復活の命の中で生きているということです。
その命は、聖霊によって与えられた新しいのち、霊的な命です。
私たちの肉体の復活はイエス様の再臨の時まで起こりませんが、新しい霊的な命はすでに与えられています。
聖霊なる神様、つまり神様ご自身が私たちの中に、新しい命として生きておられる。
私たちがその命に歩み始める時、私たちは変わっていくことができるのです。

イエス様と一緒にいながら何も理解していなかった弟子たちが、使徒の働きの時にはすっかり変わって福音を宣べ伝え始めました。
ただの漁師だった彼らは、イエス様のように語り、イエス様のように人々と接し、イエス様のように振る舞ったのです。
ユダヤ的な表現をするなら、彼らはまさに『主イエス・キリストを着ていた』のです。
私たちが新しい命によって歩み始めるなら、それと同じ変化が私たちにも起こります。
「イエス様を着る」とは、そういうことです。

では、どうしたらそれが可能なのでしょうか?
どうすれば、私たちは目を覚ましていられるのでしょうか?
イエス様はこの様に言っています。

マタイ 16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

復活の命に生きるためには、私たちはある意味で、まず死ななければなりません。
聖霊は私たちの中に生きていて下さっても、強制的に私たちを動かすということはしないからです。
私たちがまず、神様に主導権を渡して、導いていただかなければなりません。
私たちが自分の欲望や願望に死んで、神様の御心を求める時、神の国とその義とを第一にする時、神様の力がそこに働きます。
復活の力、新しい命が、私たちとともにあるのです。

イエス様は、ローマ帝国に捕らえられ、人々からののしられ、つばを吐きかけられ、裸にされ、十字架にかけられて殺されるという絶望的な状況を体験しました。
しかし、復活という希望はその後にあったのです。
私たちも同じです。
この世界が絶望的に見え、私たちの中に可能性が見いだせなかったとしても、そのような絶望の光の中にこそ、神様にあって希望があります。
夜の闇ではなく、真昼のような光の中を歩んでいきましょう!

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