クリスチャンになったら、お酒、アルコール飲料を飲んではいけないのでしょうか?【前編】

 

クリスチャンになったら、お酒、アルコール飲料を飲んではいけないのでしょうか?

お酒はダメよというクリスチャン

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私はクリスチャンですと言うと、よく、「お酒を飲んじゃいけないの?」と聞かれる。クリスチャン=禁酒のメージがあるのだろう。確かに、クリスチャンの中には、「飲酒は罪」と考える人もいる。教会の中や、クリスチャンの集まりではお酒の話はタブーのような雰囲気がある。「お酒を飲んでいる」と教会の中で言うのは、少しはばかられるし、ましてや、「お酒が好き」なんて言える空気ではない。私も、かつては、「大人になってもお酒は絶対飲まない」と公言していた。それは、儚い夢となったのだが・・・。

それはさておき、立ち止まって考えてみよう。なぜ、クリスチャンにとって、「お酒」はタブーなのか。その根拠はどこにあるのか。もしくはないのか。私は、「お酒を飲むことも、飲まないことも良いこと」だと考えるが、そもそも、聖書はお酒を飲むことに関して、どう教えているのか。順を追って見ていこう。

 

聖書の「お酒」エピソード

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「酒」は、意外と聖書によく出てくる単語である。「ぶどう酒」は特によく出てきており、日本語で検索(新改訳3版)したところ、少なくとも旧約・新約合計で197回も登場する。

日本語では「ぶどう酒」、「酒」となぜか分けて書いてあるが、旧約のヘブライ語では、ほとんどが「ヤイン」(ワイン・ぶどう酒)で、旧約では140回登場する。「酒・強い酒・酔う」の意味の「シャカル」は23回。新約では、ギリシャ語の「オイノス」(ワイン・ぶどう酒)が33回登場する。なるほど、「酒」の話は聖書になじみが深いものなのだ。

なじみが深い割に、飲酒の是非を書いてある箇所は意外と少ない。実は、旧約聖書には、一般人に対して「禁酒」を定める律法は存在しない。新約聖書には、「飲酒」を勧めない記述はいくつかあるが、明確に「酒を飲んではいけない」という命令はない。

聖書には飲酒を禁じる記述はない。その前提で、「お酒・ぶどう酒」のエピソードには、どんなものがあるのか。いくつか例をあげて紹介する。

 

 

ノアの場合

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聖書で一番はじめに「酒」が登場するのは、ノアのエピソードである。

 

彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。

(創世記 9:21)

これは、いわゆる「ノアの箱舟」の後の話だ。新しくなった地でノアはぶどうを育て、ワインを作っていた。ノアは、そのワインを飲んで酔っぱらい、テントの中で裸になってしまう。3人の息子のうち、2人の息子は父親ノアの裸を見ないようにして助け出し、1人の息子は見ただけで、何もしなかった。その結果、助けなかった1人はノアに呪われることになる。酔っ払ったのはノアなのに、呪われるとは、とばっちりのように感じるが・・・。とにかく聖書で初めての「酔っぱらいエピソード」は、様々な解釈はあるが、「失敗を招いたエピソード」と捉えていいだろう。

(※ちなみに映画「ノア 約束の舟」では、ノアがヤケ酒したことになっているが、それはいくらなんでも・・・という気がする)

 

 

ロトの場合

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次に挙げたいのは、ロトの娘たちの例である。とんでもねぇ話がここにある。

 

姉は妹に言った。「父は年をとっています。この地には、私たちのところに、世のしきたりにしたがって来てくれる男の人などいません。さあ、父にお酒を飲ませ、一緒に寝て、父によって子孫を残しましょう」。その夜、娘たちは父親に酒を飲ませ、姉が入って行き、一緒に寝た。ロトは、彼女が寝たのも起きたのも知らなかった。

(創世記19:31~33)

ロトの娘たちは、実のオヤジに酒を飲ませて、記憶が飛んでる間にセックスして子作りをしたのである。とんでもねぇ話だ。次の日に、姉だけでなく、妹も同じことをして、2人とも子どもを産んだ。2人の娘は、ソドムとゴモラを離れ、山の上に住んでいた。彼女らは、周りに人間がいなかったので、このままでは子孫を残せないと焦ったのだろう。でも、それは神に喜ばれる方法ではなかった。

その結果どうなったか。姉の子どもは、モアブ人の祖先となった。妹の子どもは、アンモン人(アモン人)の祖先となった。モアブ人もアンモン人も、イスラエルの敵となる人々である。アブラハムの子孫であるイスラエルは、本来ロトの親戚で、敵対する民族ではないはずだ。しかし、「正しくないヤリ方」で子孫を作ってしまった挙げ句、イスラエルを迫害する民族が生まれてしまったのである。

ロトのケースも、ノア同様、お酒を飲んだ本人の直接的な失敗ではない。ただ、「お酒」によって理性が失われ、娘たちの間違った行動を止められなかったのは事実である。ロトの事例は、「お酒による失敗エピソード」と捉えていいだろう。

 

 

祭司たちの場合

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旧約聖書には、一般人たちに酒を禁じる律法はない。しかし、祭司たちなど、特別な人々への禁酒の勧めは、記述がある。祭司を例にとって見てみよう。

 

主はアロンにこう告げられた。「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが世々守るべき永遠の掟である」

(レビ記10:8~9)

これは、祭司たちへの特別な命令の中のひとつである。祭司たちは、天幕で仕え、様々ないけにえや清めの儀式を行っていた。触れていいもの、いけないもの、香油の精密な調合の割合、服装やお風呂の入り方、等々・・・それは細かく、気の遠くなるような繊細な作業だった。ひとつでも間違えれば、即、死亡。祭司ってヤバイ職業だったのである。

実際、「異なった火」を捧げたアロンの息子、ナダブとアビフは、すぐに神の火によって焼かれて死んだ(レビ記10章参照)。彼らに悪意があったかなかったかは明確ではないが、それだけ繊細で、聖なる作業だったのである。そんな大切な仕事を、酒を飲んだ状態でできるだろうか。「あなたがたが死ぬことのないようにするため」と書いてるのは、それを考えれば納得だろう。

他にも、「ナジル人の誓い」という特別な誓願を立てた人や、レカブ人やサムソンの母のように、神に直接酒を飲まないように命じられた者はいる(民数記6章、エレミヤ35章、士師記13章など参照)。バプテスマのヨハネも、一切酒を飲まなかったとされている(ルカ1:15、7:33など参照)。

しかし、それはどれも神から何らかの目的があって、特別に命令された人への教えであって、我々個人への教えではない。従って、聖書の登場人物たちが、「酒で失敗した例」や「特別な人たちへの禁酒の命令」はあるものの、一概に「聖書は禁酒を定めている」とは言えない。

 

 

大酒飲みと言われたイエス

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では、神であり、救い主であり、永遠の大祭司であり、完璧な模範であり、罪のない、神のひとり子、イエスはどうだったのか。よく分かる記述がある。

 

バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、人の子(イエス)が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。

(ルカの福音書7:33~34)

イエスは、よく取材人や罪人と食事をともにした。その姿を、パリサイ人や律法の専門家たちは、「大食いの大酒飲み」(3版だと「食いしんぼうの大酒飲み」)となじったのである。これは、悪口だが、少なくともイエスはぶどう酒を飲んでいたと分かる。しかも、おそらく結構頻繁に飲み食いしていたと思われる。

イエスが最初に行った奇跡も、ぶどう酒にまつわる話である。「カナの婚礼」と呼ばれるエピソードだ(ヨハネの福音書2章参照)。イエスは、およそ700リットル(80~120リットル入りの瓶が6つ分)もの水を、ワインに変えた。一般的なワインボトルが750mlだから、およそ900本分以上! とんでもねぇ酒の量である。

イエスが、酒を飲み、酒を作ったのであれば、それは「罪」ではない。イエスに罪はないのだから、飲酒そのものには何ら罪はない。

さらに、イエスは、十字架で死ぬ前、過ぎ越しの食事をした後にこう言った。

 

神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実でできた物を飲むことは、もはや決してありません(マルコ14:25)

裏を返せば、それまでは飲んでいたということだ。ワインを飲む「聖餐式」の伏線となった、「過ぎ越しの食事」は、ワインを4杯(ないしは5杯)飲む。グラスの縁まで波々注ぐのが、ユダヤ人の伝統だ。イエス時代にどうだったか分からないが、おそらく飲んでいただろう。弟子たちがその後、オリーブ山で起きていられなかったのは、酔っ払っていたからだというジョークもあるくらいだ。

しかも、「神の国で新しく飲むその日まで」とある。この記述によれば、「神の国でもぶどう酒を飲む」のである。神の国で新しく、喜びのぶどう酒を、イエスと共に飲む。想像しただけで身震いするほど、待ち遠しい約束ではないか。

 

 

「禁酒」の最大の根拠<エペソ5章>

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イエスは酒を作ったし、酒を飲んだ。そして、神の国で共に飲むと宣言した。ではなぜ、あるクリスチャンたちは「お酒を飲んではいけない」と言うのか。その最大の根拠は、次の聖書の言葉だろう。

 

ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

(エペソ人への手紙5:18)

確かに、「ぶどう酒に酔ってはいけない」と書いてある。この部分の解釈が、鍵だ。新改訳聖書第3版では、この部分は「酒に酔ってはいけない」と訳してあるが、これは誤訳だ。

該当部分の「オイノス」というギリシャ語は、「ぶどう酒」を指す。英語の翻訳も「wine」。おそらく、翻訳者が無意識のうちに「禁酒」の価値観を翻訳に織り交ぜたのだろう。「酒に酔ってはいけない」と言われると、「アルコールを飲む行為」がダメだと捉えてしまう。しかし、「ぶどう酒」だと違ってくる。どういう意味か。

当時、「ぶどう酒」は必需品だった。水を浄化する技術が発達しておらず、きれいな水を見つけるのは、特に都市部では困難だったと想像できる。実際、旧約聖書にも泉の水が悪く、病気や流産が起こっていたという記述がある(列王記第二2章など)。「ぶどう酒」は、発酵飲料として、安全な飲み物だったのだ。

よく、この事実を盾に、

 

「当時はぶどう酒は普通の飲み物だったし、アルコール度数も低かった」

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「今のアルコールとは違うのだから、ワイン以外のアルコールは禁止」

 

という理論を展開する人がいるが、それはいくらなんでも無茶苦茶だ。いくら度数が低くても、アルコールはアルコールである。その理論が通じるなら、「ほろよい」や「のんある気分」はいいけど、「ウオッカ」や「テキーラ」はダメだということになる。そうなると、アルコール度数5%くらいのビールは? となり、答えのない線引論争が始まる。律法主義的な考えにどんどんハマってしまうのだ。

また、「酔ってはならない」のだから、「酔わない程度で飲めばいい」、転じて、「酔わなければOK、酔ったら罪」という考えの人もいる。これも間違った律法主義だ。そうなってくると、「どこからが酔っているのか」という線引きの問題になってしまう。

ぶっちゃけ、少しでも飲んでから運転したら、それは飲酒運転になる。それは誰もが知っている常識だ。飲んだのに「酔っていない」というのは詭弁である。だからこの議論はそもそも成り立たない。そういう細かな律法主義的論争は、既にイエスによって否定されている。

 

 

エペソ5章の解釈は?

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では、「ぶどう酒に酔ってはならない」との箇所は、どう解釈したらいいのか。エペソ5章を読む際は、ギリシャ語の命令形の種類に注目する必要がある。ギリシャ語の命令形には2種類ある。「今やれ」という単発の命令形と、「やり続けよ」という命令形だ(前者が過去形<アオリスト>、後者が現在形)。エペソ5章にある命令形は、ほぼ全て「やり続けよ」の命令形なのである。とすると、「ぶどう酒に酔ってはいけません」は、本来は「ぶどう酒に酔い続けてはいけません」になる。こうなると、解釈が変わってくる。

ここで、先に記した当時の情景を思い浮かべよう。当時は、水のようにぶどう酒を飲んでいた。中には、飲み過ぎて、朝っぱらから酔っ払っている人もいた。教会の中でも酔っ払っている人々がいたようである(コリント人への手紙11:21参照)。「酔い続けてはならない」というギリシャ語の意味や、このような状況で書かれたという背景などを鑑みれば、エペソ5章の箇所は、「酒を一滴も飲んではいけない」のではなく、「いつでもどこでも酒で酔っ払ってる状態は良くない」「お酒にコントロールされたらあきまへんで」と解釈するのが自然だろう。

エペソの箇所の根幹は、「禁酒」ではない。むしろ、その後にある。この箇所は、「ぶどう酒に酔い続ける」のではなく「御霊に満たされ続けよ」と教えているのである。そこがキーポイントであり、メインメッセージなのだ。

 

 

まとめ

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聖書には、「飲酒は罪だ」という記述はない。飲酒そのものは悪いことではない。もし、あなたがお酒が好きで、神に感謝して受け取るならば、決して罪悪感を感じる必要はない。

 

神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。(テモテへの手紙第一 4:3)

イエスがそうされたように、私は神が作ったアルコールを喜んで受け取り、楽しみたいと思う。自分の信仰によって、お酒を飲まないという決断をするのも、これまた素晴らしい。しかし、酒にコントロールされるのは、良くない。私たちは、御霊によってコントロールされる生き方を選びたい。

次回、後編は、どのようにアルコールと付き合っていくべきなのか。飲酒と御霊に満たされる生き方は両立可能なのか。そのような視点で見ていこうと思う。

 

後編はこちら

執筆者 小林 拓馬

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