「奉仕」をたくさんする人は偉いのか【後編】〜奉仕で燃え尽きないために〜

「奉仕」で燃え尽き症候群になってしまうクリスチャンが大勢います。何が問題なのでしょうか。

前半はこちら

「奉仕とは何か

 前回の記事<前編>では、奉仕とは何かまとめた。聖書において、「奉仕は、様々な場面で登場する単語である。奉仕は教会の中のピアノの奏楽や案内係、といった小さな枠には収まらない。あなたの人生そのものが「奉仕」なのだ。

 日本語の「奉仕」には「君主のそばにいて働く」という意味がある。あなたは君主たるイエスのそばにいるだろうか。また、「国のために働く」という意味もある。あなたは「神の国」のために生きているだろうか。

 「奉仕・仕える」といった日本語には「無償でする」という概念はない。報酬を目的とせず、誠実に相手に尽くすというモチベーションに力点が置かれている。

 日本のクリスチャンは、奉仕の天才だ。多くのクリスチャンが、教会で何かしらの「奉仕」をしてる。もはや奉仕のために教会に行っていると言ってもいいくらいだ。しかし、これまた多くの人が、奉仕が負担になり、次第に疲れ、燃え尽きてしまうというのも事実だ。なぜ日本のクリスチャンたちの多くが、教会の奉仕で疲労感を覚えるのだろうか。なぜ多くのクリスチャンが、「燃え尽き症候群」、いわゆる「バーンナウト」してしまうのだろうか。なぜ教会での奉仕が「仕事」になり、クリスチャンは奉仕の奴隷になってしまうのだろうか。今回はその問題点を指摘し、改善策を提案する。

あなたの居場所は「奉仕」ではない

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 奉仕をしまくるクリスチャンは、いずれエネルギーを失い、いわゆる「燃え尽き症候群・バーンナウト」に陥る。燃え尽きた結果、人と関わるのを避けるようになる。教会の集まりに来るのをヤメてしまう人も多い。あんなに奉仕に熱心だった人がなぜ・・・というケースも少なくない。なぜそのようなケースが多発してしまうのか。

 私は、その原因はモチベーションにあると考える。あなたが奉仕をするのはなぜだろうか。一生懸命奉仕をする人は、たいてい「教会に仕える」とか、「神に仕える」とか言っている。本当だろうか。あなたの脳裏に「牧師」や「伝道師」「教会のリーダー」「婦人会のおばちゃん」の顔がチラついていないか。あなたの脳裏に「人からの評価」を気にする心はないか。

 人に認められたい。誰かの力になりたい。お世話になった人に恩返しをしたい。そういったモチベーション自体は素晴らしいものだ。しかし、それは永久に続くモチベーションではない。人は絶対ではない。人間は完全ではないから、変化する。良くも悪くも。イエスではない誰かに、全幅の信頼を寄せると、いずれ裏切られる。絶望する。その人は変わっていなくても、自分が勝手に思い込んで、人間関係が壊れたりもする。逆もまた然り。やがて、自分の中のエネルギーは尽きてゆく・・・

 奉仕に夢中になる人を見ていると、どうも、奉仕の中に「自分の居場所」を見出している場合が多いような気がする。一生懸命奉仕をして、安心感を感じようとしているのだ。自分には価値があるのだと。奉仕をすればするほと、神に愛されていると錯覚してしまうのだ。または、奉仕をすればするほど、「信仰にアツい」と証明できると思っているパターンもある。

 とんでもない。あなたはそのままで、本当に本当に価値がある存在なのだ。あなたは、神が自分のひとり子を殺してまで愛した大切な存在なのだ。だから、もう奉仕を「居場所」にしなくていい。あなたの「居場所」は、イエスそのものなのだ。

わたし(イエス)はぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。私を離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

(中略)

父(神)がわたし(イエス)を愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(中略)わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

(ヨハネの福音書 15:5~9)

イエスの愛の中にとどまれば、そこが居場所になる。イエスを居場所にすれば、あなたは喜びで満ち溢れる。そうイエスは約束している。

 では、イエスを「居場所」と感じるには、どうしたらいのだろうか。聖書は、困難が起こった時に、「イエスを見よ」「イエスのことを考えよ」とアドバイスしている。

こういうわけで、このように多くの証人たち(旧約聖書でイエスについて預言した様々な人たち)が、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

(ヘブル人への手紙 12:1~3)

 この聖書の言葉には、あなたの「奉仕=人生」のモチベーションを決定づける要素が凝縮されれている。私たちは、なぜ人生という奉仕を走り続けるのか。あなたの目線の先には誰がいるのか。それはイエスだ。イエスは自分のいのちをてをかなぐり捨てて、あなたに寄り添ってくださったのだ。あなたに手を伸ばしてくださったのだ。どんなに大きな喜びだろうか。人は変わる。しかし、イエスは変わらない。いつも変わらず、ずっとあなたのそばにいる。

 走り疲れ、もう自分の力では動けない、という時、イエスが何をしてくださったか考えてみよう。きっと、あなたの心は元気を失わず、疲れない。

「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ

(中略)

若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

(イザヤ書 40:6~31)

 イエスの存在こそが、クリスチャンの奉仕の目的であり、モチベーションである。イエスの愛は無条件の愛である。どんなに清く正しく生きたかは関係ない。だって、生まれる前に十字架で死んでいるのだから。

「御恩と奉公」が奉仕の理由

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 奉仕は「無報酬」ではないと前回述べた。ではクリスチャンの「報酬」とは何だろう。実は、クリスチャンの「報酬」は、既に「前払い」で払われている。それは、イエスのいのちだ。私たちが生まれる、ずーーーーっと前から、イエスが自分のいのちを差し出してくださったのだ。イエスが何をしてくれたか。考えるだけで喜びにあふれる。これが、「奉仕=人生」のモチベーションなのだ。人ではない。唯一の救い主、イエスこそが、あなたの奉仕のモチベーションだ。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙 5:8)

 

 「御恩と奉公」という言葉を聞いたことがあるだろうか。歴史の授業で習ったと思う。「御恩と奉公」とは、鎌倉時代や室町時代の日本にあった制度で、以下のようなものである。

「御恩」将軍が、契約した武士の領地を保護したり、報酬を与える。

「奉公」武士が、契約した将軍に忠誠を誓う。戦争に出陣する。

 「御恩と奉公」は、将軍と武士との「契約」だ。武士は、将軍から「御恩」を受けるから「奉公」するのであって、その逆は成り立たない。そこがポイントだ。

 奉仕のマインドは、まさにこの「御恩と奉公」だ。クリスチャンは、イエスが十字架で罪を背負って死に、よみがえったことを信じる。クリスチャンは、神に信頼し、「契約」を結ぶ。信じれば救われるという契約だ。クリスチャンは、この恵みを受けるので、喜びを持って仕える。逆はありえない。必ず神の御恩が先に来る。 

 たくさん「奉公」したから神に認めらるとか、神に愛されるというのは間違いだ。また、「奉公していないから御恩を受けていない=奉仕していないから信仰が足りない」というのは、間違いだ。逆説は成立しない。この基本を忘れてはならない。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方(イエス)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

(エペソ人への手紙 1:4~5)

 神の救いを実際に体感した人は、人生が変わる。生き方が変わる。この、「御恩と奉公」が身にしみてくると、奉仕を仕事と思わなくなるだろう。あなたのライフスタイルそのものが、自然と奉仕になってくるのである。

教会の実態に見合わない奉仕

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 これまでは、一人ひとりのモチベーションの話をしたが、もう少し実際の組織の話をしたい。日本の教会の多くが「身に合わない奉仕」が設定されてしまっている。実態よりも過剰な奉仕があるのだ。これは問題だ。

 日本の教会は、世界的に見たら圧倒的に小さい。アメリカでは「普通の教会」といえば、だいたい100~400人くらいの教会をイメージする。1000人以上の教会だってザラだ。韓国には何万人という教会もある。しかし、日本では50人いれば、大きな教会として数えていいだろう。

 その人数で、教会の様々なアクティビティを回そうとするから、大変だ。日曜の礼拝会の司会、賛美のリード、楽器の奏楽、案内係、子どもたちの日曜学校の教師、祈り会や聖書勉強会の運営、説教、式次第(週報と呼ばれる)の印刷、チラシの作成、掃除、受付、献金の管理、などなど・・・。教会の運営というのは数々の役割がある。全員でやればいいのだが、たいてい、50人くらいのメンバーがいると、中心的になるのは多くて10人ぐらい。この10人に圧倒的な負荷がかかる。牧師がこのほとんどを1人でやっているところもある。これでは潰れてしまうのは当たり前だ。

 こうなってくると、次第に、一緒に神に感謝し、祈り、歌い、もっと神のことを知るために聖書を読み、お互いに教え合う、といったような共同体の本来の目的がどこかにいってしまう。いつの間にか、日曜の礼拝会をうまく回すことが優先となり、教会の組織、運営、形を保つことが重要になってしまう。

 そのためには、教会メンバーを「執事」なり、「奉仕者」なり「スモールグループリーダー」なりの役職に任命して、奉仕を「押し付ける」しかなくなる。空気を読む日本人。依頼された奉仕を断りきれず、喜びのないまま続けてしまう。だんだんと日曜がおっくうになってくるという負のスパイラルが始まる。いつの間にか、「私が支えなきゃダメだ」「私がやらないと誰がやるんだ」といった感情に支配されてしまう。

 こうして、奉仕が、いつの間にか神や人を愛するためではなくて、組織を維持するためになってしまうのである。イエスが「安息日」に関するやりとりで言ったことを思い出す。

そして(イエスは)言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」

(マルコの福音書 2:27)

 まさに今の日本の教会の奉仕の現状は、「人のため」ではなく、「教会のため」になってしまっているのではないか。私たちは教会という組織のために造られたのではない。私たちのために、教会という共同体があるのだ。というか、私たち一人ひとりが教会の一部分なのだが・・・。

 何のための日曜の礼拝会か。何のための奉仕か。もう一度見直すべき時が来ているのではないか。

 

 私は、日本の教会は、ほとんどがムリをしていると感じる。少ない人数で、フルバンドの賛美。相当なムリをしてやっと維持している今流行りの「祈りの家」。水曜日の祈り会。聖書勉強会。イベントの数々。教会の修養会。カフェの経営。バザー。などなど・・・教会の活動は多岐にわたる。

 本当にそれらの活動は、必要なのか。需要と供給がマッチしてるか。必要なスタッフはいるのか。経済的余裕はあるのか。器に見合わない仕事を設定していないか。ムリをしていないか。

 神が100の能力を与える人もいるが、50の人もいる。30の人もいる。大切なのは、どれだけやるかではない。これはイエスの有名なタラントのたとえ(マタイ25章など)でも明らかだ。大切なのは、もらった能力、人数、時間、経済力などに応じて、どれだけ誠実に奉仕するかだ。大切なのは結果より、モチベーションだ。

 そう考えた時に、私はどうしても日本の多くの教会が器に合わない活動を広げてしまっているように感じてならない。集った仲間通しで助け合い、もてなし合い、お互いがさらにイエスに近づいていく、お互いに愛し合い、祈り合い、助け合う、という本来の目的を見失ってしまっているように思えてならない。聖書にもこう書いてある。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。

(ペテロの手紙第一 4:8~11)

 「神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい」とある。ふさわしく、というのは、もちろん一生懸命やるという意味もあるが、同時に「過剰でない」という意味もある。過剰にやりすぎているのは、「ふさわしい」奉仕ではない。神が備えてくださる力以上のことを、自分の力でやろうとしていないか。今一度立ち止まり、「やりすぎていないか?」「本来の目的からそれていないか?」と考えてみようではないか。

あきらめる勇気

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 私は、日本人のクリスチャンに対して、「あきらめ」をオススメする。教会のサイズに見合った奉仕を設定するのが良いと思う。もう自転車操業はやめたらいい。いずれつぶれてしまう。永遠に残る教会などない。いずれなくなる。だったら、教会の体裁を保つのに、そんなに頑張らなくていいではないか。

 例えば、ピアノをひける人がいなければ、アカペラでやればいいのだ。少しピアノができる人に無理強いしてやらせる必要はない。私が10代の頃通っていた長野の田舎の教会は、日曜の礼拝会出席者が5、6人しかいない時代があった。楽器ができる人がいないので、賛美はなんと、なつかしのミニディスク=MDでやっていた。MDを流して、それに合わせて歌うのである。もう歌の繰り返しのパターンも決まっているから、だんだんと覚えてしまう。しかも、パソコンもプロジェクターもないから、歌詞はOHPでアリモノしかない。MDも4曲くらいしか入っていないものが2種類しかなかった。つまり私たちは、8曲の賛美をヘビーローテーションして賛美していたのである。毎週、毎週、同じ賛美。一体、何度「主はアルファでオメガ~」と歌ったことだろう(笑)。

 しかし、そのMD賛美には、確かに喜びがあった。5、6人が大声張り上げて、感謝と喜びをもって歌い上げていた。東京に上京したとき、フルバンドのクオリティ高い音楽を聞いても、傍観者のようにしていたクリスチャンたちを見た時は、なんだか違和感を覚えたものだった。

 週報の印刷もそうだ。そもそもアレは必要なのか? 労力の割に誰も見ていない気がするのだが・・・。目次ならホワイトボードに書いて置いておけば済む。紙もムダだし、時代遅れだ。ヤメたほうがいい。

 案内係、必要か? そもそも、一人ひとりの出席者が自発的に初めて来た人に話しかければ済む。あなたの教会ポスト、必要か? 日曜学校という形、必要か?

 教会の修養会を、びっちりスケジュールで埋める必要はあるのか? 計画だけに一生懸命になって、「開催すること」自体が目的化していないか?

 今流行りの「祈りの家」、本当に必要か? 韓国のメガチャーチの体力、人数、経済力に騙されていないか? イエスはサマリアの女に「どこでも礼拝できる」と言ったのではないか。どこでもかしこも祈れることを教えた方が、100倍いいのではないか。教会を24時間無理して開放するより、教会の仲間がいつでもどこでも祈る、祈りの戦士になった方がいいのではないか。

 別に、週報がいらないとか、案内係がいらないとか、祈りの家がいらないと言いたいのではない。そこは誤解なきようお願いしたい。それぞれ、素晴らしい働きだと思う。ただ私は、一旦立ち止まって考えてみようと言いたいのだ。何が目的で、その奉仕を設定しているのか。そして、現状は目的にマッチしているか。全ての奉仕を意図的にしてみたら、きっと今より効果的になることは間違いない。できることからはじめよう。

野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

(箴言 15:17)

イベントや教会を大きくするより、大切なことがある。

 日本の教会は、アメリカや韓国の影響を受けているところも多い(自分調べ)。彼らのアドバイスは、とても貴重だ。しかし、教会のサイズも文化もまるで違うのだから、そのまま鵜呑みにしてはいけない。特に、韓国系の教会にいた私の経験からすると、韓国の教会や宣教師は、「無理してやる」ことを勧めがちだ。彼らは、「信仰があるなら、やるでしょ?!」「仕事より家族より、まずは神様でしょ?」と言ってくる。彼ら自身のモチベーションに私は賛同こそしないが、彼らの心自体は純粋で素晴らしいと思う。しかし、それは韓国の儒教文化、加えて、何百人、何千人いるメガチャーチだから成り立つし、うまくいく。数十人、多くてもせいぜい100人程度しかいない日本の教会で同じことをやろうとすると、つぶれてしまう。声を大にして言いたいが、「神のために」といって仕事や家族や人生を放り投げるのは、「奉仕」とは言わない。「無謀」と言う。イエは「わたしのために家族を捨てる者は報いを受ける」と確かに言ったが、これは意味が少し違う。別の記事をいつか書きたいなと思っている。簡単に言えば、イエス一派と一緒にいたら親子もろとも殺されるようなヤバイ政治状況だったということ)

 日本には、日本に合った教会のあり方、奉仕のあり方があると思う。すべてをかなぐり捨てて教会のために人生を使うのもいいかもしれない。しかし、あなたの人生すべてを通して、仕事も遊びも家族団らんも、イエスといつも一緒にいるという生き方を、私はオススメしたい。いつでもどこでも、イエスを宣言するという生き方を、私はオススメしたい。

奉仕を辞める勇気

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 また、奉仕を喜びをもってやっていたが、様々な事情で続けるのが難しくなる状況にある人もいる。私のオススメとしては、ちょっとでも「負担」だと感じたら、奉仕をストップしてほしい。その勇気を持ってほしい。神に信頼する仲間を愛せなくなり、お互いを憎しみ合うようになってしまった時点で、ズレてしまっているからだ。

 日本人は、責任感が強い。今やっている奉仕を辞めるのは、無責任と考える人がいる。とんでもない。本来の目的と心がズレてしまっている状態で、奉仕を続ける方こそ無責任だ。ハッキリ言う。その状態で奉仕を続けられるのは、他の人にとって迷惑だ。

 人生いろいろ。仕事で大失敗することもあるだろう。仕事で大炎上したり、クビになってしまうかもしれない。夫婦仲がハイパー険悪になってしまうかもしれない。子供が病気になったり、グレたりするかもしれない。心身が病気になることもある。単純に他の教会スタッフの人と合わないこともある。聖書を読めなくなる時だってあるだろう。

 でも、あなたがその責任を感じる必要はない。あなたのせいじゃない。そういう困難は、神が与えるものだと聖書に書いてある。

あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

(ピリピ人への手紙 1:29)

 苦しみでさえ恵み! ワオ! 聖書は面白いことを言う。なぜ、神はこのように私たちを苦しめるのか。また後日、「苦しみと成長のらせん階段スパイラル」についても記事を書くが、今回はヘブル12章の聖書の言葉を紹介するに留める。

肉の父(実際の父親)はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父(神)は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

(ヘブル人への手紙 12:10~11)

 だから、奉仕を辞めたいと内心思っている人にオススメしたい。奉仕を辞める勇気を持とう。「私がやめたらどうなるの」と思うかもしれない。実は、意外とどうにかなるものだ。私も、「全部自分でやりたい」という性格なので、懸念はよく分かる。しかし、自分が手放した方が、実はいい結果になる場合も多いのだ。

 奉仕者を抱える教会スタッフにオススメしたい。辞めたいという声を敏感に察知してほしい。そして、快く休ませてあげてほしい。組織をまわすことより、一人の苦しみに寄り添ってほしい。苦しんでいる人に、さらに重い荷物を乗せないでほしい。イエスは、そのようにしているパリサイ派の人々を批判したのではないか。一緒に奉仕している仲間の心の状態に、お互いに敏感になれたらいいなと、私は思う。

「無償」は当たり前ではない

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 奉仕は無償のものだと思っていないだろうか。既に述べたように、「奉仕」という日本語に「無償」という意味合いはない。実は、ヘブライ語やギリシャ語でもそうだ。

 しかし、クリスチャンは「イエスのいのち」を前払いされているので、既に報酬は受け取っている。では、クリスチャンは教会のために、何でも「タダ働き」しなければならないのだろうか。

 旧約聖書で「奉仕」という言葉が使われているのは、ほとんどがレビ族や祭司が幕屋や聖所といった聖なる場所で仕事をする場面だ。レビ族や祭司は、「相続地」の割り当てがない代わりに、イスラエルの民が献上する「いけにえ」を報酬として受け取っていた。現代において、公務員が税金から給料をもらっているのと、構図は似ているので、そんなイメージでいいだろう。とすると、レビ族や祭司は給料をもらって「奉仕」していたのだ。

 新約聖書時代はどうだろうか。パウロはこんなことを言っている。

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる者を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

(コリント人への手紙第一 7~14)

 パウロは、レビ族や祭司が報酬をもらっていることを引き合いに出し、福音の働きをする人も、生活のための収入をもらうのは当然だと語った実は私は以前、これは、「牧師」や「宣教師」などの、いわゆる「フルタイム奉仕者」の人が給与をもらうべきだと解釈していた。しかし、他の奉仕をする人だって、福音のための働きをしているわけなのだから、「生活の支え」を得ていいのではないか。

 クリスチャンは、何にも代えがたいイエスのいのちをもらっている。だから、それに感謝して奉仕する。それは大大大原則だ。しかし、なぜ牧師や宣教師は「有料」でやっていることを、他の信者は「タダ働き」が当たり前になっているのか。ちょっとおかしくないだろうか。

 私は、大胆な提案をしたい。教会は、できたら「奉仕者」に報酬を出したらどうか。バイト代程度でいい。もちろん、これは実務的に教会の規模や経済力にもよるだろう。難しいのは分かっている。牧師の給与ですら雀の涙程度しか出せないのが日本の教会の現状だ。私が言いたいのは、「無料奉仕は当たり前ではない」というマインドを持ってほしいということだ。

 最低でも、教会に賛美アーティストやメッセンジャー、パフォーマーなどを呼ぶときは、報酬ありきで考えよう。働きをしている人に、報酬を払うのは当然ではないか。これは、聖書だけではなく、一般社会の常識でもある。 

支え合うコミュニティ

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 教会は、お互いに、お互いを大切にし合うコミュニティだ。その中心はイエスだ。互いにイエスの方を向き、神に近づくのが目的だ。そうやって、その共同体が神の取り仕切りの中で、ひとつに繋がっていく。それが神にある共同体だ。

キリストによって、(キリストの)からだ全体(=教会)は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

(エペソ人への手紙 4:16)

 まず、教会の一人ひとりが、組織や人からの評価ではなく、イエスに向かっているか。「行い」ではなく、「恵み」が原動力となっているか、チェックしよう。教会がうまく回ること、礼拝会が滞りなく進むこと、イベントが成功することより、それを通して一人の人がイエスにより近づけるか、考えよう。

 もし、完全なイベントをしても、そこで語られたメッセージや気持ちの盛り上がりは、やがて忘れてしまう。しかし、段取りがダメダメなイベントでも、一人の人が、誰かとの個人的な会話で、「はっ」と気付いたことは、人生の糧となる。だったら、そっちの方が魅力的じゃないか。

 その意味で、「奉仕」を存分に利用しようではないか。「ギター上手いね! 今度一緒にやってみない?」「スモールグループ、リードしてみない? 楽しいよ!」「イベントの準備、一緒にやってみない?」と、誘ってみよう。そうやって誘うのと、「メンバーなんだから奉仕してよね」「そろそろ受けるより流す側にならないとね」というのでは、だいぶニュアンスが違ってくる。どうせなら、楽しく、トムソーヤ少年が楽しそうにペンキを塗ったように、奉仕に誘ってみようではないか。「それぞれの分に応じた働き」を通して、愛の中に建てられていこうではないか。

マルタとマリアの話

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 奉仕をたくさんする人が偉いわけではない。最後に、有名な、マルタとマリアの話を紹介する。

さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせていてるのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」主(イエス)は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」

(ルカの福音書 10:38~42)

 このエピソードでは、姉妹とされているマルタとマリアが対比されている(どちらが姉か妹かはハッキリしない)。イエスのためを思って、あくせく給仕する、文字通り「奉仕した」マルタ。一方、イエスの足もとに座って、ただ話を聞いていたマリア。対照的である。「何よあいつ、私ばっかりに仕事させて。何もしてないじゃない」。マルタは、何も手伝わないマリアに腹がたったのだろう。イエスに訴える。「イエスさま、コイツになんとか言ってくださいよ!」と。しかし、イエスは「マリアが良い方を選んだ」と言う。マルタ、赤っ恥。

 しかし、私は、どうしてもマルタが嫌いになれない。だって、あのイエスさまが来たんだから、精一杯のもてなしをしなきゃと思うのは当然ではないか。美味しいものを作らなきゃ。あっ、お茶は出したかしら。部屋は片付いているかしら。村のみんなを呼んできた方がいいかしら。飾り付けは・・・など、考えることでいっぱいだっただろう。「心が乱れている」のは当然だ。一般常識では、一生懸命働いているマルタの方が、ただイエスの話を聞いていたマリアより偉いに決まっている。

 しかし、イエスは逆だという。イエスは、「聞き入る」のが大切だと言ったのだ

 多くの日本人は、マルタ・タイプ。教会のほとんどの人は、マルタ・タイプ。一生懸命、神のために、イエスのために、そして教会のために働いている。その働き自体は素晴らしい。しかし、そうやって「心が乱れて」くると、「私はこんなにやっているのに、あの人はやっていない」「私はこんなに尽くしているのに、あの人はチャランポランだ」という思いに支配される。イエスは、マルタのそのような心の中の思いを指摘したのではないか。

 あなたは、マルタのような心になっていないか。「あの人は何もしていない」「あの人は全然礼拝会に顔を出さない」「あの人は金持ちなのに献金してない」とか思い始めたら黄信号。目線がイエスからずれてしまっているかもしれない。

 「聞く」というヘブライ語の単語は「シェマ」。単純に「聞こえる」だけでなく、「聞いて、従う」という意味がある。旧約の一番大切な教え「心を尽くし神を愛せよ」の一番最初は、「聞け、イスラエル」である。

 イエスは、「聞き入る」のが大切だと言う。イエスは何と言ったか。「互いに愛し合いなさい」ではないか。わたしたちは、教会をまわすことより、奉仕をたくさんすることより、互いに愛し合うことを、第一にしようではないか。

主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

(サムエル記第一 15:22)

 

 奉仕をたくさんする人が偉いのではない。イエスはこう言っている。

まことに、あなたがたにいいます。(生き方の)向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

(マタイの福音書 18:3~4)

ライター 小林拓馬

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