ローマ15:13 『⑤魅力的な人には希望がある』 2018/08/19 松田健太郎牧師

ローマ 15:13 どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

今日、ここでメッセージをすることができることに、大きな幸せを感じています。
3週間ぶりにアメリカから帰ってきたのですが、今回は祝福もいっぱいだったとともに、大変な旅でもあったからです。
お祈りいただいていたので、教会にいる多くのみなさんにはご存知だと思いますが、僕はロサンゼルスでパスポートをなくしてしまったんです。
ロサンゼルスで4日ほど過ごしたあと、デンバーへの飛行機にのるために準備をしていたら、あるべき場所にパスポートがない。
慌てて探し回り、心当たりのあるところを探しましたが、出てきませんでした。
未だに、いつ、どこで、どうやってなくしてしまったのかはまったくわかりません。

パスポートをなくしたときに、僕を励ましてくれたのは、現地でお世話になっていた、友人のI先生でした。
失くしたのは、パスポートという大切なものですから、僕もかなり慌てていました。
あると思っていたものが、まったくの思い込みだったことに気づいたショックも大きく、僕は少し落ち込んでいました。
そんな時にI先生は、「けんたろさん、大丈夫だよ。絶対に見つかるから!」と言って、希望を与えてくれたのです。

結論を言えば、結局パスポートは見つからなかったのですが、その時にI先生がかけてくれたことばが大きな支えとなって、僕は落ち着いて行動することができました。
状況自体が深刻であることに変わりはありませんでしたが、不思議なことに僕の中にも希望が湧いてきました。
今回の出来事を通して学んだ一つのこと、それは「希望は、伝染する」ということです。

その人に近くにいると、またその人と話をしていると、その影響を受けて自分も希望にあふれてきます。
そして希望を持つことによって、不安は小さくなり、心はより平安な状態となり、ポジティブに考えることができるようになります。
そこにあった絶望の雲が、その人の存在やことばによって、消えていくのです。

だから、希望を持っている人は、とても魅力的です。
誰も、好きで心配していたり、ネガティブになっているわけではないのですから。
私たちが、人に希望を与えられる存在になることができたら、素敵だと思いませんか?
誰かが落ち込んでいるとき、誰かがつらい気持ちでいるとき、僕たちがその人たちに寄り添い、そこにいて、声をかけることで、その人たちを助けることができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。
だからパウロは、手紙の中でこのように書いているのです。

ローマ 15:13 どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

さて、そもそも希望とはいったい何でしょう?
辞書によると、「自分にとって良い状況を望むことができること」と書かれています。
だから普通は、よい状況のときに「希望がある」と感じます。
「あぁ、今は何も問題ないし、これからの展望も見える。私の人生には希望がある。」
これが普通の希望ですね。
当たり前と言えば、まったく当たり前のことです。
では、I先生はそのようにして希望を手にしたのでしょうか?
そして、それが僕の心に影響を与え、力となったのでしょうか?
彼の持っている希望がどこから来るのか気になって、移動の車の中でいろいろ話を聞いてみました。

その話の一つは、彼がどのようにしてクリスチャンになったのかという証でした。
彼はもともとベーシストとしてアメリカに渡ったのだそうです。
ほとんどの人たちが経験するように、最初の数年は散々なものでした。
しかし、やがて彼はあるジャズバンドに見出され、ベーシストとして契約を結びます。
その頃ニューヨークにいた彼は、ワールドトレーディングセンターの屋上に上り、自分がミュージシャンとして成功に向かいつつあることを噛み締めたのだそうです。

しかし、やがて彼はそのグループから出ることになります。
そんな時、あの9月11日の同時多発テロが起こったのです。
彼にとっては成功の印だったワールドトレーディングセンターが崩れるのを見たとき、彼の中の何かも崩れ落ちてしまいました。
それを見た彼は鬱になり、麻薬付けになり、ボロボロになってしまいました。
そのどん底の中で見出したのが、彼が親戚からずっと話を聞いていた福音であり、イエス・キリストだったのです。

クリスチャンになった彼は、救いを確かなものとして受け止め、やがて牧師になります。
そうして彼は、自分が救われるきっかけとなったロサンゼルスにある日本人教会で牧師になりました。
ところが、話はそこで終わりません。
彼はその教会の中にある複雑な人間関係や、教会政治に疲れ果て、燃え尽き症候群になってしまったのです。
その後彼は牧師を辞め、その教会からも距離を置くようになり、普通の仕事をしながら生活するようになります。
「自分が牧師に召されていると思っていたのは間違いだったんだ、思い込みだったんだ」と思って暮らしていたある時、牧師がいなくなってしまった別の日本人教会から、彼に声がかかります。
仕事が少なくて生活に困窮していた彼は、牧師は自分には向いていないと思いながらも、生活のためにその教会を助け、たまにメッセージをしに行くようになりました。
その経験の中で、神さまはもう一度彼を立ち上がらせ、彼は少しずつ回復していきながら、今ではその教会でフルタイムの牧師をしているのです。

彼が体験したことは、望みのある状況なんかではありませんでした。
挫折の繰り返し、苦難の繰り返しです。
イエスさまに出会ってからも、挫折体験はなくなったわけではありません。
彼は何度もの挫折体験を繰り返しながら、その中にでも希望を見出したというのです。

それは辞書が教えてくれる希望とはまったく違うものでした。
でも、それは僕にはとても説得力のある話でした。
考えてみれば、調子が良いから「希望がある」と言われても、僕たちの心は大して動いたりしません。
そして彼が持っている希望は、彼がクリスチャンだからこそ、手にすることができた希望なのだと思ったのです。

その時僕は、パウロのこんな言葉を思い出しました。

ローマ 5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

彼が手にしていた希望は、まさに苦難を通して手に入れたものでした。
彼は何度もつまずき、転び、痛い思いをし、しかしそのたびにそこにイエスさまを見出しました。
そんな中でも神さまがともにいて、彼に力を与え、立ち上がらせてくださるのを体験したのです。
だから彼は、どん底の状態の中でも、希望を見出すことができるようになりました。
その希望は決して失望に終わることがないことを、彼は体験を通して知っているのです。

僕たちが聖書の中で私たちが見るのは、まさしくこのような話ではないでしょうか?
聖書の中に描かれている希望は、25年間待ち望んだこどもをいけにえとしてささげるようにと命じられたときに見出される希望です。
燃え盛る炉の中や、おなかを空かせたライオンの巣の中で見出すことができる希望です。
愛する師を殺され、今自分たちも同じように十字架にかけられようとしているさなかに、見出すことができる希望です。
それは、辞書に載せることができるような、常識的な希望ではありません。
普通の人にとってはありえない、とても考えることのできないような状況で見出される希望です。
だからこそ、そこには大きな魅力があり、その希望に触れた人たちが「自分も手にしたい」と思う希望なのです。

ペテロはこのように言っています。

Ⅰペテロ 1:21 あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

皆さんは、そのような希望を手にしているでしょうか?
僕たちが、失望に終わらない希望を手にするためには、条件があります。
それは、イエスさまを見出し、深い関係の中で、主に信頼するということです。
そのためには、たくさんの失望や絶望、苦しみや痛みも経験しなければならないかもしれません。
でも、そんな時にも神さまはともにいてくださり、僕たちを離れることはなく、僕たちを必ず引き上げ、立て上げなおしてくださるのです。

そして僕たちがそんな希望を手にしたとき、それは僕たちの周りの人たちを励まし、立ち上がらせる力を与え、神さまと出会わせるのです。
みなさんが、そんな希望を手にすることができますように。

お祈りしましょう。

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