ローマ9:2 『魅力的な人は痛みを知っている』 2018/9/16 松田健太郎牧師

ローマ 9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

この世界に悲しみや痛みがあります。
それは、私たち人間が神さまから離れて罪人となってしまった結果です。
この世界は呪われ、地にいばらがはびこり、病気や災害がある場所となってしまった。
この世界にある痛みは、私たちが罪人であることの証なのです。

でも、私たちクリスチャンはそんな状態から悔い改め、神さまに立ち返ったはずですよね?
それなのに神さまはどうして、私たちが大きな悲しみを体験し、痛みを受けることを許されるのでしょうか?
悲しみや痛みが罪の結果なのだとしたら、私たちがそんな罪の呪いから解放されてしかるべきなのではないでしょうか?

私たちは今、クリスチャンが魅力的な人になっていくということについてのシリーズでメッセージをしています。
クリスチャンになることによって痛みや悲しみから解放されたら、それはどれほど魅力的な人生だろうと思いませんか?

神さまはこの世界を創造した全知全能の存在であり、私たちを愛しています。
神さまは、私たちが悲しまなくて済むように問題を取り除くこともできるはずだし、私たちが痛い思いをするのを喜んで見ているわけでもないはずでしょう。
力が足りないわけでもなければ、どうでもいいと思っているわけでもない。
それなのに、どうして私たちはこんなに悲しみ、痛まなければならないのでしょうか?

① 高ぶらないため
使徒パウロも、クリスチャンとして大きな働きをしながらも、ひとつの痛みを持っていました。
それがどのような痛みだったのかはわかりません。
目の病を持っていたのではないかとか、別の病気だったのではないかとか、あるいは性格的な問題だったとかいろいろな説がありますが、パウロはこのことについてはっきりと書いていないのです。

いずれにしても、パウロはその問題に向き合いながら、それが癒され、取り除かれるように神さまに祈っていました。
しかし、神さまはその問題を取り除かなかったのです。
なぜでしょうか?
パウロはその理由について、このように書いています。

2コリント 12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

このことばからまず気づかされるのは、痛みを与えているのは神さまではなく、サタンの使いだということです。
しかし神さまは、サタンがパウロにこのようなとげを肉体に与えることを許されたことは確かです。
神さまはなぜ、パウロを守らなかったのでしょう?
それは、パウロが高ぶらないためだったというのです。

何の問題もなく、自由に働きをすることができたら、もっと多くの働きをすることができるのではないかと私たちは思います。
しかし、肉体にとげが与えられて、制限が与えられることによって、パウロは自分の限界を知り、神さまにより頼むことができました。

私たちもまた、痛みを体験するとき、自分は神さまではなく、創られたものに過ぎないのだということを実感することができます。
そして、神さまに祈り、信仰をもってより頼むことを通して、神さまの栄光が表されることを体験することができるのです。

② 共感するため
神さまが、私たちから痛みや悲しみを取り除かないもう一つの理由は、私たちが痛みを体験するとき、同じ痛みを感じている人のことを理解することができるようになるからです。
そのような共感を通して、私たちは人を慰め、励ますことができます。

健康で元気な人が、病気で苦しんでいる人を慰め、励まそうとしても、その人の中には「どうせこの人はわかってくれない」という思いが残ります。
同じ病気で悩んでいる人からの励ましが、もっとも効果的なのです。
だから、病気と闘っている人たちの自助グループというものが、いろいろなところで作られます。
専門家でない人たち同士が集まってどうするのかと言えば、その病気と向き合う当事者同士だからこそわかり合うことができ、助け合うことができる部分もあるということなのです。

ペテロは、大好きなイエスさまを3回も否定するという大きな傷を抱えました。
イエスさまは、ペテロがその体験をするよりも前に、このように言って彼を慰めました。

ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

大切なのは、「立ち直ったら、他の人たちを力づける」ということです。
私たちに痛みがあるから、傷があり、悲しみがあるから、同じような痛みを持った人たちを力づけることができるのです。

③ 神さまご自身が痛みを体験された
高ぶらず、へりくだり、共感してくれる。
そういう人はとても魅力的です。
高飛車で、人の気持ちを理解しようともしない人ってイヤでしょ?(笑)
このような魅力的な性質は、実は痛みによって私たちにもたらされるものです。

私たちは、こんな性質を持った人を身近に知っているのではないでしょうか?
それは、イエスさまです。
神さまが、へりくだって共感するというのは、考えてみると不思議な感じがするかもしれません。
ましてやそれが、痛みや悲しみという、弱さを思わされるものと繋がっているのだとしたら、創造主であり、どんなことでもできる力強い神さまというイメージからは、かけ離れているのではないでしょうか。

旧約聖書の中に、たくさんの痛みと悲しを経験したヨブという人の話が出てきます。
その中で彼は、「神さまは絶対的に正しい方だから、どうせ私のことなんて理解してくれない」と言って嘆きました。
しかしそんな神さまが、私たちのために弱さを負ってくださった。
王の王である神さまが、私たちのためにへりくだり、私たち人類と同じ目線に立つために、この地上に人として来てくださったのです。

イエスさまはナザレの大工の子として地上で生まれ、人生の大半を普通の人として生活しました。
生きることの辛さ、仕事をすることの大変さ、痛み、苦しみ、悲しみを体験したのです。
そしてイエスさまは、さげすまれ、あなどられ、傷つけられ、裏切られ、辱められるという経験もしました。
そのすべてを、私たちのために経験してくださったのです。
パウロはそのことを、手紙の中でこのように記しています。
ピリピ 2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

神さまが命をかけて私たちを救って下さったのだということに気づいて、受け止める時、私たちの中には神さまの愛があふれてきます。
だから私たちも、神さまを愛し、関係を深め、従いたいと思うわけです。

イエスさまと違い私たちは、自ら痛みや悲しみを担おうとしているわけではありません。
いやおうなく起こる痛みや悲しみに引き込まれてしまうということがほとんでしょう。
そんな中で私たちが経験する痛みは、単に傷として私たちの心に残り、私たちをひねくれさせてしまうこともできます。
また、痛みそのものを避けて生きることも、ある程度は可能でしょう。
しかし、それではあまりにももったいないことだと僕は思います。

しかしそれでも、私たちは痛みの体験を通して謙遜になれるし、他の人の痛みを共感することができるようにもなります。

そのために必要なのは、痛みの中でも神さまに信頼し、神さまとともにそれを乗り越えることです。
痛みを、単なる傷ではなく、神さまが与えて下さった機会として受け取るとき、私たちはその痛みを通して変わり、成長させていただくことができるのです。

痛みが皆さんにとって力となり、魅力の源となりますように

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