ノートルダムの鐘レビュー| 誰が怪物で誰が人間か

映画や舞台芸術が大好きなのんのんが、「キリスト教的視点や文化の理解が少しだけ深まると、映画や舞台がもっと楽しくなるかも…」という観点で掘り下げて解説を足しながら、レビューを書いていくシリーズ。前回「レ・ミゼラブル」に引き続いて、第2弾は「ノートルダムの鐘」を取り上げる。

ノートルダムの鐘とは

画像引用:ディズニーノートルダムの鐘
ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ34作品目、1996年公開(米国)の映画。原題は 『The Hunchback of Notre Dame 』だが、Hunchback が「せむし」という意味で日本の放送コードに触れるため、日本では表記が『THE BELLS OF NOTRE DAME』と変わり、日本タイトルは「ノートルダムの鐘」となっている。原作はヴィクトル・ユゴー。アカデミー賞作品賞にノミネートされた「美女と野獣」とほぼ同じスタッフが製作した。

映画は原作とは少し異なり、ノートルダム聖堂の鐘楼から出られない醜い容姿の男がジプシーの美女エスメラルダに恋をし、育ての親の判事フロローと対立して紆余曲折しながらノートルダム聖堂から出て行く成長物語となっている。

製作にあたって

「リメンバー・ミー」では物語の舞台であるメキシコにスタッフがホームステイをし、「ライオンキング」ではスタッフがアフリカに行きスケッチを行い、「リトルマーメイド」では実際に女優を水槽で泳がせて髪や身体の動きを参考にした。

「ノートルダムの鐘」では、フランス革命よりずっと前の時代のパリの街の資料集めに始まり、アニメーターが現地に赴きノートルダム聖堂のスケッチをして臨んだ。外観だけでなく、薔薇窓に始まるステンドグラスまで美しく忠実に再現された。また、教会の重厚感のある音づくりのために、イギリスで100年もののパイプオルガンを使用してオーケストラとコーラスの演奏を収録するという徹底ぶりだった。一定して見て美しく、聞いて迫力がある映画となっている。

時代背景とジプシー

この作品の理解を深めるために、押さえておきたいのがまず時代背景とジプシーの事である。時代設定は、宗教改革よりも、マリー・アントワネットのフランス革命よりも前の時代の15世紀後半のフランス パリだ。ジャンヌ・ダルク前後あたりと推測されている。(ちなみに、同じユゴー作品である「レ・ミゼラブル」はフランス革命の後、18世紀終わりから19世紀の話である。ナポレオンがイタリア遠征の1796年にジャン・バルジャンがパンを盗み、ナポレオンが失脚する年にバルジャンは仮釈放されているという作者の妙が光る。)

「ノートルダムの鐘」の時代背景の詳しくは、こちらのブログを参考にしたい。

ジプシー

現代での名称、ロム(ロマ、ロマニー)は自称で、「人間」という意味ではあるが、主にロマ二系の人々に対して使うようである。ここでは、映画の中でジプシーと使っているので、ジプシーのまま使うこととする。一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す民族名だ。

ジプシーの起源はインド・パキスタンのパンジャブおよびラジャスタン地方のヒンズー族で11世紀頃からヨーロッパに存在の記述がある、というのが定説だ。

大きな流れはインド北部からペルシャ、トルコを通って東ヨーロッパに到着し、そこから北方へあるいは西方へと流れが支流に分かれたようだ。そしてガリア(フランス)を通過してピレネーを越えてイベリア半島へ。

もう一つのグループは中東からエジプト、北アフリカを通ってイベリア半島へと移動し、ヨーロッパに入ったジプシーたちは、エジプトからきた「エジプシャン」がなまってジプシーと呼ばれるようになった。

ジプシーの差別はどうして?

ペストがヨーロッパで蔓延したのは14世紀の事である。抗生物質などなかった時代には、数々の伝染病により死者が後を絶たなかった。そんな中、流浪のジプシーが伝染病をもたらすと考えられていた。

また、彼らは定職・定住を好まないことや、占いや音楽を生業としていたことから、キリスト教文化とかけ離れていた生活をしていた(税収の面でも政府の頭を悩ませていたと考えられる)。

さらに、ジプシーの起源がヒンズー族である事から、キリスト教との宗教観の違いが安易に想像できる。キリスト教の聖書には、占いの否定と、唯一神以外の崇拝を禁止する記述があるのだ。異教徒と税収、また浅黒い肌を特徴としたエキゾチックな顔立ち。このことからヨーロッパでは差別の対象になっていたと言われている(ナチス時代にも大虐殺の歴史がある。また現代もロマによるスリの横暴等からの差別はあり、問題解決には至っていない)。

この時代の音楽と賛美歌

カルツォーネに代表され、フラメンコの元になったジプシー音楽だが、ノートルダムの鐘の時代背景は15世紀後半ということをここでもう一度考えたいと思う。

15世紀は、宗教改革や音楽の父バッハよりもずっと前の時代だ。それまで音楽というものは宮廷音楽だった。また教会での聖歌は教会専属の音楽家と聖歌隊によって歌われ、会衆は黙って聞くというスタイルをとっていた。

宗教改革でルターが行ったことは、ドイツ語で説教をとりつぐこととやドイツ語で賛美歌を作り、誰でも賛美歌を歌えるようにしたことだ。信仰の思いを歌う賛美歌は説教を補うことになり、プロテスタント教会全体に共通する礼拝の特徴となった。(マルティン・ルター 1483〜1546)

ルターは自ら多くの作曲をし、同僚にも作曲を呼びかけた。そのことで、膨大な数の賛美歌が生まれ、民衆が歌う賛美歌は「コラール」と呼ばれるようになった。

ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)もルター派の流れをくむ音楽家だ。ルターの死後約140年たってから生まれたバッハは、コラールを素材とした声楽曲やヨハネの受難曲もたくさん書いている。

ジプシー音楽とは

ジプシー音楽は、テンポの激しい変化、旋律の装飾、細かいリズムなどを特徴とする特有の音楽だ。ジプシー達は音楽技術に秀でていたのだ。しかし、どうやら楽譜や形式があった訳ではないようだ。

後にジプシー音楽はフラメンコに代表されるように各ヨーロッパの地域の民族音楽に影響を与えたり、「ハンガリー舞曲」に代表される、後のクラシック音楽に影響を与えたりしていくことになる。また、ヴァイオリンの名器ストラディバリウスは、ストラディバリが娘をジプシーの男に嫁に出すかわりにヴァイオリンの技術を教えてもらったからできた名器という逸話も残っている。ジプシー音楽のレベルの高さが伺える。

ロマ集落で育った現代の音楽家で映画監督のトニー・ガトリフは、「ジプシー文化の魅力をひとことで言えば、自由ということだ。ジプシーは生き方も自由だし音楽も自由だ。楽譜もリハーサルもないから、好きなように演奏できる。間違った音も出したいように出せるし即興もできる。ジプシー音楽は、リズムも音階も多くのものを抱合しており、そこに豊かさがある。ジプシー文化とは、つまり世界文化なんだ」と言い残している。

簡単に歌ったり踊ったりできないカトリック文化と、自由に歌い踊り、占いとスリで生計を立てていたジプシー達。この背景が分かれば、「ノートルダムの鐘」の登場人物達の立ち位置も浮き彫りになってくる。

誰が怪物で誰が人間か

オープニングは、ジプシーのリーダーであるクロパンがパリの街角で人形劇をしながら歌い始める。「ノートルダムの鐘つき男がどうしてそうなったのか……」というバックグラウンド・ストーリーをフランスの民族音楽風に三拍子の曲で歌い上げる。その歌の中で「Who is the monster and who is the man」という歌詞が出てくる。「誰が怪物で、誰が人間か」という意味だ。

その意味は、怪物と言われフロローに「半人間」と言う意味を名付けられたカジモドのことなのかそれとも……。物語の最初に問題提起がされたのだ。浅利慶太氏の訳では「はたして彼は怪物か、人間か」という歌詞になったのが少し残念だ。

ラストについて

この物語で気になるのは、「カジモドはこの後本当に幸せになれるのか」というところであろう。身体を張って恋した女性とは結ばれず、彼女は他の男性を選ぶ。初めて教会の外に出た日には、道化の王に選ばれた後に激しい市民からのいじめにあった。彼はエスメラルダの歌声に聞き寄せられて礼拝堂に降りていただけなのに、教会の中でも市民に「帰れ!」と罵られている。

女性1人を探すために街に火を放ったフロローの独裁から市民を守ったヒーローとはなったものの、外に出て最初に彼を待っていたのは市民の好奇な目であった。彼は幼い女子に顔を触れられ、エスメラルダ達に見守られながら市民の輪に入っていく。しかし視聴者はパリ市民に受け入れられた安堵の気持ちと、半分は何とも不安な気持ちが残ってしまう。ディズニーには珍しい、ハッピーエンドなのか!? という終わり方だった。

私は、この映画の最初の問題提起は、主要登場人物以外に市民にも向けられているような気がしてならない。私たちの中にも差別や偏見意識という怪物が潜んでいると暗に指摘しているのではないだろうか。フロローが「教会の外では生きていけない」とカジモドに言っていたのは、間違ってはいないと思う。フロローだけが悪役というわけではないのではないか。誰が怪物で、誰が人間なのだろうか。

聖域

盗みや判事=司法・政府への反抗として追われるエスメラルダだが、ノートルダム聖堂の中では「聖域」であるため、捕まらずにいられた。しかし、映画では一歩でも出たら捕まるという状況に陥る。聖域について少し掘り下げておこう。

アジール権とは

中世のヨーロッパには、アジール(Asyl)と呼ばれる制度があった。日本で言うなら駆け込み寺だ。そこに逃げ込んだ者は保護され、世俗的な権力も侵すことができない聖なる地域(避難所)とされていた。国家等の政的支配がまだ民衆の生活に普及していない時代には、教会が宗教的権威により、民衆の生活を保護する役目を担っていた。15世紀のフランスでは、一部の大きな教会がこの役割をした。 ノートルダム聖堂もこの役割を担っていたのだ。

つまり、この時代は「教会>司法・国家権力」だったのである。フロローは判事で、街全体の警備や市政を取り仕切っていたが、司法よりさらに上の段階でキリスト教主義やしきたりが街や人々を統治していたのである。

教会に背いたら、現世も死んでからも生きてはいけない支配下に人々は生きていた。(クリスチャンの死後は天国が聖書では約束されている)

後に、国家権力が強まるにつれてアジールの役割が薄れ、権力への反逆者をかくまう力はなくなっていく。現代では「聖域」というと、犯してはならない場所、神聖な場所、聖人、神の領域という意味になっている。どちらかというと、清らか、というイメージが強い。

映画ではエスメラルダを守るために「聖域」という言葉が使われていたが、カジモドもある意味で聖域によって守られていたとも言える。補足ではあるが、カジモドはあんな偏屈で頭の固いおっかない判事に育てられたのに、すごく心の綺麗な男であった。これは、元からの人格というだけでなく、全てを知っている司祭が愛を持って彼に接してきたからこそではないかと思う(もちろん、ガーゴイルという素敵な友人達もいたが)。

クリスチャンではない人でも、キリストのような心の暖かい司祭や牧師、シスターに出会ったことがある人が多いのではないかと思う。マザーテレサは正にそれだ。聖書では神は愛だと書いてある。そうだとすれば、聖域や神の領域とは「愛の領域」と言っても過言ではないように思う。

名曲の数々から

この映画には、重厚なハーモニーかつ、美しいメロディーラインの曲がたくさん出てくる。作曲は「美女と野獣」や「アラジン」でおなじみのアラン・メンケンだ。作詞は、後に大ヒットミュージカル「ウィキッド」を着想し、作詞作曲したスティーヴン・シュワルツ。ディズニーでは「ポカホンタス」の音楽的成功のコンビであった。

God Help The Outcasts

たくさんの名曲揃いではあるが、私のお気に入りは劇中エスメラルダが歌う「God Help The Outcasts」である。途中、会衆の歌が入る。この記事を読んだ方なら正しい時代背景から少しアレンジされているのはお分かりと思うが、現代の教会の礼拝で歌っていいくらいの名曲である。

歌いながらキャンドルや人々と交差し、薔薇窓の光に対面するエスメラルダの美しさったら! 巻き戻して何回も見て涙してしまう名シーンだ。教会に逃げ込む形になったエスメラルダが「虐げられた人もあなた、神の子ですよね? 私より彼らを助けてください」と歌う。その願いに対して教会に来て祈る会衆の祈りは、「私に富を、名声を」と望む。差別的部類に入るエスメラルダの心の清らかさが浮き彫りにされている。

私はクロスロード・インターナショナル教会の祈りの時間にこのメロディを奏楽したことが何回かある。そのくらいお気に入りで、かつ、祈りの名曲だと思う。まさに現代のコラールだ。

日本語版は、劇団四季キャストが担当

日本語版は歌も台詞も、劇団四季のキャストが担当し、日本語訳は浅利慶太氏が担当している。日本語版も高い歌唱力と演技力で定評ある作品に仕上がっている。

このバックグラウンドには、ディズニー初のミュージカル「美女と野獣」の日本上演を劇団四季が担当したというのが大きいと推測している。映画「ノートルダムの鐘」日本公開は1996年で、劇団四季の「美女と野獣」のミュージカル初演は1995年であった。

カジモドの声は「美女と野獣」のビーストのメインキャストの石丸幹二で、その他キャストも、「美女と野獣」の初演時にメインキャストを務めたキャストが何人か顔を揃えている。もちろん劇団四季内でディズニー側がオーディションを行なっていたようだ。

英語版キャストは、カジモド役に映画「アマデウス」での名演からキャスティングされたトム・ハルス。エスメラルダにデミ・ムーア(歌はハイジ・モーレンハウアー)となった。基本的にディズニーアニメは、声の出演者が演じてからその声に合わせてアニメーションを作っているので、英語版がディズニーの一番の意図したいものだと受け取っている。

ミュージカル版は「私の推しミュージカル」

日本の劇団四季ミュージカル「ノートルダムの鐘」も観に行った。ディズニー制作のミュージカルではあるが、導入からラストまで、ヴィクトル・ユゴーの原作に近いものになっていた。映画版の2/3くらいを前半でやってしまったので「どうなるの!?」と思っていたらショッキングなラストになっていた。

ミュージカル版の曲も追加されているが、映画と楽曲が使われるシーンが違ったりしているのが面白い。ミュージカル版では、フロローがとても重要なポジションにいる。プロローグはフロローの幼年期から始まり、彼のバックグラウンドが紐解かれているのだ。そして、ほぼ舞台に出ずっぱりだった。フロローが繊細に心を痛めたり、何が正義なのか悩んだりする葛藤をとても丁寧に描いているのが印象的であった。

そして、ミュージカル版のハーモニーの重厚さに圧倒された。もちろんダンス(特にエスメラルダ)や衣装、セットの工夫で十分楽しませてくれるのだが、ノートルダムの石像に扮したコーラス隊がことある事にハーモニーを聴かせてくれるのである。ストーリーに泣き、ハーモニーに痺れる。一気に私の推しミュージカルの1つになった。

私はフロロー役を野中万寿夫氏で拝見した。彼が栃木県の同郷出身というひいき目も多少はあるが、冷徹でありながら儚さ、脆さから狂気に変わっていく渋く恐ろしい野中フロローはとてもお気に入りである。ぜひミュージカル版も観て欲しい。(ちなみに、ディズニーではない違う団体が、「ノートルダム・ドゥ・パリ」という同じユゴーの原作でミュージカルを作ったようでそちらも是非見てみたい)

終わりに

時代背景や文化を理解すると、「なるほどな」と思うことが増えたり、ディズニーのこだわりが垣間見えたりして、また作品を違う側面からも深く楽しめるようになったのではないだろうか。

個人的には、今当たり前に行われている教会の礼拝やミサで歌われている賛美歌が、宗教改革前は黙って聞くものだったと知り、改めて賛美と音楽が身近なものであって本当に良かったと思った。

また、宗教改革がバッハはじめ西洋音楽史にこんなに深く影響していたと知り、マルティン・ルターがもたらした現代への影響が計り知れないことを知った。しかし、スタイルや解釈は違ってきたとはいえ、古い時代も現代も、同じ一つの聖書であり、聖書の言葉は変わらない。私達はフロローと同じ聖書を今も読んでいる。

高校卒業の時にパリに旅行をした。一度見たかったパリの街並み、そして、ノートルダム聖堂。ちょうど行っときは日曜のミサで映画通りのようなパイプオルガンにコーラスが聞こえて、当時クリスチャンではなかった私は憧れの体験とともに自分が少しよそ者に思えて、気持ちは一気にエスメラルダになったものだ。

薔薇窓はミサ中で正面のものは見られなかったが、一歩一歩、黒と白のダイヤ柄の大理石の床をエスメラルダになりきって歩いたのを覚えている。今あそこに行ったら何を思い、どんなことを神と対話するのだろうか。

何世紀たっても人は人をあらゆる理由をつけて、差別し、争い、心に醜い怪物を抱えて生きている。しかし、それと同時に、人は愛と優しさも持ち合わせている。人々の、いや私の中の神の聖域はまだ小さいと感じる。時に怪物が暴走したりする。

私の怪物を神の愛が包み、いつも神の聖域である愛の中でいられたらと願ってやまない。「God help」。エスメラルダのように自由におおらかに、カジモドのようにピュアに優しくいたいと願う。

執筆者:のんのん

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