エペソ4:2-7 『一致はどこにあるか?』 2019/4/7 松田健太郎牧師

エペソ 4:2~7
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、
4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
4:4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。
4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。
4:7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

年度の初めですし、来週は信徒総会もあります。
今日は、教会のことについて少しお話ししていきたいと思います。

パウロは、エペソの教会に宛てたこの手紙の中で、教会の一致に関して書いています。
実は手紙の最初の方から、「一つである」ということを強調して書いていますから、エペソの教会には深刻な仲たがいが起こっていたのかもしれません。

「一致を熱心に保ちなさい」とパウロは言います。
一致とは何でしょうか?
多くの教会では、「教会に集う信徒が同じ神学の元に、同じ価値観を持ち、同じように考えることだ」と考えられてきました。
だから教会にはひとりの教師がいて、その教師が人々を教育し、その知識によってみんなで同じことを」します。

これは、確かにある程度必要なことで、全ての人が福音についての共通認識を持っている必要があると思います。
神とは誰か、救い主とは誰なのかといった理解と知識が必要です。
そのような一致をもたらすためにも、様々な賜物を持った人たちが用いられるわけです。

エペソ 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

一方で、キリストの体である私たちには別の側面もあることを忘れてはいけません。
それは、神さまが私たちひとりひとりを別々のものとして創造されているということです。
私たちはそれぞれが個性的に創られています。
それぞれの性格があり、性質があり、賜物があります。
それぞれが別の使命を与えられていて、違う人たちに遣わされています。
それを無視して、「クリスチャンとはこういうものだ」という形を作り、クリスチャンとしての行動や生き方も一律に教育しようとしても、それはうまくいきません。
その型にはまりやすい人は優越感に浸り、はまりにくい人は劣等感を持って落ち込むということになるのです。

では、一致することと、それぞれが違うことの中に、どうやって整合性を持たせればいいのでしょうか?
実を言うと、この二つのことには最初から矛盾なんてしていません。
「福音の知識において一致すること」と、「クリスチャンとして生き方」とは全く別の問題だからです。
この二つを混同して、「クリスチャンとして一致するために同じ価値観を持ちなさい」と考えてしまうことが問題なのです。
でもこれは、私たちが無意識の中で混同してしまいがちなことなのです。

クリスチャンであるということが、言葉遣いや立ち居振る舞い、趣味や嗜好、どの政党を支持するか、人との関係の持ち方などを、(影響は与えますが)統一させるわけではありません。
それを間違えると、私たちは「あの人はクリスチャンなのにどうしてあんなことをするのか?」あるいは「しないのか?」という愚痴が私たちの中から出てくるようになるわけです。

本当に大切なのは、表に出てくる行動の部分が一致することではなく、福音の理解において一致するということです。
それは、先ほども言いましたが「神さまはどのような方なのか?」とか「救い主は誰なのか?」という信仰の基本的な部分の知識ですね。
この知識自体は、決して複雑なものではなく、2000年前の漁師でもわかるようなシンプルなものです。
何年も学ばなければ理解できないようなものではありません。
本当に大切なことは、ごくわずかなのです。

では、その知識があればいいのかというと、それでは十分ではありません。
パウロはこのように続けています。

エペソ 4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

知識だけでなく、信仰において一つとなり、成熟する必要があるのです。
そのために必要なのは、神さまとの個人的な関係です。
私たちが神さまの御心を求め、祈り、そして神さまに従うことによってその関係は深まっていきます。
そして、私たち一人一人が神さまの心を求めるところに、御霊の一致が起こるのです。

現代の教会に大きく欠けているのは、この部分なのではないでしょうか。
多くの人たちは、牧師や、神学生でなければ神さまの心を知ることはできないと思っているようです。
神さまの御心を知るためには、特別な勉強が必要だと思っているんです。
それはカトリック教会が権力を握っていた時代、その権威を維持するために信徒たちについていたウソです。
その頃の教会は、聖書もラテン語という特別な言語を習得しなければ読めなくなっていました。
でも、聖書はそんな風には教えていません。

パウロはともかく、使徒たちは元をただせば漁師や取税人です。
実際、イエスさまが生きていた間は何も理解していませんでした。
しかし、ペンテコステのとき、信仰を持つすべての人に聖霊が与えられた時から、使徒たちを初めイエスさまの弟子たちは大きく変わっていきます。
それは、神さまとの関係が繋がったからです。
聖霊は、私たち現代を生きるクリスチャンにももちろん与えられています。
全てのクリスチャンが、神さまの心を知ることができるのです。

今年に入ってから何度も繰り返してきたことですが、だからこそ、このことは何度でも繰り返します。
どうか、神さまの声を聞いてください。
皆さん、「自分には聞こえない」と思っているだけで、クリスチャンなら絶対わかりますから、神さまに聞こうとしてみてください。
牧師に聞くとか、あるいは誰それの本を読むとかでなくて、聖書から、そして神さまから直接聞いてみていただきたいのです。

私たち一人一人が神さまに聞くことによって、そこに一致が起こります。
それが、御霊による一致ですね。
それは、教育による一致でも、リーダーシップや、支配による一致でもありません。
皆の思考や価値観、行動が一致するのでもありません。
一人一人の思考や価値観、行動はバラバラだけど、神さまの御心を求めていくことの中で、全体像として一致が起こります。
そして、そこに一致があるので、私たちは互いの違いを見て否定したり、批判したりするのではなく、違いを認め合いながら、足りないところをかばい合い、補い合うという関係が起こるのです。

それでは、別々な使命を持ち、別々な賜物、それに伴う別々の価値観を持つ私たちの中に、どんな風に一致がもたらされるでしょうか?
パウロはさらに、このように言っています。

エペソ 4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

「からだ全体」というのはどういうことですか?
クロスロード・インターナショナル葛西教会全体ということでしょうか?
違います。
世界中にあるすべての教会、全てのクリスチャンを合わせた私たちが、互いに繋がりを持ち、キリストの体として機能していくのです。

一人一人のクリスチャンが違うように、一つ一つの教会は違います。
だから、色んなタイプの人たちに届くことができるし、色んなタイプの人たちが繋がることができるわけです。
「あの教会はこういう風にやっている」とか、「普通教会はこうでしょう?」みたいなことは、あまり意味がありません。
むしろ、他の教会がやっていることは僕たちがやる必要のないことです。
「私たちはどのような教会として召されているか」ということを考える必要があるのです。
なぜなら、神さまがそれぞれの人に個性を与えているように、それぞれの群れにも個性があるはずだからです。
そうでなければ、決まったタイプの人しか教会に行くことはできなくなってしまいます。

私たちに与えられている個性はどんなものでしょう?
私たちはどういう方向に向かっていくのでしょうか?
もう少し具体的なところを、来週の信徒総会の中で話していきたいと思います。

ただひとつ、今日の聖書箇所からも言える、私たちが目指して行く必要のある明確なことがひとつあるんです。
それは、一人一人のクリスチャンが、信仰的に自立していくということです。
自立するというのは、孤立するということではありませんよ。
神さまとの関係の中で、神さまの導きを自分で受け取れるようになり、従うという生き方の姿勢です。
クリスチャンの中にそういう姿勢が育っていくのでなければ、互いに教え、互いに支え、互いに力を合わせるという関係も成り立ちません。
信仰の自立は、私たちがキリストの体である教会として機能していくための前提条件であり、一致していくための絶対条件なのです。

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