ヨシュア3:1-8 「道は開ける」 2019/07/07 松田健太郎牧師

ヨシュア記 3:1-8 
3:1 ヨシュアは翌朝早く起き、すべてのイスラエルの子らとともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のところまで来て、それを渡る前にそこに泊まった。
3:2 三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、
3:3 民に命じた。「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。
3:4 あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」
3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、【主】があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
3:6 ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。
3:7 【主】はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。
3:8 あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」

久しぶりに僕のメッセージですね。
ヨシュア記からですが、皆さん覚えていますか?
今日の所に入る前に、少し復習しておきましょう。

ヨシュアが率いるイスラエルの人々が、いよいよ約束の地であるカナンに入ろうとしている所でした。
しかし彼らは、すぐに入っていくのではなく、まずはそれぞれの役割を確認し、覚悟を確かめたうえで、もう一度偵察隊を送り込んだんです。
偵察隊は、大きな城壁があるエリコという町に入りましたが、そこでラハブという遊女と出会います。
ラハブはイスラエルの人たちを信じ、彼らの神を崇め、エリコを捨ててイスラエルの人々と共に行きたいと申し出ます。
彼女が再登場するのはもう少し後になりますが、エリコが倒された後、彼女はイスラエルと行動を共にすることになります。
そしてイスラエル人との間に子どもを授かり、ダビデの祖先となるのです。

さて、今日はいよいよ、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ります。
でもその時、少し特別なことがあったんですね。
それは、契約の箱を先頭にして入っていったということです。

ヨシュア 3:3 民に命じた。「あなたがたの神、【主】の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。

これから敵地に入っていくという時には色んな陣形があると思いますが、契約の箱を先頭にして入っていくというのはどういうことでしょう?

そもそも「契約の箱ってなんだ」と言う人もいらっしゃると思うので、少しお話ししておきたいと思います。
契約の箱というのは、簡単に言うと日本のおみこしみたいなものですね。
神殿――荒野をさまよっていた時代には「幕屋」と言って壁が布で作られていました――の一番奥、至聖所と呼ばれるところに安置されていた箱です。

契約の箱は、いくつかのことを象徴していました。
第一に、神さまのみことばを象徴しています。
契約の箱の中には、十戒を刻んだ石板が入っていました。
これは、神さまが直接言葉を記した唯一のものです。

第二に、この箱の名称そのものが表す通り、神さまと人との間にされた契約を表しています。
ここでいう契約とは「救いの契約」のことです。

あまり細かい話をしても分かりにくくなるだけなので、なるべくでシンプルに話しますね。
神さまがイスラエルとの間に結んだ契約は、直接的にはこの箱の中に入っている十戒を守って生きれば祝福があり、破れば滅びがあるという約束でした。
でも、神さまから離れた状態にある私たちは、この十戒を前にするとみんな死んでしまいます。
だから神さまは、この戒めを箱の中に入れ、ふたをするように命じました。
その蓋のことを、贖いの蓋とか、なだめの蓋と呼ぶんです。

「神さまの正しさの前には、誰も生きていることができない。しかし、神さまがその上に覆いをすることによって、人類を救うという約束」が、この契約の箱に象徴されているものなのです。

第三に、神さまご自身がこの箱には象徴されています。
幕屋や神殿の中に収められているとき、安置されている至聖所には雲が満ちあふれ、契約の箱の蓋の上には光が輝いていました。
これは、神さまの臨在がそこにあることを表しています。
イスラエルの人々にとって、契約の箱は神さまがともにいて下さるという事そのものの象徴でした。

さて、今は敵地である新しい場所に、これから入っていこうとする時、その先頭には神さまの言葉が、救いが、そして神さまご自身の存在があるということは、人々にとってどれほど心強いことだったでしょう。

これは、私たちがどこに行く時にでも、同じことが言えると思います。
これから新しい地に入っていこうとする時、戦いがあり、チャレンジがあるその時、神さまが私たちの前に立っていてくださっているでしょうか?
あるいは、神さまが先に進んでくださる、その後を私たちがついて行っているでしょうか?

私たちは自分たちが行きたいところに進んで、「神さまついてきてください」ということになってしまいがちかもしれません。
でも、どんな時でも私たちではなく、神さまが先頭に進む必要があります。
そのためには、私たちがいつでも神さまに尋ね、答えや導きを受け取り、それに従って行動する必要があるのです。

さて、契約の箱を担いだ祭司たちを先頭にして、イスラエルの人々はヨルダン川を渡っていきます。
その時、どんなことが起こったでしょうか?
ヨシュア記にはこのように書かれています。

ヨシュア 3:14 民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
3:16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
3:17 【主】の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。

川の水がせき止められて、イスラエルの人々は乾いたところを渡りました。
これは、モーセに率いられたイスラエルが紅海(葦の海)を渡った時の出来事と似ていますね。
この出来事を通して、モーセというリーダーを失った後も、神さまはイスラエルと共にあるという事が確認されたのです。

でもこの時は、紅海の時とは少し違うことがありました。
紅海の時には、モーセが杖を上げた時に水が分かれ、それによって乾いた地をイスラエルは進みましたが、今回は祭司たちが水の中に入った時、水が分かれたのです。
乾いた場所ができたから渡るのではなく、水の中に入った時に道が拓けるという順番です。
私たちにも、こういう時があるのではないでしょうか?

神さまの導きに従って歩むとき、私たちは目の前に道ができていくことによって、進むべき方向を見出すことがあります。
でも、いつもそうではなく、なかなか道が拓けないように感じることもあるのではないかと思うのです。

そんな時私たちは、神さまに聞き従い、神さまを先頭にして進んでいく必要があるのです。
前には道がない、困難があり、大きな側が横たわっている。
でも、神さまに従ってその困難の中に入っていく時、そこに道が拓けるという事があるのです。

いま、皆さんが直面しているのは、どういう状況でしょうか?
先に道が拓かれるのを待ってはいませんか?
私たちは、前に道がなくても、神さまが「進みなさい」と命じるなら、進みましょう。
そこには、必ず道が拓けていくからです。

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