「奉仕」をたくさんする人は偉いのか?〜奉仕とは〜【前編】

教会に通いだすと、「奉仕」をやらないかと勧められる。たくさん「奉仕」をした人は偉いのだろうか?

目次

「奉仕」の奴隷となっているクリスチャン

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 あるクリスチャンの友人が、体験談を話してくれた。彼は、以前所属していた教会でリーダー的な役目を担っていた。イベントの企画、教会の中のグループの取りまとめ、ピアノの奏楽など、様々な活動があった。クリスチャンではない人を、何人以上教会に誘うといったノルマまであったのだという。彼は「奉仕」に疲れ、教会に行くのが嫌になったと語った。

 こうした様々な活動を、クリスチャンの世界では、「奉仕」と呼ぶ。そして、多くのクリスチャンが、この「奉仕」のために教会に通っている。イエスを信じ、最初は希望に溢れて教会に通い出す。しかし、ある程度教会に通うと、この「奉仕」の一旦を担うよう打診される。はじめは、自分が共同体の一体となったように感じ、「自分でいいのかしら」という思いも持ちながら、引き受ける。始めた頃は楽しい。しかし、だんだんと最初の気持ちを忘れ、「奉仕」が「仕事」に変化する。次第に、クリスチャンはこの「奉仕」の奴隷となる。毎週日曜日がおっくうになる。教会が喜びの場所ではなく、息苦しい場所になる。

 このように、「奉仕」の奴隷になってしまっている人を、私は大勢見てきた。ただでさえ働きすぎの日本人が、月曜から金曜、人によっては土曜まで働き、そして日曜日も教会で「労働」しているのである。これでは潰れてしまう。

 「奉仕」が「仕事」になってしまったら本末転倒だ。しかし、教会によっては、「奉仕をしなければ信仰がない」というようなことまで教えられるところもある。そのような教会は、いわば、「神の恵みを感じるなら、奉仕をするはずだ」といって、信者をタダで働かせまくるのである。ブラック企業ならぬ、ブラック教会。とんでもない話だ。

 前半の今回は、「奉仕」とは何かという視点でまとめる。

「奉仕」「仕える」とは何か1 ~日本語の意味~

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 そもそも、「奉仕」とは何だろうか。聞き慣れない日本語である。私が、小学校6年生の時に転校した学校には、「奉仕委員会」なる委員会があったのだが、意味が分からなかった。聞くと、「ボランティア」という意味だという。本当にそうなのか。辞書をひいてみた。

ほうーし【奉仕】<広辞苑6版>

1:つつしんでつかえること。奉事。

2:献身的に、国家・社会のためにつくすこと。「社会奉仕」

3:商人が客のために特に安価に売ること。サービス。

ほうーし【奉仕】<新明解国語辞典>

1:報酬を度外視して国家・社会・人のために尽くすこと「無料奉仕」

2:商人が安い値段で品物を売ること。サービス。

 日本語の「奉仕」は主に1:つつしんでつかえる 2:国家につくす という意味合いがあるようだ。商売関連の「奉仕」は、現代ではあまり聞かないし、特殊なので今回は省く。

 「奉仕」には、意外にも「無報酬」という意味合いがないのがポイントだ。「新明解国語辞典」には「採算を度外視して」とあるが、「無報酬」という意味ではない。同項目に「無料奉仕」という熟語が例示されていることから分かるように、「奉仕」は通常、「無報酬」で行うものではない。もし奉仕が無料のものだったら、「無料奉仕」は、「無料無料」という熟語になってしまい、意味の重複だ。

 奉仕はあくまでも、「なにかのために、誠心誠意、利益を気にせず働く」という意味である。今の国家公務員が、ほとんど残業代が出ない中、昼夜問わず働いているのは、まさに「国家のための奉仕」といえよう。

 一方、英語の「volunteer<ボランティア>」は、英英時点で調べてみると、意味合いの力点が「自発的」かつ「無報酬」というところにある。有料だったらボランティアではなく、バイトである。だから、「奉仕」と「ボランティア」は明確に違う。また、「servie<サービス>」という単語は、公的機関での「仕事」というニュアンスが強いように受け取れる。

 ついでに聖書に「奉仕」とあわせて、よく出てくる「仕える」も調べてみた。

つか・える【仕える】<広辞苑6版>

1:目上の人の身近にいてその用を足す。かしずく。奉仕する。

2:宦などについて職を行う。

つか・える【仕える】<新明解国語時点>

1:主君・主人などのそばに居て、不自由が無いように働く。「病床の親に仕える」「神に仕える<奉仕する>身」

2:<身分・俸給を得るために>(役人として)勤める。

おまけ

かしず・く【傅く】<広辞苑6版>

1:子どもを大切に育てる。

2:人につかえて、世話をする。貢献する。

 「仕える」はより明確で、1:主君のそばにいて働く 2:役人が国のために職務を遂行する の2つの意味である。どちらも「有償」なところがポイントだ。「仕える」は無報酬に力点がおかれているのではなく、1:その人のそばにいてうやうやしく働く2:国家・社会のために働いているというモチベーションに力点が置かれているのである。

 「奉仕」「仕える」は、どちらとも、基本的に対象は「人」だ。概念は対象にならない。「国」や「社会」は概念に近いが、特殊な用例である点と、公務員は「国民」のために仕えているのだから、不自然ではない。人間は、「殿様に仕える」とか「両親に仕える」とはいっても、「パソコンに仕える」とか「哲学に仕える」とかは言わないのである。

 こう見ると、よく例の「ブラック教会」などで聞かれる、「教会に仕える」という言葉は、どうも日本語として違和感を覚える。私たちは、「神に仕える」、「イエスに仕える」、「信仰の仲間に仕える」ことはできても、「教会(組織)に仕える」というのは、モチベーションとしてはもちろん、日本語としてもなんだかオカシイ話なのである。

 もちろん「国会」「社会」と同じように「教会」に所属する「人」に仕えているのだ、という主張もあろう。しかし、「教会に仕える」という際に、あなたが思い浮かべているのは誰だろうか。たいてい、「教会という漠然とした組織」または「牧師や伝道師など教会のリーダーたち」を思い浮かべているのではないだろうか。もしあなたが組織に仕えているとしたら、あなたは実態のない、空虚な「組織」というシロモノにあなたのエネルギーと時間を使っているのである。それは、ハッキリ言って虚しい。

 

 まとめると・・・

・日本語の「奉仕」「仕える」に、「無償」の意味はない。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「対象者のそばにいて働く」という意味である。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「役人が国のために職務を遂行する」という意味もある。

・日本語の「奉仕」「仕える」は、「人」が対象であって「モノ・概念」は対象とはなりえない。(国家、社会、会社などは、所属する人が対象になる)

 日本語の「奉仕」「仕える」の意味は、ある程度整理できた。では、聖書の大元、ヘブライ語とギリシャ語ではどうなのだろうか。

「奉仕」「仕える」とは何か2 ~ヘブライ語、ギリシャ語の意味~

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 日本語の「新改訳聖書3版」では、「奉仕」が128回(旧約102回・新約26回)、「仕える」は181回(旧約139回・新約42回)登場する。無視できない、非常に重要な単語だといえる。

 「奉仕」にあたるヘブライ語は、「アボダー」で、これは「仕事」という意味である。「労働」や「奴隷の労働」を指す語である。旧約には141回登場し、そのうち102回が「奉仕」となっている。英語(KJV)でもほとんど同じ回数「serivce」と翻訳されている。「work」と翻訳されている回数は意外に少なく、10回のみ。後述するが、この語が使用されているのは、ほとんどが神殿や幕屋での役目を担っていたレビ族や祭司の役割を説明する時のものだ。祭司やレビ族は、当然無報酬ではなく、対価をもらっていた、れっきとした、生まれながら割り当てられる仕事だった。

 「仕える」は単純に「アボダー」の動詞形「アボッド」で290回登場する。英語ではほとんどが「serve」と翻訳されている。これも同じく、ほとんどが祭司やレビ族が幕屋や神殿で仕事をする時に使われている。

 「奉仕」、「仕える」にあたるギリシャ語は、「ラトネオー」(働く)、「ドゥーレノー」(奴隷として服従する)や、「ディアコネオー」(役に立つ・お世話をする・給仕する)など、様々だ。このうち、「ディアコネオー」は最も多く、37回登場する。

「奉仕」「仕える」の単語の使われ方

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 単純に単語だけを見ても分からない部分が多いので、聖書で「奉仕」と「仕える」という単語がどのように使われているか調べてみた。ざっと以下である。

●「奉仕」の使われ方 ( )の中は奉仕する人。<>の中は出自。

【旧約】

1:幕屋、聖所の奉仕全般(レビ族、祭司)<出エジ全般>

2:いけにえを献上する(イスラエルの民)<出エジ36:5>

3:主の宮で歌を歌う、賛美(レビ族)<1歴代6など>

4:天幕などの門番(コラ人)<1歴代9、26など>

5:立琴で預言する(アサフ、へマン、エドトン)<1歴代25>

6:王に奉仕する地区長の役割(レビ族、ヘブロン人)<1歴代26>

7:いけにえをささげる(レビ族、祭司)<2歴代35など>

【新約】

1:神が望むことを行う(ユダヤ人)<ヨハネ16>

2:祈り・みことばを語る(マッテヤを含む新十二弟子)<使徒6>

3:宣教の活動(パウロ)<使徒21、26など>

4:共同体の中で働く(信者たちへのすすめ)<ローマ12、エペソ4>

5:献金、支援物資を運ぶ(パウロ)<ローマ15>

6:献金をする、支援物資を送る(異邦人信者たち)<ローマ15>

7:神の命令を守って生きる(信者へのすすめ)<1コリ7>

8:宮で仕える(祭司やレビ人)<1コリ9>

9:いろいろな種類がある(一般論)<1コリ12>

10:もてなすこと(ステパノの家族)<1コリ16>

11:福音を伝える(3とほぼ同じ)(テモテ)<ピリピ2>

12:自由であることを教える(テモテ)<1テモテ4>

13:主人に仕える(奴隷)<1テモテ6>

14:旧約の預言者たちの預言(預言者たち)<1ペテロ1>

15:信仰の仲間と助け合う(信者全般)<1ペテロ4>

 

◎「仕える」の使われ方 ( )の中は奉仕する人。<>の中は出自。

【旧約】

1:働く(エサウ)<創世記25>

2:王のもとで働く(ヨセフ)<創世記41>

3:神にいけにえをささげる(イスラエルの民)<出エジ10>

4:奴隷、雇い人として働く(イスラエルの民)<出エジ14>

5:異邦の神々を崇拝する(イスラエルの民)<出エジ23>

6:祭司としての職務を行う(レビ人・祭司)<出エジ35>

7:神に従う(イスラエルの民)<ヨシュア24>

8:お供をする(預言者エリシャに仕えたゲハジ)<2列王8>

【新約】

1:誰かの下で働く(しもべ、雇い人、奴隷)<マタイ6>

2:給仕する、お世話する(イエス)<マタイ20>

3:神のことばの働きをする(聖書筆者たち)<ルカ1>

4:神を礼拝する(信者全般)<ルカ1>

5:お供をする(イエスの弟子たち)<ヨハネ12>

6:食事を提供する(弟子たち)<使徒6>

7:星を拝む(イスラエルの民)<使徒7>

8:いけにえをささげる(レビ人・祭司)<1コリ9>

9:(新しい)契約を守る(信者全般)<2コリ3>

10:福音を宣べ伝える(パウロ)<エペソ3>

11:共同体のために働く(パウロ)<コロサイ1>

12:祭司としての職務を行う(レビ人・祭司)<ヘブル13>

 

 旧約と新約での「奉仕」、「仕える」の概念をまとめると以下のように絞れると思う。

【聖書の「奉仕」「仕える」の種類】

1:祭司やレビ族が幕屋や聖所に関する職務を行う。その全般。幕屋の建設、運搬、いけにえ、賛美、門番など。

2:王や主人など、誰かのもとで働く。雇われて働く。

3:神、異邦の神々を崇拝する。神に従う。神の命令を守る。

4:祈りやみことばを語る。宣教の活動。福音を伝える。

5:共同体の中で仲間を助ける。もてなす。給仕する。

6:献金をする。支援物資を運ぶ。

 

私たちにとって「奉仕」とは

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 上記の6つの「奉仕・仕える」は私たちにとってどのような意味があるのだろうか。

1:祭司としての奉仕

 1番は、一見、旧約聖書時代だけの話に見える。しかし、今や私たちはメシアであるイエスによって、「王であり祭司」である。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。

(1ペテロ 2:9)

 クリスチャンは、イエスにあって王であり、祭司である。神の栄誉を告げ知らせるのが、祭司の役目。つまり、1番は2~6番全てにかかる、「自分は神の祭司である」というモチベーションにかかってくる。「王である祭司」は、自分の人生全てを通して、神の栄誉を告げ知らせるのである。

2:雇い人としての奉仕

 2番は、主に「奴隷」に関することである。「奴隷」といっても、聖書に出てくる「奴隷」は、南北戦争の際のアメリカ南部で使役された奴隷とは少しニュアンスが違う。「住み込み雇い人」とでも言おうか。単純化すれば「雇い人・エンプロイー」である。

 サラリーマンならば、会社のために働く。公務員なら公共機関に。自営業なら自分の事業のために。それぞれが、それぞれの仕事をして生活している。聖書は、誠実に働くよう勧めている。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

(エペソ人への手紙4:28)

 クリスチャンは、「教会での自分」、「職場での自分」という区別をつけるべきではない。TPOにふさわしく振る舞うのと、裏表があるのは違う。あなたは、いつでもどこでも100%イエスを愛して、イエスに自信を持って、イエスを堂々と宣言して生きているだろうか。あなたは、金太郎飴のようにどこを切ってもイエス大好きな姿勢で、仕事をしているだろうか。

 仕事の仲間に誠実に、仕事の相手に誠実に、そして仕事でかせいだお金に誠実に生きる。これが「雇い人」としての奉仕である。

3:イエスの弟子としての奉仕

 クリスチャンは、もちろん、この世界を創った唯一の神に信頼する、神のしもべである。そして、イエスの弟子である。イエスが十字架で犠牲となっため、旧約聖書の律法を守る必要は既になくなった。今の私たちは、イエスの新しい教えを生きる指針として、生きる。イエスの最大の教えは以下である。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

(ヨハネの福音書 13:34~35)

 互いに愛し合う。これがイエスの新しい戒めである。お互いを大切に思い、思いやりを持って支え合って生きる。その生き方が、イエスの弟子としての生き方である。当然、神を大切に思い、神に従うのは、その大大大前提である。

4:宣教者としての奉仕

 クリスチャンは、どこにいても、何をしていても、福音を伝える宣教者である。あらゆる聖書の言葉が、福音を伝えるよう教えている。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

(マタイの福音書 28:19~20)

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

(ペテロの手紙第一 3:15)

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

(テモテへの手紙第二 4:2)

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

(コリント人への手紙 第一 9:16)

 信徒全般へのすすめもあれば、パウロからテモテへのすすめ、パウロ自身の思いなど、ざまざまな形で、福音を伝えよと命じられている。クリスチャンは、牧師、宣教師などにかかわらず、全員がその生き方すべてを通じて、イエスの十字架と復活の福音を伝える役目を追っているのだ。実際、何の役職もないプリキラとアキラは、宣教者であるアポロに聖書のことを教えた。

この人(アポロ)は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを性格に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。彼は街道で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。

(使徒の働き 18:25~26)

 

5:共同体の仲間としての奉仕

 教会というのは、信者の共同体である。組織ではない。教会という組織をうまく回すための働きが奉仕なのではなく、共同体の仲間を支え合い、助け合うのが奉仕である。聖書の中には、様々な助け合い、もてなしの奉仕があった。

信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

(使徒の働き 2:44~47)

 はじめの頃の共同体は、財産を分け合い、富んでいる者も、貧しい者も一緒に助け合って生活していた。食事を作る者も、片付ける者もいただろう。それぞれが、それぞれの役割を果たして助け合っていたのだ。

またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の子の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。(中略)やもめたちはみな彼(ペテロ)のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。

(使徒の働き 9:36~39)

 ドルカスという女性は、得意技の裁縫で、仲間に服を作ってあげていた。貧しく、服も満足に繕えない人々にとって、彼女の存在は、どれほど優しく、あたたかみのあるものだっただろうか。

あなたがたの仲間の一人、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと行っています。彼はいつも、あなたがたが神のみこころのすべてを確信し、成熟した者として堅く立つことができるように、あなたがたのために祈りに励んでいます。

(コロサイ人への手紙 4:12)

 エパフラスという人は、離れた場所にいた信仰の仲間のために祈っていた。当時は、スカイプはおろか、ケータイも何もない時代である。名前も知っていたかどうか怪しい。エパフラスは、顔も知らない人々のために、いつも祈っていたのであった。

 他にも、食事を作って給仕をしたり、献金や支援物資を運んだり、聖書のことばを教え合ったりと、一人ひとりが、自分の得意技で、できることを、できるペースで、できる量を共同体の中でやっていた。それぞれの働きが尊く、大切で、優劣がないのは言うまでもない。

6:捧げる者としての奉仕

 自分の持っているものを捧げるのは、とても大切な「奉仕」である。「自分が所属する教会にたくさん献金を捧げる」なんていうケチケチした考えではない。それはカンチガイだ。献金についての記事はこちら)

 最初の頃の共同体は、お互いを支え合っていた。現に、遠くにある共同体が、エルサレムにいる信仰の仲間のためにお金や物資を拠出し、パウロたちはそのお金や物資を運んでいたのである。

しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私(パウロ)はエルサレムに行きます。それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。(援助)私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように。

(ローマ人への手紙 15:25~31)

 最初の頃の信者たちは、自分が何人か、どこの共同体に所属しているかに関わらず、お互いを金銭的に、物質的に援助しあっていたのだ。なんと寛大な心、壮大な連帯であろうか!

まとめ:「奉仕」はあなたの「生き方」である

 「奉仕」とは何かを、細かくみてきた。「奉仕」は、あなたの所属する教会の中で、ピアノをひいたり、子どもクラスをリードしたり、案内係をすることだけではない。もちろん、そういった一つ一つの教会の役割も大切だ。優劣などない。しかし、本来「奉仕」とは、あなたの生き方そのものなのだ。あなたの生き方を通して、イエスの素晴らしさを示す。あなたの置かれている場所で、誠実に働く。あなたの口で、神を賛美し、福音を伝える。共同体の中で、自分に何ができるか、神に聞き、小さな助け合いを実行する。なけなしのこづかいで、遠く貧しい信仰の仲間に献金をする。それら一つ一つが、「奉仕」だ。あなたの生き方が奉仕になるのである。

 ステージの上で聖書の言葉を語る牧師や、ステージの上で歌う賛美リーダーだけが偉大な奉仕者ではない。朝、誰も来ていない教会に来て、人知れずトイレ掃除をする。誰も見向きもしない人に話しかける。誰も手をつけない皿洗いを人知れず、こっそりやっている。そのような人が、偉大な奉仕者ではないか。

 もっと大きな「奉仕」のスケールを持とう。日本語の「仕える」は、「主君のそばにいる」という意味がある。あなたは、あなたの主君、ただ一人の神のそばにいるだろうか。あなたが仕えているのは、教会組織だろうか。それとも、目の前の一人にだろうか。あなたは、目の前の一人の人の瞳の中に、イエスを見出しているだろうか。

 後編はこちら

 

ライター 小林 拓馬