創世記2章 エデンの園

目次

安息

神さまによる天地創造が終わり、すべてのわざをやめられたというところから、2章は始まっています。

創世記 2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

どうして「やめた」のかと言えば、世界はもうこれ以上付け足すことがないほどに、完成したものとなったからです。
「神さまはその時から何もせず、ゆっくり休んでいるだけ」なんていうことはありません。
神さまは今もずっと働かれていますが、「世界を創造する」というわざをやめられたということです。

後に、この出来事から「安息日」というものが律法で定められ、1週間に一度は仕事を休み、神さまと共に過ごす時間として大切にされるようになります。
確かに、週に一度は休息するということも大切なことですが、僕たちにはそれ以上に大切なことがあります。

それは、ヘブル人への手紙の中でこのように語られていることです。

ヘブル 4:10 神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。

神さまが創造のわざをやめられたように、僕たちも自分の価値観や自分の力で何かをしようとすることをやめる必要があります。

神さまが命じられることを、神さまの力を借りて実行することが、僕たちに求められている生き方なのです。

エデンの園

聖書を始めて読む人たちが混乱してしまうのは、さっき世界の創造について書かれていて、人間の創造についても語られていたのに、2章の4節からまた人間の創造の話が始まることではないかと思います。

これは、昔のユダヤ人の書き方ではよくあったことで、最初に大雑把なあらましを放しておいて、後で詳細について語るという技法です。

ここでは、天国の型として「エデンの園」という場所が出てきます。
神さまが最初に創造した、素晴らしかった世界ですね。

その中央には「命の木」と「善悪の知識の木」はありました。


人には自由が与えられていて、そこにあるどんな木から取って食べてもよかったのですが、「善悪の知識の木」だけは食べてはならないと命じられていました。
「善悪の知識の木」を食べることだけが、神さまに背くことであり、悪だったのです。

神さまに背くということは、神さまから離れてしまうということです。
そして、命の源である神さまか離れるなら、人は死んでしまうのです。

男と女

最初の人アダムは、そこにあるあらゆる生物に名前をつけ、世界を管理していました。
そんなアダムに神さまは、ある時にこのように言います。

創世記 2:18 また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。

こうして、男のあばら骨から女が創られます。
「だから男性のあばら骨は女性よりも1本少ない」という話しがありますが、それは全くのウソですね(笑)。
女が男のあばら骨から創られたということには、大切な内臓を守る、アダムにとっての最高のパートナーであることが表されています。

最高のパートナーと初めて会ったとき、アダムは喜んでこのよう言います。

創世記 2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」

そこには、男と女の間には、素晴らしい相互依存の関係がありました。
それぞれに姿も、力も、役割も違ったけれど、互いを必要とする愛の関係です。

そしてこの言葉は、「結婚」とは何かという話しに繋がっていきます。

創世記 2:24 それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

聖書の中で語られている結婚とは、別々の性質を持った男と女が一体となる、愛の関係のあり方です。
結婚の関係は、聖書の中では神さまと人との関係を表すものとしても記されています。
そして、聖書の最後にも、結婚を意味する言葉によって締めくくられています。

黙示録 22:17 御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

私たちに本来与えられていた結婚という関係は、単なる社会的な制度ではない、もっと深い永遠の関係なのです。

しかし、罪人となったこの形はすぐに崩れてしまいます。
たくさんの妻を娶って子孫を残すということのために一夫多妻となり、女性を経済的に支える社会的な制度になってしまうのです。