出エジプト記32章 モーセのとりなし

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イスラエルの背き

さて、ここで大変残念な出来事が起こります。
せっかくモーセが神さまの元に行って、どのように生きるべきかという指針を受け取って十戒をもらってきたのに、人々はすでに神さまから離れ、自分勝手な幸せを求め始めていたということです。

出エジプト 32:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」

「モーセ帰ってこないじゃん。死んじまったんじゃね? これから俺たちどうするの? 何とかしてよ」という感じです。

リーダーに頼って自分では何もしようとしない。
リーダーがいなくなったと思ったら、次の人に責任を追及する。
これは、400年間に培われてしまった共依存的な奴隷根性というものなのかもしれません。
でもこういう考え方は、僕たち日本人の中にもありますよね。

問題は、アロンがこれに応えてしまったことです。
アロンはモーセを待つべきでした。
少なくとも、なすべきことを神さまに聞くべきでした。
でも彼は、自分の思いで解決方法を見出そうとしたのです。
それは神さまの御心とはかけ離れた方法、金の偶像を作り、それを新しい神とするという方法です。

これからさ大祭司として召されようとしていた人のやることとは思えませんね。
もしかすると、彼の中には神の声を聞き、従っているモーセに対する嫉妬のようなものもあったのかもしれません。
「俺にだって、神と民の間に立つことができる。」
待っていれば大祭司として任命されて、自然にその働きを成すことをできたでしょうが、彼は自分の力で神を作り出してしまったのです。
それは、十戒の中で禁じられていたことでもあり、彼らはその内容も知って、同意していたはずでした。

そこに、神の怒りが燃え上がります。

出エジプト 32:9 【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。
32:10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

十戒で警告されていたように、これを破った者は殺される。
イスラエルの歴史は、早くもここで終止符を打つというところでした。

モーセの怒り

そこに、モーセが割って入ったのです。

出エジプト 32:11 しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。
32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。
32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」

モーセは、命をかけて神さまとイスラエルの人々との間に立ちました。
そして、「アブラハムたちに約束したことはウソだったのですか?」と言ったのです。

それを聞いて、神さまはその怒りを納めます。
しかし、次に怒りが燃え上がったのはモーセでした。
彼は神さまから与えられた十戒を砕き、イスラエルの人々に怒り狂いました。

あまりにも剣幕にアロンも怖くなり、モーセを「わが主」と呼んでしまっています(出エジプト32:22)。
そしてアロンは、「金を集めたのは本当だが、金の象は勝手にできてしまった」というようなウソをついてしまいます(出エジプト32:24)。
彼自身がのみで鋳型を作っていますから(出エジプト 32:4)、完全にウソですね。
モーセのあまりの剣幕に、思わずついてしまったウソなのかもしれません。
気持ちはわかりますが、ついてはならないウソですね。

そんなアロンのリーダーシップによって、ただでさえ問題だらけのイスラエルの民は完全にコントロールを失ってしまいました。
近くで敵が見ている状況ですから、自体は最悪です。
統率力のない烏合の衆であることを暴露しているようなものです。
そこでモーセは、次の手を打たなければなりませんでした。

出エジプト 32:25 モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。
32:26 そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも【主】につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。
32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」
32:28 レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。

同胞を殺すというのは、モーセにとってもレビ族の人たちにとっても、文字通り身を切るような痛みだったでしょう。
しかし、これをしなければ、統率力を失ったイスラエルに、侮った敵が押し寄せてもっと大きな被害となっていたのだと思います。
あるいは、ここで襲われることがなかったとしても、「イスラエルは恐れるに足らない」という噂が広がり、さらに大変な状況に追い込まれることになります。

そう考えると、教会の中のことも、なあなあになってしまいがちですが、押さえるべきところはしっかりしないといけないのかもしれませんね。

モーセのとりなし

次の日、モーセは神さまの前に出て、イスラエルの人々のとりなしをします。

出エジプト 32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」

誓った直後に神さまに背いたのですから、イスラエルの罪は本来なら許されるようなことではありません。
全ての民がすぐに亡ぼされるという状況は免れたとはいえ、このままでいいはずがありません。
モーセは、少しでもその裁きをなだめることができればと考えます。

出エジプト 32:31 そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」

「彼らの罪を赦してくださるなら――。」
言葉にならないモーセの思いが伝わって来るようです。
赦せる余地なんて微塵もないほどに、何の言い訳もできない状況だからです。
だからこの後に続くモーセのことばは、彼の覚悟そのものだったと言えるでしょう。

「どうか、あなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」
これは、「天の御国に入ることができる命の書のリストから、私の名も削除してください」という願いです。
彼自身の命と魂をかけて、イスラエルの民の罪をなだめようとしたのです。

ここに、イエスさまの十字架が見えるような気がします。
モーセには、人の罪を贖うことができる正しさなどありませんが、自らの存在を犠牲にしてでも人々を救いたいという思いは、確かに神さまに届きました。
すべてがチャラになったわけではありませんでしたが、イスラエルはひとまずの裁きを免れたのです。