救いとは?

救いとはどんなものだと思いますか?

① 悩みから解放されること?

多くの人たちは、悩みから解放されて、心が安らかになった時に「あぁ、救われたような思いです。」と言います。
それが救いだとしたら、救われるためにはどんな宗教でも良いし、宗教ではなくても救いを得る事ができる事になります。
そしてその救いとは、多くの場合一時的なものでしかありません。
時間が経ったり、状況が変わると、またすぐに救われていない状態に戻ってしまうのです。

②   天国に行くこと?

多くのクリスチャンたちは、信仰を告白し、天国に行けるようになったことを救いと呼びます。
救いがそれだけのものだとしたら、一度信仰を告白して天国息のチケットを手に入れれば、後は何をしてもいいという事になってしまいます。

そこである教会では、何か宗教的な行為を一生懸命したり、毎週教会に通わなければ救いを失ってしまうと教えます。
それを信じる人たちの多くは、いつか天国に行って休める日を夢見て、生きている間は辛くて苦しい信仰生活を耐え忍んでいます。
また、義務感に駆られて礼拝を守り、奉仕をしています。
その人たちにとっての救いとは、結局自分自身を苦しめるものになってしまうのです。

③   神様とともに生きること

これまで学んできたことを総合するなら、救いとは、失われていた神様との関係を修復し、回復する事だという事がわかるのではないでしょうか?

地獄に行かなくても済むようになることが“救い”なのではなく、神様と共に歩む人生を歩めるようになった事それ自体が救いなのです。

神様とともに歩む人生は、喜びをますます喜ぶことができ、苦しみの中に意味を見出し、悲しみの中で慰めを得ることができる人生です。

救いとは、生きている間にすでに神様との和解によって喜びで満たされ、死んだ後も神様と共に永遠の時を過ごすことが保証されているという事なのです。

―復習しましょう―
神様とはどんな存在でしたか? 

私たち人間は、どんな存在でしたか? 

この世界は、どのような場所として創造されましたか? 

神様が創造した世界は、現在どのような状態ですか?

どうしてそんな風になってしまったのでしょうか?

神様が素晴らしい場所として創造したはずのこの世界と、最高のものとして創られた私たち人間は、私たちが神様から離れたことによってすべてが台無しになってしまいました。
本来なら、それだけで私たち人間は滅ぼされても仕方がなかったでしょう。
神様には、壊れてしまったこの世界と、人間をすぐに滅ぼしてしまうことができました。

しかし、そうはしませんでした。
神様は、私たちを愛していたからです。

神様から離れ、霊的に死んだ者となり、神様の祝福からも離れてしまった私たち人間は、この世界で生き続けることになりました。

でもそれだけではありません。
神様は私たち人間を罪の呪いから救い出す計画を、すぐに始められたのです。

創世記3:15を読んでみましょう。

創世記 3:15 わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。」

これは、アダムとエバをだまして善悪の知識の木からとって食べさせた蛇(悪魔)に対して語る神様の言葉です。
ここで語られている「女の子孫」とは、やがて与えられることになる救い主の事です。
神様はやがて救い主を女の子孫として地上に送り、悪魔のたくらみを打ち砕く事を約束したのです。

もうひとつ、創世記3:21を読んでみましょう。

創世記 3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

ここに記されている「皮の衣」も、やがて与えられる救い主の事を表しています。
人は罪びとになった時、罪びととなった自らを嘆いて、イチジクの葉で自分を隠そうとしました。
しかし、人が作ったもので罪を隠すことはできません。
神様は、そんなアダムとエバのために自ら動物を殺し、彼らの罪の恥を覆ったのです。

この時に犠牲となった動物は、救い主がどのようにして私たちの罪を贖うのかという事を表しています。

新約聖書には、その事を述べている言葉があります。

ガラテヤ 3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

旧約聖書には、他にも救い主が表されているところがたくさんあります。
旧約聖書が記されていることの目的のひとつは、キリストがどこに、どのようにして人類のもとに表れるかが記される事です。

※旧約聖書の目的:

①イスラエルの律法と歴史を記すため。

②救い主がどこにどのようにして与えられるかを示すため。

③人類の罪の歴史を通して、救い主が必要だという事が明らかにされるため。

聖書には系図がたくさん出てくることに気付いた方もいらっしゃるでしょう。
私たち日本人には馴染みが薄く、読むことが面倒に感じる系図ですが、聖書にはたくさん出てきます。
それは、救い主がアブラハム・イサク・ヤコブの子孫であり、ダビデ王の子孫として生まれてくる事が約束されているからです。

他にも、救い主がベツレヘムの町で(ミカ5:2)、処女から生まれてくる事(イザヤ7:14)、木にかけられて呪いを受け(申命記21:23)、私たちの罪を贖って死ぬこと(イザヤ53章)、金持ちの墓に葬られ(イザヤ53:9)3日目に蘇ること(ヨナ1:17)などがすべて記されています。
旧約聖書の中には、300以上という救い主についての預言と予表が記されていると言われています。

 

豆知識:
預言:未来の事について記す予言の事ではなく、神様から預かった言葉のこと。
旧約聖書の預言には、救い主に関しての預言が多い。

予表:救い主の事について直接書かれているわけではないけれど、その出来事を通して救い主がどのような存在かが表されている型のようなもの。

聖書に記されている救い主として自称していた人たちはたくさんいますが、ほとんどの人は、聖書に記されている預言や予表で表された条件を満たしていません。

そのすべてを満たしたのはナザレの大工の息子として生まれた、イエス様ひとりしかいないのです。
それこそ、イエス様が聖書に記されている救い主(メシヤ・キリスト)である事の証拠であり、誰が救い主なのかがはっきりするために、ひとつひとつの事が記されていたのです。
そうして、預言されていたように救い主イエス様は、十字架にかかり、殺され、人類が罪びとになった時から神様が計画していた救いのわざを完成させます。

豆知識:
救い主の事を、ヘブル語でメシヤ、ギリシア語でキリストと言います。
それぞれ言葉は違うようですが、同じ意味の言葉です。

それではイエス様が十字架にかかって死んだという事が、私たちの罪とどのような関係を持っているのでしょうか?
イエス様の十字架での死が、私たちにどのような意味があるのか、少し考えてみましょう。

前回の学びで学んだように、私たち人間は神様に背いて善悪の知識の木から取って食べた罪のために、霊的に死んだ者となりました。
それによって人は、神様との関係が壊れてしまい、①神様に背き、②自ら神になろうとし、③神様が創造したように生きない状態となったのです。

神様との関係が断絶してしまった私たちは、私たちが神様の元に戻ろうとしても、戻ることができません。
そして、どんなに良い行いを重ねても、それによって神様との関係が回復するわけではないのです。

ローマ3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

神様との関係の回復の道は、まず神様の側から開かれる必要がありました。
そのために神様が選んだのは、イエス様が私たちの罪を身代わりに引き受けて、十字架で死ぬという救いの方法です。
イエス様の十字架によって、神様と人の間にできてしまった断絶の溝には、もう一度その関係を築くことができる橋が渡されたのです。

それは、人が良い人間になったからではなく、神様が人を愛しているから与えた一方的な恵みです。
恵みによって、人には救いの道が開かれたのです。

豆知識:
報酬:行いに対して対価として与えられるもの。
恵み:行いの結果としてではなく、一方的に与えられるもの。
救いは、報酬によっては決して得られるものではなく、神様から恵みによって一方的に与えられるものです。

ローマ3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

私たちが十字架の意味を理解するためには、律法について理解しておく必要があります。

「罪とは何か?」の章でもお話したことですが、律法の目的は、私たちが守らなければならないルールではありません

律法に書かれていることは、私達にはすべてを守ることができないことであり、私たちが神様の正しさに適わない罪人であることを自覚するためのものなのです。

律法を通して私たちが悟らされるのは、私たちがけがれのろわれ死すべき存在だという事です。
だから神様は、その罪からきよめられ、赦され、贖われるための方法も律法の中に示してくださいました。
それは、いけにえを捧げる事です。
いけにえは現代の社会では行われていないため、私達には馴染みが薄く、残酷に思えますが、人類の歴史の中で長い間行われてきた事です。

罪に対しては、代価が支払われる必要があります。
そして、罪の代価は、善い行いではなく、いのちが支払われる必要があったのです。
律法で定められる前から、人は本能的にそのように感じ、生贄を捧げてきましたが、それは神様の完全さに見合うものではありませんでした。

神様に対する罪の代価となるためには、罪によってけがれたものではなく、壊れてしまったものではなく、完全なものである必要がありました。
でも神様の義(正しさ)に適う完全な物は神様ご自身にしかないものです。
神様ご自身が生贄となって罪の赦しと贖いを完成する事、それが十字架の上でのイエス様の死の本当の意味です。

つまりイエス様の十字架での死には、罪の赦しあがないのろいのきよめという意味と目的があるのです。
イエス様が十字架の上で最後に発した言葉は、「完了した。」でした。
それは、ギリシア語で「テテレスタイ」という言葉、支払い終了を意味する言葉です。その時、罪の支払いがすべて終了しました。

豆知識:
贖い:贖い(あがない)とは、一般的には罪をつぐなう事とされていますが、聖書に記されている贖いにはもう少し違う意味があります。
借金を肩代わりする事や、身代金を払って奴隷を自由にすることとして使われます。
また、生贄を捧げて罪を赦してもらう時にも贖いという言葉が使われています。

ローマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

こうして、イエス様の十字架によって、人類の救いの道は開かれました。
それでは、これによってすべての人間が救われたという事でしょうか?
いいえ、そういう事ではありません。
人間には自由意志が与えられているのですから、神様が自動的に救うという事もないのです。

神様は、すべての人のために救いの道を開かれました。
そして、すべての人を神様のもとに招いています。
しかし、救いを受け取るかどうかは、ひとりひとりが自分で選ぶ必要があります。
それは、イエス様は掛けてくださった、神様と私達との間に渡された橋を渡り、神様との関係を回復するという事です。
神様との関係の回復は、神様との本来の関係、つまり自分や他のものを神とすることを止め、神様を自分の神様とするところから始まります。

神様に背き、背を向けていた私たちが方向転換し、神様に向かうことを悔い改めと言います。
悔い改めという言葉を見ると、何だか罪を後悔して止めるという意味のように思うかもしれませんが、神様との関係の回復が最も肝心な事です。

―祈ってみましょうー
あなたは、救いを受け取っていますか? 本当に救いを受け取っていると言えるでしょうか?
もし不確かなら、今救いを受け取って、それを確かなものとしてませんか?

次の事を念頭に入れながら、自分自身で祈ってみましょう。

①自分が神様から離れていた事(罪)を認める。

② イエス様の十字架での死と復活によって、救いの道が開かれたことを信じる。 

③ 神様を自分自身の神とし、その支配の中に生きることを決意する。

そして神様が救いを与えてくださったことを喜び、賛美し、感謝しましょう!

 

入門編~福音って何だろう?