ローマ7:1-6 『ローマ18 キリストの花嫁』 2017/10/23 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙7:1~6
7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。──
7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。
7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。
ここしばらくの話には、ひとつのテーマがあります。
それは、律法と恵みの関係です。
先々週は死と命を通して、私たちは罪に死んで恵みの中で生きているのだという事を学びましたね。
先週は奴隷と自由にされた人の関係を通して、私たちはもう罪の奴隷、律法の奴隷ではなく、恵みによって自由の中で生きているのだという話をDavidさんがしてくれました。
そして今日は、夫と妻の関係を通して、律法と恵みについて語られているわけです。
私たちはかつて、“律法”という夫の妻でした。
律法とは、私たちが自分の正しさや、善い行いによって生きていこうとする原理です。
しかし私たちには、正しさや善い行いによって生きる力などありません。
だから律法は、私たちの中にある罪を明らかにし、それを指し示すことによって、私たちの心を罪の意識で縛るものです。
私たちは、この律法という夫によって束縛された人生を送っていたのです。
でもイエス様が十字架にかかって下さったとき、私たちはこの束縛から解放されました。
この夫は十字架にかけられて死に、私たちはキリストという新しい夫と結婚したのです。
前の夫が生きている間に新しい人と結婚したら、それは姦淫です。
しかし、前の夫はもう死にました。
だから私たちは、死んでしまった夫にいつまでも縛られるのではなく、新しい夫であるイエス様とともに歩む必要がある。
これが、今日の個所のポイントです。
今日の御言葉の解説は終わってしまいましたね。(笑)
でも、これまで同じテーマの話をすでにしてきましたので、今日は少し違う視点から、このみ言葉について考えてみましょう。
それは、私たちがイエス様の花嫁となったのだということについてです。
① ひとつとなる
みなさんは、結婚とはどういうものだと思っていますか?
少し前までは、日本でも結婚は親が決めるものという部分があったように思います。
結婚と言うのは二つの家族が結び合う絆であって、個人の思いは二の次とされていたのが、伝統的な日本の結婚観かもしれませんね。
今ではだいぶそういう見方がなくなりましたが、逆に結婚とは何かという事がますますわからなくなってしまっているように思います。
単なる戸籍上の制度だとか、ひとつの家族となるための手続きと言う考え方が多いかもしれません。
だから子供が生まれるまでは結婚しなくていいと考えている人がいたり、何か気にくわないことが起これば離婚すればいいじゃないかと考えるわけです。
では、聖書は結婚についてどのように言っているのでしょうか?
創世記の中では、このように語られています。
創世記 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
これは、結婚式の時の制約の時にも使われる有名な言葉ですね。
神様が私たち教えている結婚とは、二人の人がひとつとなることです。
互いに見つめ合う事も麗しい関係ですが、やがて互いの嫌な部分も見えてくるでしょう。
ふたりが同じ方向を見て、その物事に当たっていくことが結婚するということなのです。
これがどれほど難しい事が、まだ結婚していないカップルにはなかなか理解する事ができないかもしれません。
これまで違うものを見てきて、違う環境で育ち、違う文化と、違う価値観を持つふたりがひとつとなるのです。
自分の半身が自由にならない、痒いところに手が届かないという事が沢山起こります。
結婚して10年以上経つけれど、未だにそうですという家庭もあるかもしれませんね。
どうすれば、これを解決する事ができるのでしょうか?
聖書が教えている解決方法は、頭をひとつにするということです。
夫婦がともに神様を主とし、自分はキリストの身体なのだと自覚していくことによって、夫婦は一体になっていくことができるのです。
逆に、頭がひとつになっていない限り、私たちがひとつになるというのは、とてもできる事ではないと僕は思います。
② 妻は従い、夫は愛する
さて、聖書の中で結婚について書かれている個所と言えば、エペソ人への手紙を忘れる事はできません。
パウロは、エペソに宛てた手紙の中で、このように話しているのです。
エペソ 5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
この言葉を考える時、私たちには二つのことに注意する必要があります。
第一に、「夫たちよ、妻を従えなさい。」「妻たちよ、夫に愛させなさい。」ではないということです。
私たちは、つい互いに要求するばかりになって、そうなってしまう傾向がありますね。
第二にこれは、共に神様を見上げて一体となっているからこそ成立するのだという事です。
それぞれが別の方向を向いていたら、妻は否応なく夫に従うだけとなり、夫は自己満足の愛にしかならないでしょう。
それは、神様が求める夫婦の姿ではありません。
夫婦がともに神様を見上げ、神様に従おうとしているからこそ、妻が夫を立て、夫は妻を愛するという心遣いによって秩序が起こり、そこに愛が実践されていくのです。
③ キリストの花嫁
さて、ここで最初のテーマに戻りましょう。
聖書では様々な箇所で、私たちはキリストの花嫁だと表現されています。
そこで私たちとイエス様との関係は、結婚関係に似ているんだなぁと想像するわけです。
しかし、実を言うとそれは逆なのです。
私たちとイエス様との関係が私たちの結婚関係に似ているのではなく、私たちとイエス様との関係がモデルになって、夫婦のあるべき姿ができているということなのです。
パウロは、エペソの手紙の中で結婚について書いた時、このように続けています。
5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。
イエス様と、私たち教会とがひとつになる事、それが私たちに与えられている奥義です。
罪人同士である私たちが一体となるのは簡単なことではありません。
しかし、イエス様と私たちが、心をひとつにして同じものを見、同じ価値観を持って、物事に当たっていくのだとしたら、それはとても素晴らしい事だと思いませんか?
もしも私たちが律法と結婚したままなら、私たちはイエス様と結婚する事はできません。
しかし、古い夫である律法は死に、もはや私たちはイエス様とともにあって自由です。
それなのに、まだ古い夫を引きずって律法に戻ろうとするなら、それはイエス様を悲しませることになるのではないでしょうか?
私たちを責めたて、束縛するだけの律法に、いつまでも縛られていてはいけません。
私たちは、私たちを心から愛して下さるイエス様にこそ心を預け、共に歩み、生きる道を進んでいきましょう。
そのような愛こそが、私たちを本当に幸せにするものだからです。