クロスロードを歩むために
私たちは人生の中で、いくつもの選択をしなければなりません。
晩御飯は何を食べようか?
どの学校に進学するのか?
明日は何を着ていこうか?
この人と結婚するべきかどうか?
小さなことから大きなことまで、私たちは日々、十字路に立たされてどの道を選ぶのか決断しなければなりません。
私たちが教会の名前として冠している“クロスロード”は、英語で十字路という意味の言葉です。
それと同時に、この言葉は“クロス(十字架)”と“ロード(道)”というふたつの英語によって構成されている言葉でもあります。
わたしたちは“クロスロード”という名前の中に、「皆さんが人生の十字路に立たされた時、十字架の道を選んで欲しい。」という想いをこめました。
“十字架の道”とは一体どんな道なのでしょうか。
自らの十字架を背負う道
世界では多くの人たちが、たくさんの悩みを抱え、迷い、苦しんでいます。
今、幸せを感じていても、それはどれだけ続くのかもわからないようなものです。
あるいは、実は自分自身が他の人たちの悩みの原因になっている可能性だってあります。
私たちは地上に偶然生まれたのではなく、神さまによって創造された、素晴らしく尊い存在だと聖書には書かれています。
ならば、世界はどうして、こんなに苦しみに満ちているのでしょうか?
それは、この世界に生きる私たちの中に、罪があるからだと聖書は教えています。
誰もが持っている、私たちを不幸にする罪。
それは、私たちを創造した神様からはなれ、自分自身が神になろうとすることです。
神ではない私たちが、神になってコントロールしようとしているので、色々な部分に歪みが生まれているのです。
苦しみの原因の多くは、私たち自身が問題です。
それなのに、それを環境や他の誰かのせいにしたり、時にはそれを神さまのせいにしてしまうのが私たちではないでしょうか。
「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」(マタイ9:12)
とイエス・キリストは言いました。
私たちは、自分が病人であることを認めない限り、治療をしてもらおうとは思いません。
ここで言われている医者とはイエス・キリストのことであり、病人とは私たちです。
つまり私たちは、自分の中に罪があることを認めて、イエス・キリストの元に行かなければ、根本的な問題は解決できないと言っているのです。
十字架の道とは、自分が大きな十字架を背負っていることを認識する生き方です。
自分では償えないほどに大きな罪を持っていることを認め、神さまに救いを求める生き方です。
私たちの中にはプライドがあるので、それはとても難しいことかもしれません。
しかし、そこを通らなければ、私たちが救いを受け取ることはできないのです。
十字架の血で罪赦された道
さて、残念な事ですが、多くの人たちが①だけで止まってしまいます。
自分の罪を見て終わりでは、そこには失望と絶望しかありません。
しかし神さまは、わたし達がそこで立ち止まってしまうことを望んではいません。
その先にこそ、十字架の道の真髄があるのです。
私たちのもっている罪が、愕然とするほどに大きいのは確かです。
多くの場合、私たちはその罪の意識から、良い行いをして罪を償おうとします。
しかし、私たちが背負っているその罪は、自分で償うことすらできないほど大きいのです。
だから神さまは、私たちが自分の行いによって罪を償うのでなく、神さまの側から一方的にその罪を赦して下さいました。
そして、私たちとの関係を修復しようとして下さっているのです。
私たちが罪を償うことなく、その罪が赦される?
そんな、都合のいい話があるのでしょうか?
あります。
しかし、もちろんそれは無料ではありません。
ただ、それは私たちに支払えるものではないので、神さまが代わりに支払ってくださいました。
そこには、神のひとり子であるイエス・キリストの命が支払われたのです。
聖書にはこの様に書かれています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ 3:16)
十字架の道とは、私たちがその罪の赦しを受け取る道です。
神さまがその代価を支払ってくださったということを私たちが認めなければ、私たちは「罪が赦されたことを受け入れない」ということになります。
そして私たちは永遠に、自分の努力でその罪を償わなければならなくなるのです。
十字架の道とは、罪を赦された者として生きる道です。
十字架の道を歩む生き方は、自分の罪を反省して「自分はダメな人間だ」と嘆いてばかりいるような生き方ではありません。
また、自分の罪に対する、神さまからの罰を恐れる生き方ではありません。
罪が赦された喜びに満ちて、希望にあふれた生き方です。
こんな自分を赦し、愛してくれる神さまに感謝して生きる生き方です。
私たちが失望と絶望で終わるのではなく、喜びをもって生きることを、神さまは望んでいるのです。
古い自分が十字架に架けられた道
罪を赦されたということは、赦されているんだから何をしても良いということでしょうか?
いいえ、そうではありません。
私たちは自分の罪を認め、それがイエス・キリストの命を犠牲にして赦されたのだと知っているからこそ、これからの人生を改めたいと願うのです。
聖書にはこの様に書かれています。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ 6:6)
私たちの人生は、罪の奴隷だった状態から始まっています。
初めは、自分に罪があるという自覚さえない状態で、無意識の内に罪に囚われて、罪に従うままになっていました。
次に罪の意識を持ち始めると、今度は自分で罪を償おうとして、良い行いをしたり、規律・戒律に縛られる人生が始まります。
どちらにしても、そのような行動原理は罪が中心であり、私たちは罪に縛られています。
その様な状態であり続ける限り、私たちは罪の奴隷となっているのです。
しかし、“わたしは赦されている”というところから始まる十字架の道は、本当の意味で罪から開放された生き方なのです。
神さまの愛、赦された喜びを原動力とする生き方は、私たちを自由にします。
皆さんも、古い自分として生きるのをやめ、イエス・キリストが私たちの内に生きる新たらしいいのちを生きたいとは思いませんか?
ひとりでも多くの皆さんが、
- 自分の罪を認め
- 十字架による罪の赦しを受け取り
- 新しいいのちに生きる
そんな人生を歩んで欲しいと、心から願っています。
これを読んでいる皆さんも今、人生の十字路に立っています。
それは、あなたがイエス・キリストと出会い、十字架の道を選ぶかどうかの選択をするための十字路です。
キリスト教は初めてという方も、またすでに洗礼を受けたという方も、どうかこの十字架の道を選んで歩み始めてください。
クロスロード・インターナショナル教会が、そんな皆さんの手助けをすることができるなら幸いです。